三足のわらじ
金曜日。学校が終わり、俺はバイトへ向かっていた。はるかは今朝の待ち合わせからいつも通りで、まるで昨日のゴタゴタがなかったかのようだった。授業中も、昼休みも、放課後も。舞依も同じで、いつものように起こしにいくと、いつものようにキスをねだられ(もちろん、してない)、いつものように中学へ登校する姿を見送った。
俺の周りは、そんな感じで気分が落ち込むような出来事があっても、『いつも通り』が平気で繰り広げられる雰囲気だ。多分、みんなの性格や、俺と舞依の境遇も一因なのだろう。
はるかは週末ということもあって、予定があるらしく下校は別々だった。1人、家と高校の中間あたりにある、今日のシフトのファストフード店へ走る。
「おい、ケイスケ!」
ふと、太いがしゃがれた声に呼び止められて、足を止める。聞き覚えのある声に、俺は振り返った。
そこには、背の高い老人が立っていた。紺の和服に下駄、白く長いアゴ髭に、申し訳程度に生え残った薄い頭髪が寂しげに風に煽られている。
老人がニイッと笑うと、まだ綺麗に揃っている歯が覗いた。
「師範。お久しぶり」
彼はタケミツ師範。俺が中学の時まで剣道を習ってたタケミツ道場の師範だ。亡くなった親父と知り合いらしく、小さい頃から面倒を見てくれてる。
去年の末に剣道をやめて以来、しばらく訪ねなかったことを、今さらながら思い出す。いくら環境が変わったとはいえ、ちょっと薄情な気もする。
俺はバツが悪くなって、シフトの時間が近づいていたが、少しタケミツ師範の話を聞くことにした。
「おう。といっても、半年かそこらだがな。どうだ、うまくやってるか?」
「ええ。順風満帆ですよ」
まあ嘘でも本当でもあることなのだが、自分の口からしれっと出た言葉に、少し驚いた。
「そうかそうか。マイは元気か?」
「……はい。いつも通りですよ」
表向きは。昨日、訳あって舞依を泣かせてしまったことは、あえて言わなかった。
舞依を悲しませるな――親父の最後の言葉が、また蘇る。
「それはよかった」
タケミツ師範はからからと笑った。
「しかしまあ、最初あれだけ歳上に叩きのめされて泣いてたガキが、高校生とはな」
「昔の話でしょう」
言われていい気はしなかった。当たり前だ。
「妹を守れるように、もっと強くなる――短冊に書いていたな」
「そうでしたっけ」
シラを切った。こういう小さい頃の事を蒸し返して回顧するのが、歳を食った人のコミュニケーションなのか。俺はもう、少し嫌になっていた。
師範には頭が上がらないくらい世話になってはいるが、それでも腹の立つことは腹が立ってしまう。同時に、半年前の俺なら、きっと今みたいな師範の話にも、嫌っ気一つ覚えず付き合っただろうとも思う。
変わったのは、俺の方なのかもしれない。
「忘れちゃいました。どうして剣道やってたかとか。もう、やめちゃいましたし」
昨日、俺は異世界へ行った。しかも2度だ。たった半日で、俺の心境や価値観は、まるで違う感じがする。
ちゃんと勉強する。舞依を守る。ティアラを守る。この3つを両立すると決めたはいいが、思っているよりも俺自身、不安は大きいみたいだ。
余裕を持たなければ、人の面倒を見ることはできない。16年間生きた自分なりの考えだ。俺は今、焦っている。それに気づくと、なお焦る。
「――しかし、三足のわらじを履くというのも大変だな」
俺はバッと顔を上げた。どうして、そのことを知ってるんだ?
俺が3つの役目を果たそうとしていることは――異世界へ行ったことは、少なくともこっちの世界では誰も知らないはずだ。
「学生にバイト、剣の道…………3つのことをこなすのは、生半可なものではないぞ」
俺はホッと溜め息をついた。まだ、俺が剣道を諦めていないと思い込んでいるらしい。
「言ったでしょう。剣道はやめました。舞依との生活のためには、バイトしないと。だから、もう剣道やる時間はとれないんです」
昔話や無駄に気疲れした苛立ちで、俺は棘のある口調で突き放してしまった。
すると突如、師範はギラリと――剣先のような鋭い眼光を帯びて、俺を見つめた。
師範は、たまにこういう眼をする。剣士の眼だ。
「ケイスケ。お前、まだマイのために強くなりたいという気持ちはあるか?」
突拍子もない質問に思えたが、師範が本気で問うているのは、眼を見れば明らかだ。
あの眼に睨まれては、逃れられない。誤魔化しは利かない。嘘はつけない。
俺は、スゥと息を吸った。
「ありますよ、もちろん。あるに決まってる。俺が舞依を守らないで、誰が守るんですか。俺しかいないんだ。だから、もっと……」
肉体的に。精神的に。経済的に。強くならなければならない。
「なら、わたしが今から言う言葉をよく覚えておけ」
師範の凄みが、より増す。
「お前にその気持ちがある限り、剣の道は終わらない。自らを鍛える旅は、ずっと続くのだ」
剣の道。自らを鍛える旅。師範の口から語られたのは、言葉以上の重みがある気がした。
その全てを、きっと俺はまだ背負えない。今は自分のこと――舞依とティアラのことで精一杯だ。
いつの日か。俺が2人とも守るのに十分な強さを手に入れた時。師範の言葉の意味が解るのだろうか。
「……じゃあ、この気持ちは大事に取っときますね」
努めて素っ気ない風に答えると、師範は笑った。
「けっこう。……せっかくだから、菓子でも食べてくか?」
師範は道場のドア(剣道場といえば和風な響きだが、ここの出入り口は押し引きするタイプだ)を引きながら言う。
「いや、バイトなので……すみません」
「そうか。気をつけてな。がんばるんだ」
「はい」
俺は師範に別れを告げ、バイト先へと向かった。
――そして、土曜日。今日から、俺の『三足のわらじ』生活が始まる。
高校、バイト…………異世界。学校で勉強し、バイトで舞依との生活費を稼ぎ、異世界でコムレイズとしてティアラを守る。
その、始まりの日が今日だ。
「お兄ちゃん!」
玄関で靴を履いていると、舞依が駆けてきた。その後ろには、呆れと微笑が入り混じった表情を浮かべて、はるかが壁にもたれ俺たちを見ている。
俺は座ったまま体をひねり、振り返る。舞依は満面の笑顔を見せていた。
「いってらっしゃい」
俺は立ち上がった。入学式でも、バイト初日でも、こんなに緊張したことはない。
「いってきます」
俺は、初めて自分の意思で扉を開け、異世界へ向かった。




