小郡環の人生(四)
名前も知らないお祖母ちゃんの遺影が壁に飾られていて、遺影のすぐ下にお仏壇がある。お仏壇には、小銭が何枚か散らばって置いてある。100円が5枚、10円が3枚。その小銭を横目に入れながら、しゃぼん玉を吹いて遊ぶ循くんに話しかけた。
「循くん、このお家とさよならして、お外へ行こうか」
「やだ」
「え、やなの?」
「うん、ここがいい」
「でも、もうご飯がないから、ずっとここにはいられないんだよ」
「どこに行くの?」
「別のお家だよ」
「たまきもいるお家?」
「うーん、たぶん」
「たまきがいないとやだ」
「うん、じゃあ大人の人にお願いしよう」
私が行くのは自分の家じゃなくて、養護施設、という所かもしれない。だって、お母さんもお父さんも、私は戻ってこなくていいって思ってるんだから。
「家じゃなくて、たくさん子供がいる所に行くかも」
「どこ?」
「分からないけど」
「たまきもいる?」
「うん、そうだね」
「じゃあいいよ」
まだまだ肉の足りてない頬が、少しだけ上がる。ちゃんとした笑顔になっていないが、これが彼の精一杯。安心できるお家に住んで、毎日お腹いっぱいご飯を食べられたらきっともっと笑顔になってくれる。
『大人に助けを求めるのは循くんのため』、そんな言い訳を手に入れられたから、この家を出る決心が着いた。
2週間近くお世話になった家に「ありがとう」と「ごめんなさい」をして、スリッパを靴代わりに道路へ出た。食べ物がたくさんあって、誰も帰ってこないと約束されたなら、私だってずっとここにいたかった。後ろ髪惹かれる想いで一歩一歩進み、発見した公衆電話に入った。そして、背伸びをして、自宅の電話番号ではなく、”110”を押した。そうして私達は無事に警察の人に保護された。
「お祖母ちゃんのお家で暮らそう、循君も一緒に」
お父さんが経営している病院の、とても高い部屋にいる私達のところに、お祖母ちゃんと椿ちゃんが来てくれた。お祖母ちゃんは少し瘦せたみたい。涙を流しながら私を抱きしめてくれた。あの夜に起こったこと、お母さんたちが犯人にどういうつもりでお金を渡したのか、お祖母ちゃんはたぶん知っていると思う。知っているからこそ、「一緒に暮らそう」と提案してくれたのだ。お祖父ちゃんを殺した犯人の子供かもしれない循君を受け入れたのも、お祖母ちゃんなりの私への罪滅ぼしなのかもしれない。
心は冷え冷えとしたままでも、小郡のお家にいられるのは有り難いことだと思った。綺麗で大きな家、美味しいご飯、綺麗な服が与えられ、遊びにだって連れてってもらえる。歳を重ねる度に実感する。私達にとってここ以上の家はない、と。
私は常々、循にこう言っていた。
「ここで大人にならせてもらおうね。ここ以上の居場所はないよ、ちゃんとお祖母ちゃんたちの言うことを聞いて、いい子でいよう。たくさん勉強してさ、お金いっぱい貰える仕事に就いて、誰に頼らなくても生きていける大人になろう」
循は都度しっかり頷いた。実際、循はとてもいい子だった。最初は全てにおいてたどたどしく子供らしさがなかったが、それも次第に薄らぎ、一見すればどこにでもいる控えめな少年になった。
けれど、ふとした瞬間に、心があのログハウスに戻ってしまうようで、そんな時は決まって私のところへやって来て、落ち着くまで隣に座った。
「あ、また、あの幽霊さんだ。循、見える?」
「ううん」
「そっか」
「怖くないの?」
「怖くないよ。あの人、「かみよ、ゆるして、ごめんなさい」って泣いてる。なんか可哀想、早く成仏できるといいな」
思えば、そんな話をした次の日からだった。
「なんか、手足が痺れるの」
それはじわりじわりと忍び寄り、私の日常を侵食していった。
始めは本当に些細な身体の違和感、手足のしびれだった。その頃にはもう医師免許を取得していた椿ちゃんに訴えると、心配してあれこれ診てくれたが、これといった原因は見つからず。
しびれの次は呼吸のしにくさ、手足の脱力感、頭痛、腹痛、視界のぼやけ、身に覚えのない痣が発現するなど、不調のオンパレード。日常生活を送るのが少しずつ難しくなっていく。小郡病院ではない他の総合病院をいくつか回ったけれど、原因は分からなかった。
とある病院で点滴を受けて横たわる私のところに、幽霊の彼女は再び現れ、やっぱり謝罪と許しを乞うて泣いていた。「ごめんなさい、ゆるしてください」と。ああ、この人は何か罪を犯して成仏できなくて、必死に神様に謝っているんだ。でも、どうして私のところに現れるの?
