076 銘酒
伯爵が連れて来た新看護師は
「漏れ承るところによりますと、あたくしが参りましたことで、移転の際に御迷惑をおかけするそうですね」
と、医長に言った。医官や同僚看護師、特志婦人、そして実際に迷惑する立場である主計官などは眼中にない。無視しているというより、ごく自然に見えていないかのようだった。
「いや、一向に構いません。たいがい移転は半日行程の距離なので、二往復すれば済むことです」
そう答えた医長の口ぶりは皮肉まじりに聞こえたが、新看護師は満足そうな笑みを湛えて応じた。
数時間後、新看護師は馬車に満載した私物を運び込んだ。呆れるほど沢山の箱や行李が運び込まれた。看護師たちが居住するのは3人部屋が二つで、ただでさえ狭苦しい。そこへ7人目が大荷物を携えて入り込んだのだ。先住の看護師たちは新看護師に様々な業務について指導しようとしたが、まるで聞こえていないかのように聞き流された。血を見ることが出来ぬとて傷者から遠ざかり、感染を恐れて病者に接することを怖がり、看護師として働かせることは無理だった。
新看護師はスルタノフの姪と異なって傲慢さが無い。掃除や片付け等の雑務は非常に熱心な態度でこなした。そして、一通り雑務を済ませるとずっと病床の伯爵に寄り添って日を暮らしたので、少なくとも業務の邪魔にはならなかった。その一方で、伯爵は病院にとって困った患者だった。食事に出た肉汁が不味いとて、主計官を呼びつけて叱責して以来、すっかり萎縮した主計官は一時間ごとに伯爵の顔色を窺っていた。伯爵は視界に主計官の姿を認めるや
「少し葡萄酒を飲むくらい、そう悪いことでもあるまい」
と、聞こえるように独言した。主計官はマディラ酒を伯爵の元へ持って行き、
「御快復の御祝いのために用意してございます」
そのさきは小声になって
「のちほど小瓶に分けてお持ちします。医官や看護師には内密に」
と、告げた。このマディラ酒は、前に入院していた患者の見舞品として持ち込まれたのを没収したまま隠匿していたものだと、あとで主計官から聞いた。
どんな野戦病院でも入院中の病者に飲酒を許すところはあるまい。伯爵は中耳炎での入院だが、飲酒して血行が良くなり過ぎれば炎症や痛みが悪化する。しかし、そうなったところで苦しむのは当人なのだし、私は話を聞かなかったことにした。
マディラ酒を与えて以来、伯爵は入院生活について概ね満足している様子で、医官や看護師に対しても和やかに接するようになった。しかし、
「吾輩が多くを望まぬのは、病院で働く人々を思ってのことですぞ」
と、恩着せがましいことを何度も口に出した。貴族社会の上層とも交際がある伯爵ゆえに、ふだんは食卓に三鞭酒が必須であるのに、前菜も菓子も無い病院食で満足している……と、当人は言いたいらしい。
われらが医長は伯爵を歓迎しなかったが、その存在には利用価値があることに気づいた。赤十字寄贈品の分配を請求する際、伯爵が入院していることを口実に菓子を請求すると、高級な酒や煙草等、請求しない物までが送られてくるのだ。医長は、それら高級品を惜しみなく椀飯振舞した。われわれ病院従事者をはじめ、たまたま自分を訪問してきた知人などにも、高級な巻煙草を与え、火酒や葡萄酒で饗応し、すっかり吝嗇家の看板を返上してしまった。察するに、送られた寄贈品が高級すぎて、換金すれば即座に足が着くからだろう。それなら気前よく消費してしまえ、というあたりが真相だろう。
これらの高級品等を仕入れた対価は、新看護師に離れの納屋を一つまるごと個室として与えることで支払われた。しかも、事実上の従卒として専従の兵卒を付けたうえでだ。そのことに伯爵は大いに満足したが、狭い部屋に押し込められた先住の看護師たちは、新看護師との待遇の差に憤った。




