第29話 草は干してあった
戸の外で、白い衣の二人が止まった。
支部で見るのと同じ白で、同じ白なのに生地が違った。織りが詰んでいて、歩いても衣の音がしない。裾は重く落ちる。襟の留め方も、リジアのものとは違っていた。荷は持たず、片方が木の箱を提げている。袖口の縫い目は二重で、ほつれが一つも無い。箱は膝の高さにあって、提げているほうの肩が落ちていた。
リジアは土間の戸口に立っていた。二人は中へ入らず、外から並びを見た。
「数は」
「十四」
答えたのは年かさの聖療師だった。今朝も、杖の布は乾いたほうだった。リジアは横に立っていた。答える側ではなかった。
「今日のうちに」
それだけ言って、一人が村の奥へ目をやった。道の先の、突き当たりの家のほうだった。支部へ送った紙に何が書いてあったのかを、リジアは見ていない。
井戸のそばで、男が二人、桶を持ったまま立ち止まっていた。白い生地を見ている。やがて桶を提げ直して歩き出した。畑の水の話をしていた声が、通りすぎるあいだだけ低くなった。
土間の奥で、誰かが寝返りを打った。藁の擦れる音がして、また静かになった。
梁の縄に、麦の束が二つ下がったままだった。穂の匂いは、手を伸ばした高さより上にある。
家の裏手へ回された。
麦を干した家の裏は、焼けた壁板を集めて積んである場所だった。炭の匂いは、朝が強い。板の黒いところへ指を当てれば、まだ粉が付く。
板の向こうの、焼け落ちた家の梁の下から、細い煙が一本上がっていた。七日たっても、まだ燻っているところがある。
「手順の話をします」
箱を提げていないほうが言った。帳面を開いて、指で押さえている。紙は厚くて、捲るたびに乾いた音が鳴った。声は低くもなく、高くもなかった。話しているあいだ、この人は一度も俯かなかった。
「広がるのを止めるのが、こちらの務めです」
「……はい」
「体はそのままです。こちらは、記憶のほうです」
リジアは頷いた。頷いたあとで、何に頷いたのかを考えた。
「順は、使った者からです。それから、見た者」
「……見ていない方も、ですか」
「どこまでにするかは、こちらで決めます」
どこまでなのかは、言われなかった。訊けば答えたのかもしれないが、訊いたところで、こちらが決められるものではない。
「どうしてそこまでする必要が」
「止まらないからです」
「ひとつ残ると、その人が話します。畑の水のついでに出て、次の村まで行きます」
言い返す形が、思いつかなかった。井戸のそばで声が低くなったのを、今朝、見ている。
帳面が閉じられた。板の向こうの煙は、まだ同じ太さで上がっている。
「立ち会っていただきます」
「……はい」
「見ているだけでいいです」
言い方に、責める色は無かった。畑へ水を回す段取りの話と、声の高さが変わらなかった。
村の奥へ歩いた。
道は細くなって、両側の家が焼け落ちているところだけ空が広い。焦げた柱が肩の高さで折れて、そこから上が無い。道の脇に、畝の切れたところから鍬が一本、立てたままになっていた。持ち主の家は、もう無い。突き当たりの家は風上だったので残っている。壁の下のほうに煤が上がっているだけだった。
軒下に、草が吊ってあった。
束は七つ。縄に等間隔で下がって、乾いたものから順に端へ寄せてある。どれも葉の裏を外へ向けて吊られていた。そうすると早く乾く。縄の結び目は軒の柱で二度巻かれていて、引いても緩まない結び方だった。リジアは支部でそれを教わったことがない。
板戸を引いて、中へ入った。
中は薄暗かった。壁の一面が棚で、仕切りに紙包みが入っている。戸口の脇に水の甕があって、蓋の代わりに板が載っていた。板の上に、小さな砥石が置いてある。竈の前の石に、薬研が置かれていた。車の縁に緑が残っていて、まだ洗っていないのが分かる。
