第7話 怖いままでいい
段ボール箱が、二つ部屋の真ん中に置かれていた。
「……邪魔だな」
「お前が広げたんだろ」
「そうなんだけどさ」
蓮に言われて、俺は段ボール箱の前にしゃがみ込んだ。
卒園まで、あと一週間。
大学へ進学する俺達は、それぞれ新しく借りた部屋へ引っ越すことになっていた。
俺はここから電車で一時間ほどの場所。
蓮は県外。
新幹線を使わなければ、簡単には会えない距離になる。
「……何から入れよう」
「服だろ」
「思い出の物とか」
「最後でいい」
「蓮、こういう時まで現実的だな」
「お前が進まねぇからだろ」
蓮の方を見ると荷物は、もう半分以上片付いていた。
机の上に並んでいた本も壁に掛けてあった制服も、棚の中にあった小物も少しずつ、なくなっていた。
「……」
「何だよ」
「いや」
何でもない。そう答えて、自分のクローゼットを開けて、服を取り出して一枚ずつ畳んで、箱へ入れていく。
それだけの作業なのに。
何故か、胸が苦しかった。
ここへ来た時、俺の荷物は鞄一つだった。
お気に入りのおもちゃと何枚かの洋服。
それだけ。
十二年経った今、俺の荷物は段ボール箱いくつ分にも増えていた。
「……増えたなぁ」
「何が」
「荷物」
「十二年いるからな」
「そっか」
十二年は長いようで、振り返れば、あっという間だった。
机の引き出しを開けると奥に、小さな箱が入っていた。
「あ」
取り出して蓋を開けると中には、色褪せた小さなおもちゃが入っていた。
「懐かしい」
「何だ、それ」
「俺がここに来た時に持ってきたやつ」
「……まだ持ってたのか」
「持ってるよ。お気に入りだったんだから」
手のひらに乗せたおもちゃは、五歳だった俺には大切だったもの。
あの日、お母さんを待ち続けた家から持ってきたもの。
ここへ来ても、ずっと捨てられなかった。
「……これさ」
「ん」
「ずっと、持ってたんだよな」
「見れば分かる」
「そうじゃなくて……最初は、これ持ってれば家に帰れるような気がしてた」
蓮は何も言わずに聞いていた。
俺は懐かしくなって、少しだけ目を細めた。
「お母さんが迎えに来た時、なくなってたら困ると思って」
だから捨てなかった。
捨てられなかった。
いつ迎えに来てもいいように。
いつ帰ることになってもいいように。
ずっと────。
けど……お母さんは一度も来てくれなかった。
それでも、この部屋には二つのベッドがあって、2つの机がある。
何度も開けた扉と十二年間、毎朝見てきた天井。
お母さんと過ごした家じゃなくなった。
たくさん泣いたけど。
「いつからだろうな」
「何が」
「ここが家になったの」
自分でも分からなかった。
最初は嫌で。ここは家じゃないと思っていた。
お母さんのところへ帰りたかった。
毎日ずっと。
でもいつの間にか学校から帰れば、「ただいま」と言うようになった。
職員さん達の「おかえり」を聞くと安心するようになった。
そして夜になれば、隣のベッドには蓮がいた。
「……変なの」
「何が」
「家って、一個じゃないんだな」
蓮は何も答えなかった。
俺はおもちゃを箱の中へ入れた。
今度は帰るためじゃなくて、持っていきたいと思ったから。
5歳だった俺の思い出として。
夕食の時間に隣に座った小さな男の子が聞いてきた。
「蒼真くん、本当にもうすぐ行っちゃうの?」
「行っちゃうよ」
「やだ」
「大学生になるからなぁ」
「ここから行けばいいじゃん」
「遠いんだよ」
「じゃあ大学行かなきゃいい」
「それは困るなぁ」
笑いながら頭を撫でると、その子は不満そうに頬を膨らませた。
「蓮くんも?」
「うん。蓮はもっと遠くに行く」
「二人とも?」
「そうだよ」
「……帰ってくる?」
その言葉に、頭を撫でる手が止まった。
「帰ってくる?」
もう一度聞かれて、五歳だった自分を見ているような気がした。
帰ってくる。
その言葉が欲しい。
ただ、それだけ。
それだけを願って過ごした日々があった。
「帰ってくるよ」
「ほんと?」
「うん」
「絶対?」
「絶対」
俺が答えると、その子は安心したように笑った。
向かい側を見ると蓮と目が合った。
蓮が少しだけ笑っていた様な気がした。
卒園まで、あと三日となり、部屋は驚くほど広くなった。
「こんな広かったっけ」
「物がねぇからだろ」
「寂しいな」
「……そうだな」
俺はハッとした。
蓮が寂しいと言った。
驚いて振り返ると蓮はいつも通りの真顔だった。
「何だよ」
「いや……蓮が寂しいって言った」
「言ってねぇ」
「言ったじゃん!」
「お前が寂しいって言ったから、そうだなって言っただけだろ」
「それは同意してるってことだろ」
「うるせぇ」
俺が笑うと蓮も、ほんの少しだけ笑った。
その夜、電気を消した部屋はいつもの暗い部屋だった。
十二年間、何度も迎えた夜。
この部屋で眠れるのは、あと三回だ。
「……蓮」
「何」
「起きてる?」
「今返事しただろ」
「そっか」
「何だよ」
「いや……」
暗闇の中で天井を見る。
「覚えてる?」
「何を」
「俺、昔さ。お前がトイレ行っただけで泣いたじゃん」
「この前もその話しただろ」
「そうだけど…明日もいる?って聞いたよな」
「……あぁ」
「蓮、いるって言った」
「覚えてねぇ」
「嘘つけ」
暗い部屋が静かになって、聞こえてくるのは時計の音だけだった。
「十二年間、本当にいたな」
返事はなかったけど、俺は続けた。
「毎朝」
「……」
「起きると蓮がいた」
ずっとそれが、当たり前だった。
でも、あと三日で、その当たり前が終わる。
「今度は」
喉の奥が少しだけ苦しくなる。
「明日じゃなくなるんだな」
蓮が僅かに動く音がした。
「……何が」
「次の日も、その次の日も。朝起きても蓮いないんだなって」
怖い。
今でも怖い。
でも前とは少し違った怖さに感じた。
「俺、多分……大丈夫だと思う」
自分で言って、自分が一番驚いた。
「一人になるの、まだ怖いけど」
それでも。
「大丈夫になりたい」
「……なれるだろ」
暗闇の向こうから、蓮の声がした。
「そう思う?」
「あぁ」
「珍しく即答した」
「うるせぇ」
「ふふっ」
暗い部屋で目を閉じた。
怖くないわけじゃないし、寂しくないわけでもない。
それでも俺は初めて、誰かに隣にいてもらう方法じゃなくて。
一人でも朝を迎える方法を、探してみたいと思った。
翌朝目を覚ますと、いつものように向かいのベッドを見る。
蓮が眠っていた。
今日もいてくれた。
あと二回を数えそうになって、やめた。
俺はベッドから起き上がり、カーテンを開けた。
朝の光が優しく部屋へ差し込んだ。
「……蓮」
「ん……」
「朝だよ」
「……うるせぇ」
いつもの朝だった。
もうすぐ終わる。
だけど終わることと、なくなることは、きっと違う。
そんなことを、少しだけ思えるようになっていた。




