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君の手のひらで踊りたい。-解-  作者: 田邑綾馬


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小郡環の人生(三)

 驚きで声が出せないでいると、その女の人は段ボールや壁に手を添え、足をひきずりながら反対の壁へ向かって歩き出し、おもむろに部屋の隅を指差した。

 そこに何かがあるのだと、彼女の所作で理解した。ほぼ無意識のうちに少年を抱きかかえ直し、彼女のいる場所へ走った。


 彼女が指差す先、段ボールと壁の隙間を覗くと金属の何かが見えた。隙間に身体をねじ込ませ、力の限り段ボールを押しのけていくと、ちょうど子供が抜け出られそうな大きさの換気口が姿を現した。格子状になっている換気口の蓋に指を突っ込み、力任せにがしゃがしゃと動かしているとネジが緩んだのかあっけなく外れた。中を覗いてみると、雑草が見えた。外に繋がっている。


 そこからの記憶は若干曖昧だが、まず少年を換気口に押し込み、次は自分だと頭を突っ込むもなかなか前に進まず暴れていると、優しい手がお尻を押してくれ、ログハウスから無事脱出。不安そうにしている少年を抱きしめたところで、排気口から大量の黒煙が噴き出してきた。私達は大急ぎでその場を離れた。


 あのままじゃ家は全部燃えて、近くの木にも燃え移って、また他の木も燃えて、この辺り一帯が炎に包まれてしまうかもしれない。急いで逃げなきゃいけない、でも、あの火事は私達のせいだ、近くに住んでいる人がいたらどうしよう。


 あれこれと考えを巡らせながら、少年と手を繋いで道を歩いた。よもや付近に犯人らがいるはずはないと思うが、一応辺りを気にしながら舗装された林道を抜け、コンクリート道へ出た。

 あのログハウスは相当奥まった場所にあったのか、道路に出ても人影も車もなく、静かだった。


「ここ、どこだろうね。分かる?」


 脱出後、一心不乱に歩みを進めていたので、それがあいつらから解放されての第一声。ログハウスにいた頃と同様に少年は何も話さず、代わりに首を横へ振った。初めて意思疎通ができて、少し感動した。


「もう少し歩こうね。大丈夫?歩ける?」


 少年は立ち止まったまま、なぜか靴下をいそいそと脱ぎ、私の方へ差し出してきた。言葉はないが、なんとなく意味は分かる。私は裸足で、泥だらけで、出血もしていたから、”これを履いて”って言いたいのだろう。


「大丈夫、きみが履いてて。私はお姉さんだから大丈夫なんだよ」


 見栄を張った。汚れて傷ついた自身の足を目視したら痛みを自覚して、本当は一歩も歩きたくなかったけど、あのログハウスから一歩でも遠く離れたくて頑張った。


 だからって、行き場はない。自分の家には帰りたくない。誰も私を待っていない。お祖母ちゃんと椿ちゃんはどうだろう、やっぱりお母さんたちと一緒かな。私なんか要らないかな。どうしよう、この子もいるのに。


 疲労困憊の子供2人には、2キロ歩くので精一杯。小休止に選んだのは、小さな平屋の民家だった。カーテンが閉められ、玄関戸のポストには新聞や封筒が入りきらず地面に落ちていて、家主不在と一目で分かるそこへ少年の手を引いた。


 さすがに玄関戸は閉まっている。雑草が生い茂る裏庭へ回ると、水栓柱があって蛇口をひねると水が出た。人がいない家は電気や水道は止まるって聞いたことがあるから、ここに住んでいる人は数日留守にしているだけかもしれない。

 とりあえず少年に水を飲ませる。随分と長く、ごくごく飲んでいる。


 そして、ここが不思議なポイントだったのだが、窓はすべて施錠させているのに裏の戸の鍵は開いている。物騒だ。恐る恐る、室内に入る。人が住んでいない家の匂いがした。この家に今現在、住んでいる人はいない、きっとしばらく戻ってこない。遠くで鳴る救急車のサイレンを聞きながら、そう確信した。

