第二話 小郡環の人生
病院経営をする両親に引き取られたのはラッキーだった。小郡家の人々は概ね善人で、良識を持っている普通の人達だった。誰の子とも知れぬ子供を家族として迎え入れ、慈しんでくれた彼らだからこそ、諦めていた子宝もやって来てくれたのだろう。
私も弟を可愛く思っていた。それなりに仲も良かった。ただ、両親は弟の方が好きで、大事な存在なのだと幼心に気付いていた。だけどそれは私より幼く、彼が跡取り息子だから優先されるのだと思っていた。いや、そう思っていたかった。愛情の程度に差はあれど、私だって両親の大切な子供で、かけがえのない存在なんだって。
当時の私は、自身が養子であることを知らなかった。 だから、強盗犯がやってきたあの日、両親が弟だけを抱き上げ、鍵のかかる部屋へ籠ってしまったことにショックを受けた。すぐ近くに私もいたのに、一刻を争う状況の中で、両親の目には弟しか映らず、弟だけを抱き上げ、安全地帯へ逃げた。
強盗犯ともみ合いになった祖父は私の目の前で刃物に刺され、綺麗なフローリングの床に崩れを落ちた。
「こいつは連れて行こう。脅しに使える」
強盗犯の一人がそう言い、怯える私を連れ去った。怖くて喉がぎゅっとなって声が出ない。でも、心の中で何度も叫んだ。「お母さん、お父さん、助けて!」って。
連れて行かれた先は、湿っぽい木製の家。ログハウス、というやつだろうか。現代風の立派な家にしか住んだことのなかった私は、恐怖心と共に強烈な不潔さを感じていた。
タバコくさい。
こわい。
汚い。
逃げたい。
助けて、お母さん。
奥の部屋へ引きずられ、まるでゴミを捨てするみたいに放られ、「静かにしとけ」と冷たく一言。
そこは10畳ほどの空間で、雑多に物が置かれてある。テーブルの上には衣類や新聞、雑誌が積み上げられ、床には毛布らしき塊が積まれている。壁際には段ボールの山。ツンとする悪臭もする。灯りはない、一つしかない高窓から差し込む月明かりだけが部屋を照らしている。
その日は、満月に少し足らない月だった。
声を上げて泣きたいが、そうすれば犯人達の怒りを買うだけだと分かっている。小さい手で口を押え、嗚咽を必死に抑えた。
木製のドアの向こうで、犯人が電話している。内容もしっかり聞こえた。
「――調べて知ってるよ、上の子は養子なんだって?だから見捨てたんだな、人間ってのは正直だねえ。そりゃそうだ、実の子の方が可愛いに決まってる。立派な家のお医者様も、俺らと変わんねえんだって安心したよ」
最悪な形で、私は自分が養子である事実を知った。そして、自分が助けてもらえなかった理由も悟った。きっともう少し、ほんの少し猶予があれば、両親は私も一緒に鍵のかかる部屋へ連れてってくれたはずだ。
一秒が生死を分けるあの状況で、両親は冷静かつ残酷に当たり前の決断をした。きっと、同じ状況に再び巻き込まれても、彼らはまた同じ選択をするんだろう。なぜならそれが、善悪を超えた先にある人間という生物の本能だから。
じゃあ、しょうがない。
実の子の方が可愛いのは当たり前だもの。
溢れる涙は自然と止まり、思考がどんどんクリアになっていく。両親の助けは当てにならない、ここから逃げたいのなら自分でなんとかするしかない。
そこでようやく、部屋をまじまじ見回した。テーブルに下に黒い塊がある。最初は人形かと思ったけど違った。それは、青白い肌をした子供だった。大きい目玉がぎょろりと動いて、私を捕らえる。まるで幽霊のようで、「ひっ」と小さく悲鳴を上げてしまう。が、子供の方がなぜか身を竦ませ、化け物でも見たような顔をするので、小さい彼は生きた人間で、突然現れた私に恐怖しているのだと推察できた。
年齢はよく分からない。4才の弟と同じくらいだろうか。異常に痩せていて怖かった。自分もこうなるのか、と想像してしまう。
彼も私のように誘拐されてきた子供かと思ったが、どうやら犯人のうちの誰かの子供で、日々手酷く扱われているようだった。
小さい彼に話しかけるかどうか迷っていると、犯人の一人に呼びつけられ、車から荷物を運び入れるよう指示されていた。
