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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
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077 薪木

 伯爵が連れて来た新看護師のことを、病院付の兵卒たちは伯爵看護師と呼んでいた。彼女の名前は聞いたはずだが、とんと記憶に無い。本来、重傷者用の個室として確保してあった離れを独占し、専従の兵卒までつけて貰っているうえ、食事は伯爵の病床で介助を兼ねて御相伴だから、顔を合わせる機会が少ない。すぐ近くにいながら、他の看護師たちから聞かされる噂話で消息を知ることが多い。


 彼女の部屋には医長の配慮により官給の灯火が貴重な石油とともに備えられ、暖炉の燃料として高価な薪木が与えられた。他の看護師たちの部屋では、馬の寝藁に使った藁屑や黄梁の藁などを、紙塵や木箱を潰したものと混ぜて燃料としており、煙も出れば匂いもした。先住の看護師たちは「同じ看護師だと思えば腹が立つ」とて、伯爵看護師のことを伯爵の侍女だと思うようにしているそうだ。


 伯爵はハルピンまでの後送列車への引き継ぎを長く待たされ、その間に中耳炎は全快してしまった。入院に飽きた伯爵は退院して行ったが、伯爵看護師は依然として病院から与えられた個人用宿舎に居続けた。而して、いまや毎夜遅くまで伯爵看護師の住んでいる侘しい納屋の前には軍団司令部の馬車が駐まっているか、もしくは伝騎が控えているか、伯爵の乗馬が繋いであるか、いずれにせよ粗末な家屋には不似合いな光景が見られる。


 スルタノフ病院の看護師で美貌を知られたウエラ・ニコラエフナはハルピンでチフスから快復したが、そのままハルピンの衛戍病院で勤務することになった。もとの病院に戻りたくない理由は、何となく察せられる。その補充として、伯爵看護師はスルタノフ病院に転属となった。わが病院から派出した専属の兵卒が、スルタノフ病院の兵卒と交替しただけで、相変わらず伯爵看護師は個人用宿舎の納屋に住み続けた。


 伯爵看護師は、正規看護師として毎月80ルーブルの俸給を受けた。わが病院の特志婦人は両名とも看護師資格を持ち、勤務経験もありながら、無給だった。女の兄貴は「第一線に立ちたい」と熱望し、仮繃帯所が開設される機会を待ちながら、無給の立場に甘んじている。平素から「血を見ることが出来ない」などと公言する伯爵看護師には国民の膏血80ルーブルが支払われ、一度も病者を扱ったことがない例の首席看護師は金牌の栄誉を受けたのだ。


 このところ、夕焼け空の彼方に破裂する榴霰弾の火炎を見なくなった。わがロシア軍による翼包囲の運動は頓挫して、いまや撤退を掩護するための砲撃も止んだということらしい。この作戦は、新来のグリッペンベルグ大将が最高司令官たるクロパトキンの鼻を明かそうとして起こしたものだと聞いた。そのために酷寒のなかでの戦いを将兵に強いて、およそ10,000と見られる死傷者が出た。作戦を指揮したグリッペンベルグ大将は病と称して帰国してしまったそうだ。


 おそらく、ノギ軍が奉天正面へ到達する前の最後の機会に、一気に形勢逆転させようとしての作戦だったろう。その最後の機会が失われたことにより、あとはノギ軍とオオヤマ軍とが合してから決戦に及ぶこととなろう。それは春の到来を待ってのことか、あるいは結氷期が去る前に凍結した河川を踏み越えてのこととなるのか、兵科将校の誰に訊いても「わからない」という。わかっているのは、塹壕のなかで動かずにいても、凍傷や呼吸器系感染症により将兵が倒れ、あるいは凍死することで、兵力が磨り減っていくということだ。

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