 私達はその家で、穏やかで優しい2週間を過ごすことになる。


「着物を着た幽霊だったね、あの人、きっと私達を助けてくれたんだよ」


 私はそう言って口角を目いっぱい上げた。幽霊の真意なんて分かるはずもないけれど、少年を安心させるため、そして自分を鼓舞するため、敢えてそう言った。事実、幽霊が歩く先は火の手が若干ながら失せ、子供が這い出られるほどの小さな換気口があったのだから私の空想もあながち外れていないのかもしれない。


「あの幽霊、謝っていたね。ごめんなさい、ゆるしてって」

「きこえなかった」


 私は驚いた。幽霊の声が少年に聞こえていなかったから、ではなく、初めて彼と会話が成立したから。

 ちゃんと喋れるんだ、よかった。

 私は嬉しくなって、あのログハウスでした質問を再度する。


「きみのお名前は?私は環《たまき》って言うの。こういう字を書くんだよ」


 家主不在の家に中、テーブルの上に無造作に置かれていたチラシの裏に、これまた無造作に転がっていたマジックで”循環”と書いてみせた。


「私の名前は循環《じゅんかん》の環《かん》なんだ、ぐるぐる遠回りしても元に戻るって意味だよ」


 少年はじいっと私の書いた文字を見つめ、ぼそっとこう言った。「おれ、こっち」と。小さく細い右手人差し指は循環の循の字を突いた。


「なまえ、これにする」

「え、循《じゅん》?」

「うん」

「あー、うん、そっか、じゃあそうしよう。今日からきみは循くんだ」

「うん」


 少しだけ、表情が柔らかくなった。

 と、言うか一人称は「おれ」なんだ、と意外に思った。どう見ても「ぼく」の見た目だから。きっと周りにいる大人は犯人たちだけだから、彼らを真似るしかなかったんだろう。

 なら、言動以外もあいつらを模倣してしまうかもしれない。ちゃんと常識や礼儀マナーを教えてあげなくちゃ。ちゃんとした大人になれない。その当時の私は偉そうにも本気でそう考え、実行した。


「循くん、お外から帰ったら、ただいまって言うんだよ。靴を脱いで、まず手を洗うの、汚れているからね」


 言いながら、人の家の水道を勝手に使って手を洗う。(ついでに顔も、それからも口も濯いだ。)


「ごはんを食べる時は、いただきますっていうんだよ。お手てをこう合わせて」


 言いながら、人の家に残されたパックご飯と味ノリを食べる。ガスは止まっていたけれど、電気はまだ通っていたので電子レンジで温かいご飯を食べられた。

 少年はとても早食いであまり咀嚼をしないので、食事の度に「ゆっくり噛むんだよ」「食べてるときは口を閉じるんだよ」「ごっくんしてからもう一口だよ」と言い続け、3日目辺りで早食いは少し落ち着いた。


「私は循くんに痛いことや怖いことしないから、循くんもしちゃだめだよ。約束ね」


 この状況では、少年にとって私の言葉は絶対で、逆らったり自分の意見を言ったりなどできないだろうから犯人らと大して変わらないのかもしれない。だから、私だって本当は不安で堪らなかったけれど、なんてことない顔して少年に精一杯優しく接した。


 一緒に歯を磨いて、身体を洗って、押し入れで仲良く縮こまって眠って、洗剤でしょぼん玉を作ったり絵を描いたり、裏庭で探検ごっこもした。テレビもたくさん見た。世界の全てはあのログハウスだけじゃない、大人はあんな奴らばかりじゃないと何度も伝えた。


 そうして10日も経つと、潤沢にあったパックご飯も味ノリもふりかけも缶詰も、飴もクッキーもチョコレートもジュースも、お仏壇に供えてあった固いお菓子も無くなった。私は我慢してお腹いっぱい食べなかったけど、そろそろ終わりが見えてきてしまった。

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