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短編集  作者: 科上悠羽


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115/124

『立入禁止の手前』

 閉館後の市立美術館は、音が少ない。

 昼間あれだけ靴音とざわめきが満ちていたのに、最後の来館者が帰って照明が半分落ちると、広い館内は急に自分の骨組みだけで立っているみたいになる。

 白い壁、低い空調の音、磨かれた床に映る非常灯。

 その静けさの中でだけ、南雲理生は自分の呼吸の癖まで聞こえる気がした。


 理生は学芸員補佐として、この美術館に勤めて四年目になる。

 展示の準備、作品リストの管理、借用書類の確認、作家との連絡、搬入立ち会い。

 要するに、誰かが「作品を見せる」と言う前に、その周りにある面倒を全部整える仕事だ。

 向いている。

 細かい確認も、段取りも、先回りも苦ではない。

 むしろ、苦ではなさすぎるところが問題だった。

 整える役に慣れすぎると、ときどき、自分が何を見たくてここへ来たのかだけが薄くなる。


「まだ残ってたんだ」


 展示室の奥から声がして、理生は振り返った。

 脚立の横に立っていたのは、今回の企画展の担当作家、霧島柊司だった。

 三十六歳。インスタレーション中心の作家で、国内ではそこそこ知られている。

 高い作品を作るタイプではない。

 その代わり、置かれた空間の空気ごと少し変えてしまうようなものを作る。

 今回の展示もそうだった。

 白い糸、薄いアクリル板、細い照明だけで、歩く人の影がゆっくり作品へ取り込まれていく。

 派手ではないのに、見たあとで少しだけ息の仕方が変わる。

 理生はそれが悔しいくらい好きだった。


「霧島さんこそ」

 理生は手元のチェック表を閉じた。

「もう帰ったかと思ってました」

「さっきまで修正の立ち会い」

 柊司は壁際の作品を見上げる。

「明日の内覧会、記者の人たち来るんでしょ」

「来ます」

「嫌だな」

「今さら」

「今さらでも嫌なものは嫌」

 そう言って笑う。

 その笑い方が少しだけ子どもっぽくて、理生は毎回困る。

 作家として前に立つときはもっと澄ました顔ができるくせに、準備の裏側へ入ると急に人懐こくなるのだ。


 困るのは、それを自分が嫌いではないことだった。

 むしろかなり好きな部類に入る。

 だがそれを認めるのは、いろいろ面倒だった。


 相手は外部の作家。

 展示が終われば基本的にこの館とは切れる関係。

 理生は職員で、柊司は招聘作家。

 距離感を間違えれば、仕事が雑になる。

 少なくとも理生は、そういう言い訳でこの一か月をやり過ごしてきた。


 けれど現実には、その「距離感」は最初から少し危なかった。

 搬入初日、作品の位置決めで意見が食い違ったときもそうだった。

 理生は導線上危ないと主張し、柊司は「危なさが必要なんです」と譲らなかった。

 結果として理生が勝った。

 その夜、柊司は自販機の缶コーヒーを片手に言ったのだ。

「あなた、正しいのに冷たくないから厄介だね」

 あの一言から、たぶん少しずつ線が見えにくくなった。


「何の確認してたの」

 柊司が近づいてくる。

「キャプションの位置と誘導テープ」

「まだ気になる?」

「気になりますよ。明日こける人がいたら困る」

「こけないよ」

「みんな霧島さんみたいに空間把握うまいわけじゃないんです」

 理生が言うと、柊司は足元の黒いテープを見て少し笑った。

 作品に近づきすぎないため、床へ薄く貼られた境界線。

 立入禁止というほど強いものではない。

 でも「ここから先は作品側の空間です」と示すための、静かな線だった。


「線ってさ」

 柊司が言う。

「引いた瞬間に見えるくせに、守るかどうかはだいたい人に任されるよね」

「作品の話ですか」

「半分」

 その「半分」が、やたらと耳に残った。


 理生はわざと話を逸らした。

「明日の動線、入口右回りに変えます」

「強引」

「守るためです」

「何を」

「作品を」

