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短編集  作者: 科上悠羽


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120/123

『工具箱のふたを閉める』

 商店街のいちばん奥にある「秋元電機修理店」は、夕方六時を過ぎてもわりと明るい。

 看板は古いし、ガラス戸の文字も少し掠れているが、店の奥でいつも何かしらの半田ごてが熱を持っていて、そのせいで空気まで少しだけ起きている感じがする。

 ラジカセ、炊飯器、古い扇風機、たまにラジオ。今どき買い替えたほうが早いものばかり持ち込まれる店だ。

 けれど、壊れたものを直してまた使う人間がいなくなったわけではない。

 だから店は、まだなんとか続いていた。


 秋元蓮は、その店で働いている。

 三十三歳。店主は父だが、実際の細かい修理はもう蓮のほうが多い。

 配線の癖を見るのも、接触不良を探すのも、地味なくせに案外性に合っていた。

 向いている。

 ただ、向いていることと、それを自分の一生の仕事だと迷いなく言えることは、やっぱり少し違う。


 その日、店のカウンターの端には、小さな段ボールが二つ置かれていた。

 一つは、テープでぐるぐる巻きにされた参考書の束。

 もう一つは、ノートや筆箱や、電卓や、妙に使い込んだ関数電卓のケースや、そういう「高校三年生の机の引き出し」みたいなものがそのまま詰まっている箱だった。

 明日、それらはこの町を出る。


「蓮さん、これさあ、もう入んない」


 店の奥から声がした。

 振り向くと、カーキ色のパーカーを着た細身の男が、床に開いたスーツケースの前で膝を抱えている。

 春人。十九歳。

 向かいのアパートに母親と二人で住んでいて、小学校五年のころから、この店へ出入りしていた。


「入んないって、何が」

「全部」

「そりゃ全部は無理だろ」

「いやでも、必要なんだよ」

「必要な物が多すぎるのは、だいたいそんなに必要じゃない証拠」

 蓮が言うと、春人は不満そうに口を尖らせた。

「それ、いつも言う」

「いつも本当だからな」


 春人は明日、札幌へ行く。

 専門学校の寮に入るのだ。

 電気設備の資格を取るための学校で、本人いわく「手で覚える仕事が向いてる気がする」らしい。

 それを聞いたとき、蓮は少しだけ可笑しかった。

 小学生のころ、漢字ドリルより分解したラジオの仕組みのほうに目を輝かせていた子どもが、そのまま大きくなっただけに見えたからだ。


 春人の母、美里は看護師で、夜勤も多い。

 昔から帰りが遅い日には、春人はこの修理店の奥で宿題をしていた。

 店のラジオを聞きながら算数の問題を解き、分からないところだけ聞いて、飽きたらドライバーを持ちたがって怒られる。

 蓮は別に、積極的に面倒を見たわけではない。

 気づいたらそこにいたし、気づいたら夕飯前まで居座るようになっていただけだ。

 それが、中学でも、高校でも、続いた。

 進路の相談も、バイトの愚痴も、好きだった子に振られた話も、だいたいこの店の裏で聞いた。

 だから蓮の中で春人は、近所の子どもとも弟分とも違う、もう少し妙な位置にいる。


「蓮、これ外しとけ」

 父が作業台の向こうから言った。

 スーツケースのチャックへ付いていた謎のキーホルダーを指さしている。

「壊れる」

「だよな」

 春人は渋々外した。

「でもこれ、中一の修学旅行のやつ」

「そういうのが場所食う」

「情緒ないなあ」

「荷物整理に情緒入れんな」


 そう言いながら、蓮は自分でも妙な苛立ちを感じていた。

 春人が進学するのはいいことだ。

 当たり前だ。

 こんな町でずっと燻っているより、外へ出たほうがいい。

 手で覚える仕事が好きなら、なおさら早いほうがいい。

 全部分かっている。

 分かっているのに、段ボールが一つずつ店の外へ出ていくたび、胸の奥のどこかが少しずつ冷える。


 夕方、美里が夜勤前に顔を出した。

 制服の上へカーディガンを羽織ったまま、疲れているのに妙に目だけは明るい。


「すみません、今日も」

「いつものことだろ」

 父が言う。

「明日、朝早いんだろ? もう荷物ほぼ終わったぞ」

「ほんとですか」

「こいつが“ほぼ”を認めるまで二十分かかったけどな」

 蓮が言うと、美里は笑った。

「春人、小さいころからそういうとこある」

