第9話 それぞれの、行ってきます
一人暮らしを始めて、四年が経った。
最初の頃は、眠れない夜が何度もあった。
電気を消すと、部屋が暗くなって音がなくなる。
その瞬間、昔の記憶が勝手に蘇ってきた。
朝になってもお母さんの帰ってこなかった部屋。
冷蔵庫を開けて、一人で牛乳を注いだこと。
だけど、施設へ来てからは、ずっと蓮がいた。
だから、一人暮らしを始めた最初の夜は結局、朝まで電気を消せなかった。
何度もスマホを手に取って、蓮に電話しようと思った。
でも、しなかった。
———一人でも朝を迎える方法を、探してみたい。
自分で決めたから。
怖かったけど、それでも朝は来た。
カーテンの隙間から光が入ってきた時、少しだけ笑った。
なんだ、ちゃんと朝になるんだって、そう思った。
次の日も、その次の日も眠れない夜はあった。
蓮に電話した日もあったし、友達の家に泊めてもらった日もあった。
それでも少しずつ、一人の部屋で眠る夜が増えていった。
そして今では———。
「……んー」
目を開けるとそこには見慣れた天井がある。
静かな部屋で隣には誰もいない。
それでも、不思議と怖くなかった。
「朝かぁ……」
大きく伸びをして、ベッドから起きてカーテンを開けると、朝の光が部屋いっぱいに入ってきた。
スマホを見ると、一件メッセージが届いていた。
『今日、何時にする?』
メッセージ一件が嬉しくて、笑いながら返信した。
『十二時! 駅迎えに行く』
送信して、もう一件送信する。
『蓮が今日来るって』
すぐに既読がついた。
『噂の蓮くん?』
『噂って何だよ』
『蒼真がいつも話してるから』
「……そんなに話してるかな」
いや…してるか、多分。
「蒼真!」
駅前で名前を呼ばれて振り返ると彼女が駆け寄ってきた。
「お待たせ」
「いや、俺も今来た」
駆け寄ってきた彼女に笑いかける。
大学で知り合って付き合って、もう一年になる。
最初に好きになったのは俺だった。
一緒にいてほしいと言われたからじゃない。
向こうから告白されたわけでもない。
話したいと思った。
会いたいと思った。
笑ってほしいと思った。
誰かに取られたら嫌だと思った。
それが恋なのかどうか、最初はやっぱり分からなかった。
でも、昔とは一つだけ違った。
彼女がいない夜も、俺は眠れた。
そして「ばいばい」のひと言が怖くなかった。
だから初めて自分から言った。
———好きです。
付き合ってください。
「何笑ってるの?」
「いや、何でもない」
「怪しい」
「怪しくないって」
二人で笑いながら手を繋いで、歩き出した。
「蓮くん、何時?」
「もう着いてると思う」
「え、待たせてるじゃん」
「大丈夫。あいつ待つの得意だから」
「それ本人に言ったら怒られない?」
「怒る」
「駄目じゃん」
また笑いあう。
そんな何気ない一つ一つの彼女との時間が本当に大切なものなんだ。
「遅ぇ」
待ち合わせ場所へ着くなり、眉間に皺を寄せた蓮に言われた。
「ほら怒った」
「お前が遅刻するからだろ」
「五分じゃん」
「五分は遅刻だ」
もちろん四年ぶりに会うわけじゃない。
休みが合えば会っていたし、電話もする。
それでも顔を見ると、やっぱり少し安心する。
「紹介する。俺の彼女」
「初めまして」
「……初めまして」
蓮が軽く頭を下げると、彼女が俺の袖を引っ張った。
「本当に無口なんだね」
「だろ?」
「聞こえてるぞ」
「怖っ」
「お前が言わせたんだろ」
何も昔と変わらない。
でも、少しだけ変わった事もあった。
「蓮、大学どう?」
「普通」
「友達出来た?」
