第3話 離れていく背中
暗い。
何も見えない。
ただ、声だけが聞こえてくる。
怒鳴り声と何かが床に落ちる音が響いてくる。
近付いてくる足音に「逃げなきゃ」そう思うのに、身体が動かなかった。
見つからないように、気づかれないように、息を潜めるくらいしか出来ない。
だけど、足音は止まることはなく、少しずつ近付いてくる。
「…………っ!」
俺は勢いよく身体を起こした。
呼吸が荒くて、額には汗が滲んでいた。
薄暗い部屋の中を見回すと見慣れた天井と机、カーテン、向かい側のベッドがあって、ここは施設の部屋だった。
「……夢か」
小さく呟いて、乱れた呼吸を整える。
もう十二年も経った。
ここに来てから、一度だって同じことは起きていない。
分かっている。
頭では、ちゃんと分かっている。
それでも時々、夢を見る。
忘れたはずの声と忘れたい音。
もう思い出す必要なんてないはずなのに身体だけが、いつまでも覚えている。
俺は布団を退け、ベッドから降り部屋を出ようとして、ふと向かいのベッドへ目を向けた。
蒼真が眠っていた。
布団から片腕を出して、いつものように無防備な顔で眠っている。
その姿をしばらく見つめた。
———いる。
それだけを確認すると、さっきまで速かった鼓動が少しずつ落ち着いていった。
十二年前、初めてこいつを見た日のことは、今でも覚えている。
泣いていた。
とにかく、ずっと泣いていた。
俺には、それが不思議だった。
どうして泣くんだろうと思った。
泣いたって誰も助けてくれない。
だから、大人なんて信用しなければいい。
誰かが自分を守ってくれるなんて、思わなければいい。
最初から一人なら、裏切られることもない。
そう思っていたのに蒼真は、次の日には俺に話しかけてきた。
その次の日も、また次の日も返事をしなくても話しかけてきた。
無視しても怒らなかったし、嫌だと言えばそれ以上は聞かなかった。
それでも次の日になると、何事もなかったように笑っていた。
変な奴だと思った。
俺とは全然違った。
人を疑うことを知らないように見えた。
何度傷ついても、それでも誰かを信じようとする。
そんな蒼真が、俺には理解出来なかった。
だから最初は、こいつもいつかいなくなると思っていた。
俺に飽きれば離れていくだろう、嫌になればもう話しかけてこなくなる。
大人達と同じで、他の子と同じように。
だから、信じなかった。
一ヶ月、半年、一年が経っても蒼真は隣にいた。
五歳だった俺達は、小学生になった。
中学生になって、高校生になった。
気付けば十二年という長い月日が流れていた。
それでも、蒼真はまだいる。
「……長ぇんだよ」
眠っている蒼真に小さく呟いた。
もちろん返事はなかった。
俺は部屋を出て、水を飲んだ。
戻って来ても、蒼真は同じ場所で眠っていた。
数分しか経っていないんだから、当たり前なのに。
それなのに、その姿を見てまた少し安心している自分がいた。
俺は人を信用しない。
期待もしない。
誰かがずっと隣にいるなんて、思わない。
その方が楽だから。
失うものなんて、最初から作らなければいい。
だから恋人もいらないし、友達だって必要ない。
一人で生きていける。
そう思っていたんだ。
こいつ以外は。
ベッドへ戻り、横になってしばらくすると、向かいから寝返りを打つ音が聞こえた。
それだけで目を閉じることが出来た。
何故、蒼真だけなのか。
考えたことは何度もあったけど、答えなんて出なかった。
ただ一つ分かっているのは。
俺が初めて明日もここにいるだろうと思えた人間が、蒼真だった。
それだけだった。
そして、俺の中に無理に踏み込んでこないのも。