「知ってる」

 知っている、という返事が自然に出た。

 知っていることが多すぎる。

 朝が弱いこと。

 計算は速いのに字が雑なこと。

 怒られると黙るくせに、五分後にはたいてい忘れていること。

 そういう細かいところを知りすぎている相手がいなくなるのは、思っていたより変な感じだった。


「蓮さん」

 美里が急に少しだけ真顔になった。

「明日、駅まで来ます?」

「え」

「いや、無理なら全然」

「……」

「春人、平気な顔してるけど、多分ちょっとだけ変なテンションだから」

 本人は奥で延長コードを巻いている。

 たしかに、朝から妙に喋る量が多い。

 静かなときのほうが、むしろ平常運転の人間なのに。


「行けたら行く」

 蓮が言うと、美里は軽くうなずいた。

「助かります」

 その「助かります」が、少しだけひっかかった。

 今までずっと、この店の奥で面倒を見ていたことも、夜が遅い日に夕飯前まで置いていたことも、結局のところ「助かる」役割の延長だったのだろうか。

 そう思うと、少しだけ腹が立つ。

 でも、腹が立つ自分がみっともないことも分かっていた。


 夜、店を閉めたあと、春人がまだ奥に残っていた。

 スーツケースの前ではなく、修理台の横の古い丸椅子に座っている。

 そこは、昔から春人の定位置だった。

 宿題をしたり、居眠りしたり、蓮の工具の音を聞いたりする場所。


「帰んねえの」

 蓮が言うと、春人は足元を見たまま返した。

「もうちょい」

「明日早いぞ」

「分かってる」

 それでも動かない。

 蓮は作業台の上を片づけながら、少し迷った。

 こういうとき、余計なことは言わないほうがいい場合もある。

 でも黙っていると、それはそれで何か大事なものを置き去りにする気もした。


「……不安?」

 結局そう聞くと、春人は少しだけ笑った。

「そりゃね」

「だろうな」

「でも、楽しみでもある」

「だろうな」

 同じ返事をすると、春人は口元だけで笑う。

「蓮さん、そういうとこ雑」

「うるさい」

「でも助かる」

 またその言葉だ。

 今日だけで何回目だろう。

 蓮は工具箱のふたを閉じた。


「助かる、ってさ」

 自分でも少し意地の悪い声だと思った。

「お前ら親子、便利に使うよな」

 春人が顔を上げる。

「え」

「いや別に」

「何それ」

「何でもない」

「何でもなくないじゃん」

 そこで蓮は少しだけ後悔した。

 こんな言い方をしたいわけではなかった。

 でも今日は、ずっと胸のどこかへ溜まっていたものが、うまく形を選ばずに出てくる。


「蓮さん」

 春人が真っ直ぐに言った。

「俺、便利だから来てたわけじゃないよ」

「……」

「ていうか、便利なのはこっちだし」

「意味分かんねえ」

「だって、この店さ」

 春人は丸椅子をくるりと半回転させた。

「帰る前に一回寄ると、何かもう今日終わった感じしたんだよ」

 蓮は返事ができなかった。

 春人は続ける。

「母ちゃん仕事だし、家帰っても一人のとき多かったし、でもここ来ると、とりあえず誰かいるし」

「……」

「別に優しくされたかったわけでもなくて」

「されてないしな」

「うん、してない」

 春人が笑う。

「でも、ここにいると、何かちゃんと今日の続きがある感じした」

 その言い方は、ずるいと思った。

 そんなふうに言われたら、こっちはもう役割だの便利だのと、安っぽく拗ねている場合ではなくなる。


「だからさ」

 春人は少しだけ言いにくそうに頭を掻いた。

「駅、来てよ」

 蓮は目を細める。

「母ちゃんに言われた?」

「それもある」

「それも、って何だ」

「俺も、来てほしい」

 そこまで言うと、春人は少しだけ視線を逸らした。

 十九歳にもなって、まだこういう顔をするのかと思う。

 でも、その半端な格好悪さが少しだけ愛しかった。


「分かった」

 蓮が言うと、春人はようやくちゃんと息を吐いた。

「よかった」

「ただし朝寝坊したら行かねえ」

「それは俺じゃなくて蓮さんでは」

「うるさい」


 翌朝、駅のホームは思ったより人が多かった。

 平日の通勤通学の流れに混じって、春人の大きなキャリーケースだけが少し場違いに見える。

 美里は仕事前なので送るだけ送って先に離れた。

 ホームには、蓮と春人の二人が残る。


「切符なくすなよ」

「なくさない」