「……いる」
「えっ!」
「何だよ」
「蓮に友達が!」
「殺すぞ」
「だってお前、高校まで俺以外――」
「蒼真」
「はい」
蓮に睨まれて口を閉じると、彼女が隣で笑っていた。
俺も蓮も笑う。
本当に僅かだったけれど、蓮も笑っていた。
彼女と別れてから、俺と蓮は二人で歩いていた。
「いい子だな」
突然、蓮が言った。
「だろ?」
「嬉しそうだな」
「好きだから」
自然に言葉が出た俺を蓮が見る。
「……何」
「いや」
「何だよ」
「成長したなと思って」
「お前、俺の親かよ」
「昔のお前なら、一緒にいてくれれば誰でもよかっただろ」
「……そうだったな」
今なら認められる。
あの頃の俺は誰かを好きになることと、誰かにいてほしいことの違いが分からなかった。
「でもさ」
「ん」
「別に、あの頃の俺が全部間違ってたとも思わないんだ」
蓮は黙って聞いてくれていた。
「一人が怖かったから、誰かを求めた。それ自体は……悪いことじゃなかったのかなって」
「……あぁ」
「ただ、そのために誰かの気持ちを使っちゃ駄目だった」
「そうだな」
「だから今は、ちゃんと好き」
「俺に報告すんな」
「いいじゃん。……蓮は?」
「何が」
「好きな人」
「いねぇ」
「まだ?」
「まだって何だよ」
「モテそうなのに」
「興味ねぇ」
「そっか」
昔なら蓮は人を信じられないから。
そう思ったかもしれない。
でも今はそれだけじゃないと思える。
恋人がいないから、寂しいわけじゃない。
誰かと付き合わないから、愛を知らないわけでもない。
人それぞれなんだ。
「でも友達いるんだろ?」
「……いるって言ってんだろ」
「名前は?」
「言わねぇ」
「何でだよ」
「お前絶対会おうとするだろ」
「する」
「だからだよ」
そんな何気ない会話に俺はまた笑った。
蓮と話すと、どんな些細な話でも自然と笑みが零れる。
駅に着いて改札をくぐれば、また俺達は違う電車に乗る。
「じゃあな」
「おう」
「次いつ帰ってくる?」
口にしてからふと気付いた。
四年前までこの質問をする時は、いつも怖かった。
本当に帰ってくるのか。
いなくならないのか、安心するために確認したかった。
でも今はただ次に会いたいから聞いている。
それだけだった。
「年末かな」
「そっか」
「お前は?」
「俺もその辺。園長先生に顔見せに行こうかな」
「じゃあ連絡しろ」
「うん」
改札に向かう蓮の背中に名前を呼び掛けた。
「蓮」
「ん?」
「またな!」
「あぁ」
それだけ。
蓮は歩いていった。
俺も反対方向へ歩き出す。
振り返らなかった。
寂しくないわけじゃない。
会えなくなるのは嫌だ。
今でも、大切な人が離れていくことは怖い。
きっと完全に怖くなくなる日は来ないのかもしれない。
それでも、もう知っている。
離れても、会えない日が続いても。
誰かを大切に思う気持ちは、なくならない事を。
自分の部屋へ帰ると「ただいま」と誰もいない部屋に、自然と声が出た。
当たり前に返事はないけど。
昔ならその静けさが怖かった。
今は靴を脱いで、電気をつけて冷蔵庫から水を取り出すとスマホが鳴った。
蓮だった。
『着いた』
たった、それだけの短いメッセージ。
「短っ」
笑いながら返信する。
『俺も。今日はありがとな。またな』
『おう』
たった二文字だけど、それで十分だった。
スマホを置いて部屋の電気を消した。
部屋が暗くなって、静かになる。
それでも俺は目を閉じた。
もう暗い部屋は、一人でいるだけの場所だった。
孤独と、一人でいることは、同じじゃなかった。




