異世界を渡る代償
俺はバイト先にいた。目の前にはパトカーが数台と、警官がバイトの先輩や社員さんに聞き込みをしている。
突然、音もなく現れた俺に気づくのは人によって時間差があり、段々と視線が集中していくのが分かった。
ティアラの言っていた通りだ――俺が扉を開けると、異世界を行き来できる。
「新原ぁ!」
鍵を借りる時にすれ違った先輩が、怒りの形相で俺に近づいてきた。
「お前どういうつもりだよ!? 出勤したのにシフトすっぽかして、おまけに鍵まで借りパクしてよ! おかげでこっちは大変なことになってんだよぉ!」
そんな感じで、厳しい追及があった。ただバイトをサボったのであれば大したことはなかったが、鍵を借りたまま失踪したのがいけなかった。
このままでは盗難事件として事が大きくなる。警官の詰問やバイト関係者の批難の眼差しから、俺が『犯罪者』になりかけている気配を悟った。
異世界から帰って来たばかりで疲れ切った頭をフル回転させ、絞り出した言い訳は。
「神隠しに遭って――」
最初は苛立ちや呆れに満ちた対応を受けたが、鍵を渡して店長やバイトリーダーに監視カメラを確認するよう懇願した。
あのドアの真上に監視カメラがあり、出入りする人物を記録している。俺が入ったきり出てこなかったことが映っているはずだ。懸命な説得で警官も面倒そうに要求を聞き入れ、カメラの映像を確認してもらうことになった。
結果、店長が俺の『神隠し説』を半ば信じてくれ、鍵も無事に返ってきたとして一件落着となった。
取り調べが終わった頃には、もう夜の11時を大幅に過ぎていた。俺は全速力で家へ向かった。スマホで電話を掛ける知能は残されてなく、ただ一刻も早く舞依に会いたかった。
息も絶え絶えになりながら玄関前に辿り着き、おぼつかない手つきでカバンから鍵を取り出し、錠を開ける。
そこで、さっき立証したばかりの理論を思い出し、慌ててドアから離れた。ここで俺が開けたら、また異世界に戻ってしまう。代わりに家のチャイムを鳴らした。
「舞依……」
独りでに口が動いていた。バイトの日はどれだけ遅くても10時半には帰ってきていたから、きっと心配させてしまっている。
焦りで手が汗ばむ。上の灯りがサウナみたいだ。
間もなく、玄関の電気が点いて、ノブや鍵がガチャガチャ鳴ってからからドアが開いた。
「佳助……!」
現れたのは、幼なじみのはるかだった。驚いたように目を丸くして、頭のてっぺんから爪先まで見回す。
また目が合うと、今度は怒りの眼差しを向けてきた。
「――どこ行ってたの」
本気で怒った時の、低く鋭い声。俺は、はるかが家にいる理由を悟って、急速に罪悪感が芽生える。
「…………バイト」
「来てないって連絡きたって、舞依ちゃん言ってたよ」
「……舞依は?」
訊ねると、家の中からドタドタ足音が聞こえた。はるかの後ろから、舞依が顔を出す。
「お兄ちゃんっ!」
上ずった声で、泣いていたのが分かった。舞依は靴も履かずに飛び出し、俺に抱きついた。
肩が震えている。鼻をすする音がする。俺は舞依の頭と肩に手を置いた。その体は熱かった。
胸に押し当てられる頬は、真っ赤になっている。
「ごめんな、舞依。ごめんな……」
「お兄ちゃぁん…………」
俺は舞依に寄り添って、家の中に入った。鍵を閉めて、靴を脱ぎ、玄関へ上がる。当たり前のことが、ひどく愛おしい。
リビングでソファに座るよう促したが、俺から離れようとせず、一緒に座る形になった。腰あたりにしがみついて、俺がホットココアを淹れようとしても頑なに動かなかったので、はるかが代わりにやってくれた。
ココアを啜る。温かい。体の真ん中から、一気に安らぎが充填されていくようだ。俺もだいぶ落ち着いてきた頃に、ふと舞依が制服のままだと気づいた。
「舞依ちゃん、お風呂入ってないの。先に入れてきちゃえば?」
はるかが言う。もうそろそろ日付が変わるし、明日も学校があるから、夜ふかしをさせるわけにはいかない。