「寮着いたら連絡しろ」

「する」

「工具触る前に説明読め」

「それは無理」

「そこで即答すんな」


 言うことはいくらでもあるのに、どれも肝心ではない気がした。

 むしろ、肝心なことほど口へ出すのが面倒だ。

 頑張れ、とか。

 寂しい、とか。

 行ってこい、とか。

 そういうのは、言った瞬間に自分のほうが負ける感じがする。


 電車が入ってくる。

 ブレーキの音が濡れたホームへ広がる。

 春人がケースの持ち手を引き上げる。

 いよいよ本当に行くのだと、そこで急に実感が来た。

 今まで何百回もこの店の裏で夕方を過ごしてきた子どもが、今日から別の町で別の生活を始める。

 当たり前のことなのに、胸の奥だけが少し遅れて理解する。


「蓮さん」

 春人がドアの前で振り返る。

「何」

「……ありがとね」

 それだけだった。

 長い挨拶も、泣きそうな顔もない。

 その短さが、逆に春人らしいと思った。


 蓮は一瞬だけ、ちゃんと何か返そうとした。

 立派な言葉でも、分かりやすい餞でもいい。

 でも結局、口から出たのは思っていたよりずっと軽い音だった。


「それじゃあ、バイバイ」

 春人が少しだけ目を丸くする。

「軽っ」

「重くすんの嫌だろ」

「まあ」

「じゃあそれでいい」

 春人は一拍置いて、ふっと笑った。

「うん。それでいい」


 ドアが閉まる。

 電車がゆっくり動き出す。

 春人は窓の向こうで一度だけ手を上げた。

 蓮も上げる。

 それ以上のことは、何も言わなかった。


 電車が見えなくなったあとも、ホームには少しだけ湿った風が残っていた。

 蓮はその場でしばらく動かなかった。

 別れたのだ、という感じは、思っていたより薄い。

 終わったというより、役目が変わった感じに近い。

 毎日そこに来る子どもではなくなる。

 でも、だからといって他人になるわけでもない。

 その曖昧さが、妙にちょうどよかった。


 店へ戻ると、裏の丸椅子がいつも通りそこにある。

 昨夜、春人が座っていた位置のままだ。

 蓮は少しだけ見つめてから、工具箱のふたを開けた。

 仕事はある。

 炊飯器の接触不良、ラジオのノイズ、扇風機の首振り不良。

 どれも、今日中にやるべきことだ。

 その「今日中」の中へ、自分の気持ちがきれいに収まらなくても、別にかまわない気がした。


 昼過ぎ、父が半田ごてを置きながら言った。

「静かだな」

「だな」

「寂しいか」

 蓮は少しだけ考えてから答えた。

「まあな」

 父はそれ以上言わなかった。

 言わない代わりに、修理待ちのラジオを一台、蓮のほうへ押してよこした。

「これ、やっとけ」

「急に現実」

「現実だからな」

 その雑さが、今日はありがたかった。


 夕方、閉店前にスマホが鳴った。

 春人からだった。


【寮ついた】

【工具箱でかい】

【あと同室のやつが話うるさい】

【でもたぶん何とかなる】


 蓮はその短い文面を見て、口元だけで笑った。

 たぶん何とかなる。

 その雑な強さも、昔から変わらない。

 返信は少し迷ってから、短くした。


【ならいい】

【困ったら連絡しろ】

【でもまず自分でやれ】


 送ってから、店の外へ出る。

 商店街の夕方はいつも通りだった。

 パン屋の匂い、八百屋の声、少し遅れて帰る学生の自転車。

 何も変わっていないようでいて、同じではない。

 そういう日なのだろうと思う。


 別れというのは、全部を切ることではなくて、今までの呼び方を一つ手放すことなのかもしれない。

 面倒を見る側と、面倒を見られる側。

 預かる店と、預けられる子ども。

 そういう関係が終わっても、残るものは残る。

 だったら最後の言葉は、案外あれくらい軽くていいのかもしれなかった。


 蓮は店のガラスへ映る自分を少しだけ見て、それからシャッターを下ろした。

 明日もまた、店は開く。

 丸椅子も、工具箱も、作業台もそのままだ。

 けれどその中に、ちゃんと一つ分の空白ができた。

 その空白を、今日は無理に埋めなくていいと思えた。

 役目を終えたら、少し広くなる場所もある。

 そうやって、関係は次の形へ行くのだろう。


 閉じたシャッターの向こうで、ラジオの低いノイズがまだ少しだけ残っていた。

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