 即答したあと、自分でも少しだけ可笑しかった。

 作品だけだろうか、と心のどこかで思ったからだ。


 内覧会の朝は、案の定ばたばたした。

 記者の受付、資料配布、照明チェック、空調の最終調整。

 柊司は取材対応で連れ回され、理生は館内を走る。

 同じ空間にいるはずなのに、午前中はまともに言葉も交わせなかった。

 そのほうが楽なはずなのに、どこかで少しだけ物足りないと思っている自分がいて、理生はそれがいちばん嫌だった。


 昼過ぎ、ようやく人波が少し引いたころ、理生はバックヤードの小さな流し台で紙コップを洗っていた。

 そこへ、柊司が現れた。


「逃げてる?」

「仕事です」

「嘘。今ちょっとだけ逃げてた」

「作家って、人の嫌なとこ見つけるの好きですよね」

「作品の材料になるから」

「最低」

「よく言われる」


 柊司は流し台の脇へもたれて、水を一口飲んだ。

 首元のシャツが少しだけよれている。取材で何度も同じ質問をされた後の、少しくたびれた顔だ。

 その顔を見ると、理生の中の警戒が少しだけ薄くなる。

 そこがいちばん危ない。


「午前中、ありがとう」

 柊司が言った。

「記者の人、あんたの説明のほうが分かりやすいって言ってた」

「それは館の説明担当なんで」

「そうじゃなくて」

 柊司は理生を見る。

「俺の言いたいこと、ちゃんと別の言葉へしてくれたから」

 理生は返事に困った。

 褒められ慣れていないわけではない。

 でも、この人から言われると少し困る。

 作品の輪郭を誰より気にしている人に、自分の仕事の芯を見つけられた感じがしてしまうからだ。


「仕事です」

 結局またそれを言うと、柊司は少しだけ目を細めた。

「便利な盾だね」

「職業ですから」

「うん」

 そこで一拍置いて、静かに続ける。

「でも、それだけじゃないでしょ」


 その言い方が、やけに近かった。

 理生は紙コップを拭く手を止めた。

 こういう瞬間が嫌いだった。

 あと少しで戻れなくなる感じがするからだ。


「霧島さん」

「うん」

「それ以上は、たぶん良くないです」

 柊司はすぐには何も言わなかった。

 軽く流すかと思った。冗談だったことにするかと思った。

 でもしなかった。


「良くないって」

 柊司が言う。

「仕事のため?」

「それもあります」

「“それも”ってことは、他にもある」

「ありますよ」

 理生は顔を上げた。

「展示が終わったら、霧島さんはまた別の場所へ行く。私はここに残る」

「うん」

「そのくらい分かります」

「うん」

「だから」

 そこで初めて、理生は言葉を探した。

 仕事だから、では足りない。

 線を引くなら、もう少しちゃんと自分の言葉で引かなければならない。


「今ここで、仕事以上の顔をされると困るんです」

 理生は言った。

「困るし、たぶん、すごくうれしいから」

 口にした瞬間、耳の奥まで熱くなった。

 やってしまった、と思った。

 言わないで済むなら、そのほうがずっと楽だったのに。


 柊司は黙っていた。

 バックヤードの換気扇だけが、無意味に真面目な音を立てている。

 理生は逃げ出したくなったが、逃げたらそれこそ一番みっともない気がして、その場に立ち続けた。


「……それ、ずるいな」

 ようやく柊司が言った。

「どこが」

「ちゃんと線引くくせに、こっちが越えたくなることも言うから」

 理生は思わず笑いそうになった。

 この人は本当に、こういうときまで真っ直ぐなのか、ただ不器用なのか分からない。


「越えないでください」

 理生が言うと、柊司はゆっくり頷いた。

「今はね」

「今は?」

「展示終わるまでは」

 それを聞いて、理生は少しだけ眉を寄せた。

「終わったら越えていいみたいな言い方」

「違う?」

 その問い返しが、卑怯なくらい静かだった。

 理生は返せない。

 否定したいのに、喉の手前で言葉がうまく形にならなかったからだ。


「……まだ分かりません」

 結局そう言うと、柊司は小さく笑った。

「それなら十分」

「何が」

「線のこっち側に、俺だけ立ってるわけじゃなかったって分かったから」

