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名前のない家族  作者: HANA


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9/11

第8話 最後のいつもの朝

部屋の真ん中には何もなくなった。


二つの机の上も、本が並んでいた棚も、いつも鞄を置いていた場所も全部、空っぽだった。


「……広いな」

「昨日も言ってただろ」

「昨日より広く感じる」

「変わってねぇよ」

「気持ちの問題」


今日、俺達はこの施設を出る。

十二年間暮らした場所から俺は地元の大学へ。

蓮は県外の大学へ、今日から別々の場所で生きていく。


「忘れ物ない?」

「ない」

「俺も……多分」

「多分って何だよ」

「あとで思い出すかもしれないじゃん」

「知らねぇよ」

いつもの会話。

いつもの蓮。

なのに今日だけは全部が最後だった。

この部屋で話すのも、この扉を閉めるのも、二人で階段を降りるのも。


「……行くか」

「うん」


俺は最後に一度だけ振り返った。

二つのベッドが並んだこの部屋は五歳だった俺が、初めて蓮を見た場所。

あの日、俺は泣いていた。

蓮は何も言わず、ただ俺を見ていた。


「ありがとう」

「誰に言ってんだよ」

「部屋」

「……馬鹿じゃねぇの」

「いいじゃん」

起きれた顔を蓮はしたけど俺は、笑って扉を閉めた。



「蒼真くん!」

一階へ降りると、小さな子が走ってきて、勢いよく抱きつかれた。

「うわっ」

「行っちゃうの?」

「うん」

「やだ」

「また帰ってくるって言っただろ?」

「いつ?」

「んー……大学が休みの日?」

「明日?」

「早いな!」

男の子の問いに思わず笑ったら、職員さん達も笑っていた。

でも、泣いている人もいた。


「二人とも、本当に大きくなったね」

園長先生が俺達の前へ立っていた。

泣くのを我慢しているのか、瞳が潤んでいた。

「……十二年間、お世話になりました」

俺が頭を下げると、隣で蓮も頭を下げた。

「こちらこそ。二人が元気に今日を迎えてくれて、本当に嬉しい。ここは、いつでも二人の家だからね」

その一言に胸の奥が熱くなった。

「……はい」


昔、この人に言われた。

———ここが今日から、蒼真くんのお家だよ。

あの時は嫌で、ここは僕の家じゃない。

違う。

そう思い続けていた。

でも今なら、ちゃんと言える。


「……行ってきます」


園長先生が泣きながら笑って、言葉をくれた。


「いってらっしゃい」

俺も笑った。

だって今は、その言葉が怖くなかったから。

園の門を出て、俺は立ち止まり、門を見上げた。

十二年前、小さな鞄を持って立った場所だ。

園長先生、職員さん、小さい子達が泣いたり笑ったりしながら、見送ってくれている。

俺は大きく手を振り返した。


そして、あの時とは違う大きな荷物を持って、歩いていく。


「蓮」

「ん」

「駅まで一緒だな」

「あぁ」

「あと三十分くらい?」

「多分な」

「じゃあまだ大丈夫」

言ってから気付いた。

また、無意識に一人でなることを怖がった事を。

ふいに立ち止まる俺に蓮も立ち止まり、振り返った。

「……何が」

「いや……何でもない」

俺は笑って、蓮の横に並んで歩き始めた。



十二年前俺は、人間が嫌いだった。

正確には怖かった。

優しくされても、その優しさを信じられなかった。

笑っている大人を見ると、その顔がいつ変わるのかと思った。

手を差し出されれば、反射的に身体が固まった。

頭を撫でてくれようとしても、怖くて逃げていた。

大丈夫、もう怖くないよ。

ここでは安心していいよ。

何度言われても、信じられなかった。

 

そんな俺と同じ部屋になったのが、蒼真だった。

最初の印象は最悪で、とにかくずっと泣いていた。

うるさいなと思うと同時に大人に触られても怖がらない蒼真が不思議だった。

なのに翌朝には……「おはよう」と笑っていた。

意味が分からなかった。

昨日あれだけ泣いていたくせに。

「……」

「蓮くん、朝ご飯行く?」

声をかけられても、無視した。

そのうち、返事をしない俺に嫌気がさして、離れるだろうと思ったから。

だけどそれでも、蒼真は一人で喋っていた。

次の日も、その次の日も。

何度無視しても。

何度冷たくしても。

蒼真は態度を変えなかった。

ある日、俺は聞いた。

「……何で聞かねぇの」

「何を?」

「俺がここにいる理由」

蒼真は首を傾げていた。

「聞いてほしいの?」

「……いや」

「じゃあ聞かない」

たったそれだけの返事に俺は驚いた。

「気にならねぇの?」

「気になるけど」

蒼真は少し考えてから言った。

「蓮が言いたくないこと聞いたら、嫌だろ?」

「……」

「俺も、お母さんのこと聞かれるの嫌だもん」

そう言って笑っていた。


「だから聞かない」

 

