小郡環の人生(二)
くすんだ窓の向こうにお月様があった。満月には少し足らない月、それを小望月と言うのだと、祖母から教わった。
放心して眺めていた月に、急に影が差し込んだ。すぐにそれが人間の腕、同じ部屋のいる少年のものだと気づく。少年がそばに来ていたことに驚き、今度は私が怯える番。大袈裟に飛び退くと、なぜか彼も驚いて、小さな手のひらから何かが落ちる。ワンバンドして床に転がるそれは、パンだった。食べかけのパン。少年は転がるパンと私、それから壁や窓をキョロキョロ忙しなく視線をさ迷わせ、汚れたズボンを握ったり、手を合わせたりする。言葉を発すると叱られるからか、彼は何も言わない。けど、行動の意図はなんとなく理解した。
私に、パンを分けてくれようとしたんだ。
こんな少ない食べ物を、人にあげようとしたんだ。
少年は変わらず無言で、挙動不審になりながら、定位置のテーブルの下へ戻っていった。
私はそれをただ目で追い、混乱する頭を必死に整理した。整理しながらパンを拾い、月明かりの元でまじまじ見つめる。乾燥して固くなったそれは、たぶんスーパーで売っている菓子パン。うちの家は菓子パンを禁じられていたから正常な味との比較はできないが、固くて、タバコの風味と苦みを纏った塊でも喉を通って胃に届くと、美味しさは感じないものの気持ちは少し和らいだ。ここを出て、柔らかいこのパンを食べてみたい、そう思った。出来れば、あの少年と一緒に。
「ありがとう」
這って近づき、声になるかならないかの声量で少年に礼を告げる。室内は暗く、少年の表情は分からない。
腹部や右肩、臀部が特に痛むが気にしてはいられない。あいつらは明日、私を殺すだろう。この森林のどこかに埋められるかもしれない。金を受け取った後も私を生かしておく理由もメリットもあいつらにはないのだ。
それが嫌なら、逃げるしかない。
だからと言って窓は高い位置にあるし、割れば音がする。段ボールの詰まれた向こう側にもしかしたら外へ出られる扉でもあるかもしれないが、非力な子供では動かせそうにない。試しに口が開いている段ボールを覗くが、衣類や食器、酒瓶が詰まっているだけ。
少年の居場所である入口すぐ左に設置されたテーブルの上には、古新聞や雑誌、汚れたグラス、ロウソクとマッチが乱雑に置かれている。
マッチがあるなら、いっそ火でも着けてやろうか。 そんな考えが頭を過るが、大人が4人もいれば燃え上がる前に消されてしまうだろうし、下手したら私と少年も巻き込まれる。
しかし念のため、マッチをくすね、中身を確認する。スライドさせた小箱の中には5本のマッチがあった。試しにひとつ着火させる。灯った炎を前に、生まれて初めて見たと言わんばかりに少年は大きく目を見張る。
この火を大きくして、この家を包むほど大きくして、あいつらを追い出したい。追い出して、私と少年もここから出て行きたい。
私は捨てられたようなものだから、帰る場所はもうないに等しいけれど。
ふうっと、ひと息で炎を吹き消す。それから少年と向き合うようにして段ボールを背に座り込む。そして少年と同じように膝を抱える。
季節は夏だったが少し肌寒く、タンクトップと短パンという軽装の少年は小枝のような手で足先を温めている。
私は靴下を脱ぎ、少年の足にそっと触れる。少年はあわあわとしていたが、お構いなしに履かせてやる。お祖母ちゃんの言いつけを守って寝る時も靴下を履いていてよかったと思った。これで、パンのお礼が出来ただろうか。
明日が来るのが恐ろしいのに、寝ている間にこの身になにが起こるか分からないのだから夢の中へ入っていはいけないと思うのに、瞼はどんどん重くなっていき、次第に意識は遠のいていく。
そして、こういう時に見る夢ほど、なぜか楽しくて、幸せな情景ばかりで嫌になる。父と母と弟、祖母と祖父、椿ちゃんがいて、私のお誕生日をお祝いしてくれる夢だった。みんな私だけを見て、優しい目をしていて、私の話を興味深げに聞いてくれる。学校でのこと、お友達の話、行きたい場所について、こちらが主張しなくても訊ねてくれる。食卓には弟のじゃなくて、私の好物ばかり並ぶし、テレビだって私が見たい番組を見せてくれるし、水族館じゃなくて動物園に連れてってくれる。あまりに楽し過ぎたから、夢を見ながら、ああこれ夢だって分かった。分かってしまうと途端に意識が急上昇していき、幸せな夢から残酷な現実へと引き戻される。
涙でぼやけた視界には、薄汚れた部屋の一角が映る。視界の中に、寝る前にはいた少年がいない。辺りを見回しても少年の姿はない。何時か分からないが、外はもう明るい。
戸の向こうで、大人たちの声がする。言い争うような声で、内容から察するに、金の分配で揉めているようだった。