 それだけ言って、柊司はコップを流し台へ置いた。

 それ以上近づいてこない。

 それ以上言い足さない。

 その抑え方が、逆にずるいと思う。


 内覧会の残り時間、理生はずっと忙しかった。

 受付に戻り、来客リストを確認し、館長に呼ばれて資料の不足を取りに走った。

 体を動かしているあいだは助かる。

 頭の中の温度が少しだけ下がるからだ。

 でも、そのたびにさっきの会話が少しずつ別の角度で戻ってくる。


 仕事以上の顔をされると困る。

 困るし、うれしい。

 こんな言葉を自分が口にする日が来るとは思わなかった。

 もっと大人になってからしか言えないと思っていたし、そもそも一生言わずに済ませるつもりでいた。

 なのに今日は、床へ引かれた一本のテープみたいに、言葉が先にそこにあった。


 閉館後、展示室の照明が再び半分落ちる。

 客のいない空間は、昼より少しだけ作品に近い顔をする。

 理生は最後の巡回で、問題の床テープの前に立ち止まった。

 線は相変わらず薄い。

 意識して見ないと気づかない程度だ。

 それでも、人はそこでちゃんと足を止める。

 越えないようにというより、越えるかどうかを一瞬だけ自分で決めるために。


「考えごと」


 背後から声がしても、理生はもう驚かなかった。

 振り向くと、柊司が展示室の入口に立っている。

 昼間より少し静かな顔だった。


「巡回です」

「嘘」

「今日はみんな鋭いですね」

「今日は、だろうね」

 柊司はゆっくり歩いてきて、テープの手前で止まった。

 理生もそのまま動かない。

 二人の足元に、一本の薄い線。


「俺、明後日には帰る」

 柊司が言う。

「知ってます」

「知ってて、昼の返事?」

「知ってるからです」

 理生は答える。

「終わりがあるの分かってるものほど、雑に始めたくない」

 柊司は少し黙ってから、頷いた。

「それも分かる」

「それも?」

「俺は、終わりがあるから始めたいと思うほう」

 理生は思わず笑った。

「相容れないですね」

「だろうね」

 でも、その返事はどこか楽しそうだった。


 少しの沈黙があった。

 空調の音だけが高い天井へ流れていく。

 作品のアクリル板に、二人分のぼんやりした影が重なっている。


「じゃあ、一個だけ聞いていい」

 柊司が言う。

「何ですか」

「展示が終わって、俺が帰る日」

 理生は息を止める。

「駅まで、送ってくれる?」

 それは告白よりずっと曖昧で、でも曖昧なぶんだけ余計に逃げ道の少ない頼み方だった。

 理生はすぐに答えられない。

 送るだけなら仕事の延長と言える。

 でもその帰り道で、たぶん何かが変わる。

 変わってしまうと分かるから、言葉が出ない。


「……それ、ずるいです」

 ようやく言うと、柊司は笑った。

「お互い様」

 その通りで、理生もそれ以上は責められなかった。


「分かりました」

 理生は視線を少しだけ落とす。

「送るだけなら」

「うん」

「送るだけです」

「今はそれでいい」

 “今は”。

 またその言い方だと思ったが、今日はもうそこを咎める気にはなれなかった。


 展示室を出るとき、理生は一度だけ足元の線を見た。

 越えたわけではない。

 まだ、こっち側だ。

 けれど立ち止まったままでもない。

 その半端さが、今夜の自分にはちょうどよかった。


 閉館後の美術館は、相変わらず音が少ない。

 でも、さっきまでと同じ静けさではなかった。

 白い壁も、非常灯も、薄い境界線も、その向こうにまだ言葉になっていないものがあると知ったあとの静けさだった。

 理生はバックヤードへ戻り、明日の確認資料を束ねる。

 指先はいつも通り動く。

 なのに胸の奥だけ、少しだけ違う速度で鳴っていた。


 線は、越えるためだけにあるのではないのかもしれない。

 自分がどちら側に立ちたいのか、ようやく考えるためにある線もある。

 そう思えたので、薄暗い廊下を歩く足音は、来たときよりほんの少しだけ軽かった。


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