「舞依。もうどこにもいかないから、入っておいで」
そう諭してやんわり引き剥がそうとするも、離れない。粘着テープみたいにガッチリだ。
舞依は少し赤く潤んだ瞳を、上目遣いで俺に向けてきた。
あぁ…………久しぶりだ、これ。
「おにいちゃん…………」
縋るような声に、抗うことはできない。俺はしっかり舞依と目を合わせて、無言で『本当にいいのか?』と問う。
思わず助けを求めるようにはるかの方を見たが、『お前の役目だ』と言わんばかりに睨まれた。
俺は意を決した――中1の時以来だっけ。
「分かった。一緒にお風呂入ろう」
腰からぶら下がるような舞依を連れて、洗面台の前で服を脱ぐ。色々あったせいか、シャツにはじんわり汗が滲んでいる。
俺がズボンを下ろしたあたりで、舞依もついに観念したのか、腰から離れて自分も服を脱ぎ始めた。ブレザー、シャツ、スカートの順に舞依の体から離れ、白い肢体を露わにしていく。
ゆっくりとブラを、そしてショーツを脱いでいく。兄妹でも、自分の裸体を見せるにはやはり抵抗があるようだ。俺は舞依の恥じらう様を見ながら、反応の対照的なティアラを思い出した。
華奢でやや小さめな体を両腕で隠すように覆いながら、舞依は浴室へ入った。俺もすぐ後ろからついていく。
むわぁと蒸気が視界を遮る。浴槽には湯船が溜まっていて、舞依は手桶でお湯をすくって肩にかけ、端っこへ身を沈めた。俺も同じようにしてから、舞依に背を向ける形で浴槽へ入る。
すると、舞依はバシャアと飛沫を伴って立ち上がり、俺の立てた膝を跨いで向かい合うように腰の上へ座り直した。
「……………………」
風呂で。お互い全裸で。浴槽の中。妹が俺の腰の上に座っている。舞依が小6になった年の秋頃まで、よくこうしてお風呂には入っていたけど、俺の上に位置取ることはなかった。
しばらく沈黙が続き、俺と舞依は見つめ合う。俺は少し上体を倒して浴槽のへりに背中を預け、舞依は背筋をピンと伸ばしている。位置関係から、舞依から見下されているような錯覚に陥る。
我慢できなくなったのか、やがて舞依はバッと俺に抱きついてきた。脇の下から腕を背中へ回し、首筋に細い指が触れる。2人の平たい胸板が重なる。肩にほっぺがとんと乗る。
「ごめんね、お兄ちゃん」
ぽつ、と。舞依が呟いた。
「お兄ちゃん、いつもマイのこと考えてくれて、ずっと一緒にいてくれてるのに、マイは何もできてない。お兄ちゃんはつらいのに、マイはずるいよね…………」
か細い声を震わせ、舞依は自省する。きっと、俺がいない間、色んなことを考えたんだろう。自分の何がいけなかったのか、俺がどうして帰ってこないのか――。
俺は思わず、舞依を抱き返した。両腕を首元にぐるりと回し、ぎゅうっと抱き締める。勢い余って力み過ぎたのか、耳元で舞依が小さく『んっ』と呻くのが聞こえた。
昔の甘えん坊が甦ったのか、舞依は狭い浴槽で脚まで俺の腰回りに絡めてきた。
「ごめんな。色々、心配させちゃったよな。大丈夫。舞依は何も悪くない」
「ほんと? マイのこと、嫌いじゃないの?」
「嫌わないよ。俺は舞依の兄ちゃんだ。俺が、舞依のことずっと守っていきたい」
心が100%全部伝わることを願いながら、俺は言う。
「だけど、やっぱり環境が変わって、いつもより傍にいられる時間は減る。舞依のこと悲しませたくないけど、今まで通りには出来ない。だから…………ちょっとだけ、我慢してほしい」
正直に言った。これからは、平日は高校とバイト、土日は異世界で【コムレイズ】だ。舞依の理解を得られないと、続けられない。
「――うん」
舞依は、小さく頷いた。声は、まだ不安や寂しさを滲ませて震えている。
これが兄離れの最初の一歩になるかもしれない。そう思うことで、俺は舞依に忍耐を求める罪悪感を押し殺した。
舞依は俺の首元に顔を埋めた。首筋に薄い唇が触れ、吐息が撫でてくすぐったい。
夜。浴槽。俺たち兄妹は、強く抱き締め合っていた。




