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敗戦1905  作者: 大豪寺凱
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033 彷徨

 われわれは前進命令に従い、早朝に奉天を出発した。前夜の降雨のため、道路は飴のような泥濘(ぬかるみ)と化した。雨上がりの空は薄雲を透かした(やに)色の光を投げ、風はなく暖かで静かな日ではあったが、遠く南方から絶えず砲声が鈍く鳴動していた。


 われわれ医官は騎馬、兵卒たちは徒歩、それ以外の人員は4頭の馬が牽く二輪の輜重車に乗った。重そうな輜重車の上には看護師の白い前掛が遠くからでもありありと見えている。


 髪を短く切っている例の特志婦人は、灰色の軍袴を穿ち、羊皮の帽子を被って男装し、鞍上ゆたかに手綱を捌いて馬に乗っている。婦人服を着ていると非常に不快な印象があったのに、男装の彼女は惚れ惚れするような美丈夫に見えた。兵卒たちは「女の兄貴」と渾名している。


 医長は、途中で出遭ったコサック騎兵に沙河屯に至る道を尋ねた。われわれは彼が指示したとおりの道を辿って渾河に架かる橋を越え、そこから左へ向かったが、地図を見ると方角が違う。われわれは南西を目指しているのに、南東に向けて進んでいる。私は医長に、現地人の案内を頼むべきだと進言した。それには相応の謝金を支払わねばならぬのが問題だった。


 またの名を「けちんぼダヴィドフ」という名高き吝嗇家でもある医長は、私の進言を却下した。われわれは医長が「道に迷ったわい」と自覚するまで、何処までもついていくほかない。方角違いの道を進んだ挙げ句、別の橋を渡って後戻りしたのだった。泥濘の中を歩いた兵卒たちは疲れ切っており、たまさか二時間前に越した橋が見えたときは苦笑しつつ、

「医官殿、あの橋を再び渡るのでありますか」

 と、声を上げた。


 医長は地図を凝視していたが、今度はわれわれを西に向かわせた。その途中、調教が充分でない馬が、輜重車に繋がれたまま横臥せんとして転覆させてしまった。その車は心棒を折り、かつまた別の車の枠を壊した。われわれは応急修理したものの度々停止を余儀なくされ、何度も応急修理を重ねつつ進んだ。


 南方から響く砲声は間断なく、しかし、距離があるせいか弱々しい遠雷を聞くような心地だった。あの音がする方角に地獄の戦場が燃え立っていると実感することはなかったが、ただ、羞恥の念はあった。会戦は既に火蓋を切り、負傷者は地に伏しているのだ。然るに、われわれは道に迷って彷徨(うろつ)いている。


 黄昏の頃、遙かに旧市街の外郭が見えた。如何にも東洋風の曲線を帯びた屋根が聳えており、建ち並ぶ家屋から炊煙が認められる。近づいていくと、そこは紛れもなく奉天旧市街だった。驚くべし、早朝に出発した廠舎が間近に見える。なんのことはない、われわれは一日掛けて振り出しに戻ってきたのだ。


 医長は、われわれをして廠舎を迂回せしめ、市街に近い村落で大休止することとした。そして、まだ夜が明けぬうちに、前進を再開した。やがて東天に茜色の横雲がたなびき、朝靄を透かして見る光景は、恰も東洋の水彩画の如く目に映った。長閑な情景ではあったが、絶えず南方からの砲声が殷々と轟いていた。

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