ああ、母たちは犯人に言われるままにお金をこの人達に渡したんだ。養子を見捨てたことを言わないでおいてもらう代わりにお金を渡したんだ。私を見捨てたんだ。
一気に押し寄せる失望と、途方もない悲しみ。ひやっと冷たいものが血管の中を流れていく感覚がする。私の世界から色彩が消えていく。すぐ近くにいるはずの蝉の音が、ずっと遠くから聞こえてくる。
そして、その時は来た。犯人の一人が戸を開け、乱暴に手を伸ばしてきた。ああ、私は殺されるんだ。抵抗する間もなく首を鷲掴みにされる。「子供を殺すのは目覚めが悪りぃなぁ」とか「今更だろ」とか「さっさとしろよ」とか「おい、お前の子供どうすんだよ」とか言い合っていたが、喉への強い圧迫感と恐怖心で犯人らの声は遠のいていく。
「おい!お前!」
意識が完全に消失する間際、怒号が轟いた。焦ったような、それまでの茶化した口調とは違う口調だった。
途端、喉の圧迫は無くなり、一気に肺へ空気が取り込まれる。咳き込み、床にへたり込む。何事が起きたのかと犯人らを見やれば、一人は少年を蹴り、一人は床に落ちた服を蹴っている。正しくは、火の付いた服を蹴っている。私を殺そうとした男も、慌ててその場へ向かった。
火の付いた服。蹴られる少年。この光景を見て、すぐ理解した。少年が、マッチで火を付けたのだ。私を救うためか、自身を救うためか、それはこの際どうでもいい。それを考えるべきは今じゃない。今、私の取るべき行動は一つだった。
ぜえぜえと荒い呼吸をそのままに、段ボールの山に縋って立ち上がり、中から酒瓶を、それからテーブルの上の古新聞を掴み、導かれるように火元へ投げ込んだ。
大きな音を立てて割れた酒瓶、一気にむわっと酒臭さが広がると共に火が成長し、炎へと変わる。一緒に投げ込んだ古新聞がいかほど役立ったかは分からないが、想像を超えて炎は大きくなり、2本目の酒瓶を投げるのを躊躇うほどだったが、怒った犯人がこちらへ向かってきたため、今度はそいつ目掛けて瓶を投げた。ほとんど反射的な行動だった。瓶は男の胸辺りに命中し、落ちて割れた。すると炎は滑るみたいに床へ広がり、胸を押さえ苦しむ男の服へ引火する。男はまるで踊るように足をジタバタさせ、わあわあと情けなく叫ぶ。
パチパチと不気味な音を立て、床へ、天井へと広がるその炎は、犯人らにとって災いだが、私と少年にとっては救いだった。
消火は最早不可能と判断したのか、その場にいた3人のうち2人は机の上の大きなバッグを抱え、玄関へ駆けていった。
「こっちきて!」
炎を見つめ、呆けている少年へそう声を掛ける。はっとし、こちらへ懸命に這ってこようとするが、火を払った男が少年を踏み付けにする。「このクソガキ!」、そんな台詞を吐きながら、少年の細腕を掴むので、こいつが炎の中に少年を投げ込むつもりだと私には分かった。
私にわずか残された勇気と力を振り絞り、男の身体に体当たり。男と一緒に転がった少年の細腕を取って部屋へ引っ込み、戸を閉めた。それからすぐにテーブルを戸の前へ引っ張り置いた。大人の力であればテーブルを退けて中へ踏み入ることは容易だったろうが、男はそうしなかった。既に火が十分に室内に回り、そころじゃなかったのだろう。戸の向こうで、「焼け死んじまえ、クソガキ共!」と捨て台詞を残し、それから数秒後、外からエンジン音が聞こえ始めた。こうして、犯人らはこのログハウスから逃げていったのだった。
犯人らに殺される心配はなくなったが、次に私達は焼死の恐怖に怯えることとなる。
ログハウスはあっという間に燃えてしまうだろう。現に戸の隙間から黒と灰の煙が忍び込んできている。パキパキ、パチパチ、ピキピキ、聞いたことない不吉な音が危険を知らせている。
胸の中にいる少年がコホッと咳をする。焼け死ぬのが早いか、煙で窒息するが早いか。段ボールで隠された壁に脱出口でもありはしないかと重いそれらを動かそうとするがやはり無理で、その間に火の手は戸を飲み込み、とうとうこの部屋内にも赤い炎がやってきた。
ああ、もう駄目だ。急激に闘志は萎んでいき、あいつらに殺されるよりはマシかもしれない、などと考えながら、少年の小さな身体を抱きしめた。
死ぬのは一人じゃない、この子も一緒だ、だから怖くない。死への恐怖を分散させたかっただけの抱擁だけれど、少年は私を抱きしめ返してくれた。
そこで、魔訶不思議な出来事が起こった。
炎が部屋を燃やしていく中、微かに人の声が聞こえた気がして、顔を上げる。
「――かみよ、ゆるして」
人なんているわけないのに、すぐ隣に、半透明の女性が確かに立っている。長い黒髪を垂らした着物の女の人だった。壁にもたれ、悲しげな顔して私達をぼんやり見下ろしてる。