それ以上、蒼真は本当に聞かなかった。

一度も。

 

大人達は、俺を助けようとしてくれた。

それが悪かったわけじゃないのは、今なら分かる。

でも当時の俺には何も聞かない蒼真の方が、ずっと楽だった。

可哀想とも言わない。

怖かっただろうとも言わない。

俺を傷ついた子どもとして見なかった。

ただ「蓮」と名前を呼んだ。

それだけだった。


ある日、俺はわざと蒼真を無視した。

理由なんてなかったけど、多分試したかったんだと思う。


こいつもいつか離れる。

だったら先に離れればいい。


朝、話しかけられても返事をしなかった。

昼も夜も、蒼真は何度か話しかけてきた。

でも、俺が返事をしないと「そっか」と言って離れていった。

次の日、目を覚ますと、向かいのベッドは空だった。

胸がざわついた。

やっぱり。と思った。

俺が無視したから、もう嫌になったんだ。

それなら、それでいい。

最初から一人だったし、他人に期待しても仕方ないとそう思った時、扉が開いた。

「蓮ー、起きた?」

蒼真が入ってきた。

いつもと同じ声と笑った顔で、昨日と同じ蒼真だった。

「……どこ行ってた」

「トイレだよー、なぁ、朝ご飯行こ。今日フレンチトーストだって!」

大好物のフレンチトーストに蒼真は目を輝かせて、俺をベッドから引きずりだそうとしてきた。


「……昨日」

「ん?」

「俺、お前のこと無視しただろ」

「うん」

「何で」

「何でって?」

「……何で今日も話しかけんだよ」

蒼真はまた首を傾げた。

「今日だから?」

「意味分かんねぇ」

「昨日は昨日じゃん。今日は蓮と喋りたいから喋ってる」


理解が出来なかった。

昨日、嫌なことをされたから、今日も嫌い。

昨日怒らせた、だから今日はもっと酷いことをされる。

俺の知っている世界では、それが普通だった。


だけど、蒼真は違った。

昨日と今日を分けて、俺が拒絶したことを、次の日まで持ってこなかった。


「行こうぜ」

差し出された手を見つめた。

人の手は、ずっと怖かった。

でもその日、俺は初めて自分から、蒼真の手を取った。



「蓮?」

「……ん」

「どうした?」

気付けば駅が見えていて、蒼真が俺を覗き込んでいる。

「ぼーっとしてた」

「珍し」

「うるせぇ」

昔と変わらない顔で笑っている。

こいつは知らない。

あの日のことを多分、覚えてすらいない。

「蒼真」

「ん?」

「お前さ」

「うん」

「昔から変わんねぇな」

「え、悪口?」

「知らねぇ」

「なんだよそれ」

蒼真が笑って、つられて俺も少しだけ笑った。

人を信じれば傷付く。

それは今でも、完全には消えていない。

多分、これからも簡単には消えない。

でも十二年間、何度拒絶しても、何も話さなくても。

次の日になれば「おはよう」と言ってくれた奴がいた。

だから俺は世界中の人間を信じられるようになったわけじゃない。

ただ一人。

神代蒼真という人間は、信じられるようになった。


駅に着いて、改札を抜ければ、俺達が乗る電車は違う。

「じゃあ」

「ここだな」

「あぁ」


十二年間、毎日のように同じ道を歩いてきた。

だけど、今日は初めて違う方向へ行く。


蒼真が笑った。

「行ってらっしゃい、蓮」

一瞬、言葉が出なかった。

だけど———。


「……行ってきます」


そう、答えた。

「蒼真」

「ん?」

「お前も」

「あぁ」

少しだけ間を置いて蒼真が言った。


「行ってきます」

 

「……いってらっしゃい」


二人で背を向けて、振り返らなかった。

だってもう、振り返らなくても大丈夫だったから。

帰る場所がなくなるわけじゃない。

離れることは、いなくなることじゃない。

俺達はようやく、それを知り始めていた。


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