032 前進
軍団司令部から命令が来た。此処にある二つの野戦病院に対し、
「猶予無く之を撤し、諸材料を携えて沙河屯に来り、同所に於いて後命を待て」
ということだ。まだ荷解が終わらないうちに、また諸道具を仕舞わなければならぬ。しかし、患者をどうすべきか。別の病院で引き取るのか、それとも後続の軍団が交替に野戦病院を設置して引き継ぐのか。
総督の視察によって鉄道の運行が妨げられたせいで、後続の軍団は直ぐには来ないようだ。また、後送しようにも病院列車が停められていて奉天に来着する見通しが立たない。だが、しかし、軍団司令部からの厳命が下ったからには、われわれは即座に撤収し、明日には移動を開始せねばならぬ。
撤収作業で庖厨所の大釜を抜き取ろうとしたところ
「われわれは患者を打ち棄てて去るのでしょうか?」
と、驚きの声をあげた看護師が居た。撤収作業を指揮していた医長は
「上からの命令は、実行せねばならぬ」
と、顔を背けたまま言った。傍に居た主計官が口を挟んだ
「無論のことです。わが師団に属する一切の後方機関が前進しています。この病院だけが留まる理由はありません」
だが、看護師は納得しなかった。
「患者を放置したまま去って良いものでしょうか?」
それは、至極もっともなことだ。だが医長は
「その責めを負うのは軍団司令部だ。また、患者をどうするかは官衙で決めることだ。われわれは明朝、命令に従って移動を開始する」
と、方針を示した。
「われわれは患者を見棄てません。医官、看護師、1名ずつ残してください」
私は断固として意見具申した。医長は暫し沈吟した後、何処かへ慌ただしく出掛けて行った。
しばらくして、電報が届いた。
「各野戦病院は、交替せられざる限り前進せしめず」
という、公然の通告が到来したのだった。前進は一時取りやめとなった。おそらく、医長が例の魔術を用いたに違いないと私は睨んだが、真相など恐ろしくて知りたくもなかった。
もし、可能ならば、われわれの病院を留め置いたまま、後続の軍団から新着した病院を荷解させずにそのまま前進させた方が手間が省けるのではなかろうか。要するに各師団ごとに野戦病院が二つあれば足りるという建前だから、その二つを入れ替えたところで実務上の問題は無かろう。
しかし、私はこの妙案が採用されないだろうことも了解している。所属する軍団が変更されるからだ。軍団長がスルタノフの姪を気に入っていて、よもや自分の軍団から手放そうなどとは考えもしないだろう。スルタノフを自分の軍団に留めるためには、残された患者に「医官も看護師もつけず、薬も与えず、布団の無い寝台に寝かせて置け」などと言いかねないのだ。
その二日後、後続の野戦病院が奉天に到着した。われわれは廠舎を明け渡し、患者を引き継いで南方へ向けて出発したが、われわれの意気は揚がらなかった。目指す方角からは、絶えず遠雷の如き砲声が響いた。沙河会戦は、いよいよ大決戦の様相を帯びてきたようだ。