そんなの大人がやった方が何倍も速いのに。私の顔にそう書いてあったのか、犯人の一人は苛立ったような、それでいて小馬鹿にするような笑みを浮かべ、こう言ってきた。
「親に捨てられて可哀想にな。ああ、血の繋がりが無いんだから親でもねーか。養子を見捨てたってバレたくないんだろうな、あいつらは金を払うそうだ。育ちのいい金持ちってのは扱いやすくて助かるよ。さて、こいつをどうするかね。誰かに売れたりしねーかな」
「当てでもあるなら別だが、一人殺しちまったんだ、早く金受け取って遠くに逃げねぇと。そいつも殺すしかねぇ」
色々な情報が一気に頭へ流れ込み、くらくらする。情報も気持ちも整理し切れないけど、自身の命が数日以内に無くなることは確定のようだ。強烈な恐怖と不安で胃が縮み上がる。
色彩を失っていく視界の中、小さな彼が躓き転んで男に蹴られているのが見えた。でも、”可哀想”だとか、”彼を助けなきゃ”とか、そんな感情よりも優先されるのは”ここから逃げたい”だけ。
逃げたい。
逃がして。
助けて、お願いだから。
再び奥の部屋へ少年と共に押し込められ、犯人達は金の受け取りと逃亡計画の相談をし始めた。 少年は先ほどまでと同じように、机の下に潜り込み、膝を抱えている。
思い切って話し掛けてみることにした。犯人らに気付かれぬよう、そっと近づき、囁く。
「大丈夫?」
応答はないが、瞳をきょろきょろさ迷わせている。きっと彼自身、突然現れた私相手にどう接していいか分からないのだろう。
「わたし、環って言うの。きみ、名前は?」
応答はない。けれどその挙動から、もしかして名前がないのではないかと思ってしまった。これはただの予想、あるいは不快な名前を付けられているのかもしれない。
「名前、ないの?」
言うと、少年はさらに身を縮こませ、膝に顔を伏せてしまう。
「あのね、わたし、ここへ無理に連れてこられたの。お祖父ちゃんは殺されちゃった。私は要らない子みたい。きっとお母さんもお父さんも助けにきてくれない。お祖母ちゃんと椿ちゃんは、どうかな」
心細くなって、ぽつぽつ吐露していると次第に声が大きくなっていったようで、「ねえ、外へ出られるところはないの?」と口にした途端、ドアが勢いよく開き、伸びてきた太い腕に髪を鷲掴みにされ、宙に浮いた。痛みで、うめき声と涙が溢れた。
怖い。
痛い。
やめてよ、痛い。
こわい!
ここで、私は堰を切ったように大声で泣き出してしまった。犯人を刺激してはいけないと幼心に判断できていたが、ついに踏ん張っていた気持ちが決壊し、わあわあと涙も悲鳴も流れ出す。すると、当然ように殴られた。床へ叩きつけられ、踏み付けられ、それでも泣き喚く私に苛立ったのか、『苦い水』を煩い口を塞ぐように注がれる。 途端と咳き込み、げえげえ吐き出すが、苦さも息苦しさも気持ち悪さもちっとも薄まらない。
犯人は「うるせえぞ!黙っとけ!」と言い捨てると、少年の方にパンを投げ、乱暴にドアを閉めて出て行った。
蹲って惨めに泣く私と、こちらに関わらないよう机の下で小さくなってパンを頬張る彼の対比がなんともグロテスクだった。自分に火の粉が降りかからぬよう、見て見ぬ振り。こういう場面は、きっと世界中どこでもいつでも起こっているんだろうな。
私だって蹴られているこの子よりも自身の身を案じた。そんな駄目な子は、お母さんに助けてもらえなくて当然だ。
互いに助け合うとか、食べ物を分け合うとか、そんなのは物語の中だけだ。現実は我が身だけが可愛くて、分かち合うなんて高尚な行為は体現できない。人間は身勝手で醜い生き物なんだ。お祖母ちゃんは「助け合いなさい」「譲り合いなさい」「ひとに優しくしたら優しくしてもらえるんだよ」って言っていたけれど、そんなの余裕のある人の綺麗事だ。
お祖母ちゃんは知らないだけだ、この世には信じられないくらい酷いことをする人がいて、視界に入れるのも躊躇する汚い場所があることを。だって、お祖母ちゃんはちゃんと血の繋がった両親のもとで育ったお嬢様だもの。 こんな目に遭うはずもない。