幽霊の彼女が現れたその次の日、お祖母ちゃんの大腸がんが見つかった。持ってあと1年だと、泣きながら椿ちゃんが電話でお母さんに話しているのを盗み聞いた。好きな祖母が入院したが、お見舞いにも行けないほど私の体調は悪化していった。
一番辛かったのは、臭いだった。どうしてか、身体から嫌な臭いがするのだ。それも日によって違い、生ごみが腐ったような匂いの時もあれば、硫黄の匂いの時もあり、まるで人間が嫌う匂いを集めて日替わりで放出しているよう。
そして、外出先で囁かれた「あの子、臭い」の言葉に、学校はおろか外出する勇気すら完全消失し、祖母の死が決定打となって、私はついに部屋に籠るようになった。
「環、散歩に行こうよ」
「やだよ」
「ちょっとだけ。夕方の人がいない時だよ。神社の公園まで行こう。環の病気が治るように神様にお願いしたい」
今度は、循が私を連れ出す番だった。弱っていく私に、とても臭い私に、循は嫌な顔ひとつせずに接し、世話を焼いてくれた。
その日も、だいぶ細くなった身体を無理に起こして、日が落ちた街を少し歩いた。神社の中にある公園がゴール、そこで近くにある自販機でジュースを買い、ブランコに並んで座って飲む。それがここ数カ月のルーティンだった。けれどそれももう厳しくなってきた。数日前から嘔吐、下痢も頻繁で、目は落ちくぼみ視力も大幅に落ち、肌の艶は失われ老人のよう。原因が不明なのだから治療も出来ない。当然、活力もどんどん削がれていく。
「ジュース買ってくるね。環は座ってて」
駆けていく優しい少年の背を見つめながら考えた。私は、循が大人になるまで生きられないだろうな、一緒に大人になれないだろうな、と。
ぜえぜえと全身で息をしながら、ブランコにようやく腰掛ける。――その瞬間だった。ほんの一瞬、身体が宙に浮いたような感覚がして、次には地面に尻もちをついてしまっていた。ブランコに座ろうとしていたのに、なぜ。座りそこなった?
慌てて顔を見上げるが、そこはもう私の知らない場所。ブランコもシーソーも神社もない、雑木林の中に私はひとり、ぽつんと座っている。
「え、え」
声にならない声。自分の理解を軽く超えた状況に、身体はちっとも動かない。と、いうより怖くて動けない。
ふうふう、ぜえぜえ、どくどく、自分の呼吸と心臓の音がうるさい。
雑木林から、5年前の嫌な記憶を連想し、私はあのログハウスへタイムスリップしてしまったのではないかと錯覚した。最近読んだ小説がタイムスリップ物だったのも影響したのだろう。けれど、恐る恐る首を左右に動かして辺りを確認しても、あのログハウスはないし、少年の循もいない。心細くて、囁き声で循の名を呼んだ。
「っじゅん、」
もちろん返事はない。代わりに、カラスが頭上で元気に鳴き出した。おかけですっかり心臓は縮み上がり、ここから逃げ出したい衝動に駆られ立ち上がる。ふらふらになりながらも、とにかくこの薄暗い雑木林から抜け出したくて、でたらめに歩いた。頑張って進んでいけば、優しい日々を過ごしたあの家にたどり着けるはずだ、と自身を鼓舞しながら。
しかし出くわしたのはあの優しい家でも、ログハウスでも、循でもなかった。
「ひっ」
過去へ飛ばされた私が最初に出会った生き物は、熊だった。大きくて、真っ黒い熊と目が合った。驚きと恐怖、処理しきれない展開に脳から何かが液体化して流れ出てくる感覚がした。
熊と遭遇した時の対処法だとか、そんなのいざとなれば思い出せるわけもなく、大きい塊がこちらへ身体を向ける動きをしたのを見止め、反射的に背を向け走り出してしまった。そうする以外、私には選択肢がなかったのだ。
当然追いつかれるわけだが、幸か不幸か、逃げた先が小さな崖になっていて、私と熊は一緒に転がり落ちる。病に伏して久しい私の体力はもうその時点で限界を超え、落下時に頭と腰を強打したせいで起き上がることすら不可能。
対して、犬のようにぶるぶる身体を震わせながら軽々起き上がった熊はこちらへにじり寄ってくる。霞ゆく視界の中には、黒い塊、そして小さい小さい”何か”が映る。1メートルくらいの目線の先に、茶色の蛙がちょこんと座っている。
ああ、このままじゃ熊に踏み潰されてこの子も死ぬな。
「蛙さん、逃げて」
あまりにも絶望的な状況に置かれて出た場違いな台詞、それはちょっとした現実逃避だった。
自分は捨てられた子供で、拾われた先でも見捨てられ、誘拐されて殺されそうになったり焼け死にそうになったり、病気になったり、散々な人生だった。せめて温かいベッドの上で循や椿ちゃんに見守られて死ぬくらいの恩情はあると思っていたのに、私はとことんツイていない子共だったみたい。前世で悪い事でもしちゃったんだろうか。まあ、なんにしろ、これですべて終わりだ。天国か地獄か、幽霊になってさ迷うか、それとも――グシャッ。