薬師は、朝のうちにここへ戻されていた。誰がそう決めたのかは、言われなかった。
セラは、竈のそばに座っていた。薬研の車に手を掛けて、ゆっくり前へ押していた。
立たなかった。立てとは言われていない。
「次は、何があっても間に合わんよ。あんたがやるのかい」
答えは無かった。
「……あたしでもできたんだ。なんで仕舞っとくんだい」
「そこへ」
一人が、土間の真ん中を指した。セラは膝に手を置いて、言われたところへ座り直した。押さえる者は要らなかった。
リジアは戸口の内側に立った。そこから先へは行かなかった。
「ヴェスナ」
もう一人が、短く呼んだ。ヴェスナは箱を床へ置いて、蓋に手を掛けた。
箱が開いた。中から出てきたのは、杖だった。支部のものより短くて、太い。石突きを土間へ下ろすと、そこだけ土が沈んだ。縁に細い線が刻まれている。線は途中で折れて、また戻って、閉じていた。この線は、リジアが支部で見てきたどの杖にも無い。無いのに、持ち方は見たことのある持ち方だった。
詠唱が始まった。
長かった。言葉の切れ目がどこにあるのかも分からない。節の付け方は祈りに似ていて、似ているせいで、途中から耳が勝手に続きを待った。待っても、知っている句は一度も来なかった。
光は出なかった。土間の暗さは最初から最後まで同じだった。変わったのは、セラの肩が一度下がったことだった。
リジアは、自分の爪先を見ていた。土間の土に、浅い窪みがいくつもある。毎日同じところへ座る人の跡だった。
終わったあとも、セラは同じところを見ていた。
「……終わりました」
ヴェスナが言った。セラの前掛けの懐へ手を入れて、短い木の棒を取り出し、箱へ入れた。セラは手を動かさなかった。
「こんなに集まって、どうしたんだい。……誰か、具合でも悪いのかい」
それから、セラは石の上の薬研へ目をやって、少し手を伸ばして、途中で止めた。止めてから、その手を膝へ戻した。
リジアは、何も訊かれなかった。
棚の仕切りは半分ほどが空で、空いたところの底に、粉が薄く残っていた。
出るとき、軒下の草の下をくぐった。板戸が、押すときだけ軋んだ。乾いた草の匂いがした。麦を干した家の、天井の近くにあるのと同じ乾き方だった。
午後は、土間だった。
竈に火は入っていなかった。煮るものが無いので、匂いは人のぶんだけになっていた。
一人ずつ呼ばれた。呼ばれた人は戸口の近くへ移って、座るか、横になったままでいる。箱を提げていないほうが帳面を持ち、もう一方が杖を持って横に立った。
詠唱は、さっき聞いたのと同じだった。切れ目の分からない長さで、どの人のときも同じところまで続いた。
それが終わると、杖を当てていた。
リジアは、それを壁ぎわから見ていた。
当て方が、リジアのものと似ていた。手首を落として先のほうを体へ置き、置いてから動かさない。
違うのは、待つ長さだった。リジアは三つ数える。あの手は、一つで離れた。
当てられた人は、礼を言った。言ってから、言った自分に少し驚いたような顔をして、それからまた横になった。
筵の端が捲れていて、通るたびに誰かが踏んだ。踏まれるたびに、土の粉が少し上がった。
何人めだったかは、数えなかった。数えようとして、やめた。
箱を提げていないほうが、奥の寝床を一度見て、帳面へ目を戻した。
膝を火にやられた女が、戸口の近くで順を待っていた。待っているあいだに、隣の人の布を直してやっている。
「シスターさん、あれは何しとるんかね」
「……診て、います」
「ああ。そら、診てもらわんとね」
女は、それで納まった顔になった。順が来て、杖を当てられて、礼を言った。杖の下にいるあいだ、瞼が下がっていた。横になってから、天井の梁のほうを見ていた。
リジアは、自分の掌を見た。それから、手首を落として、膝の上へ置いた。
日が低くなってから、壁ぎわの痩せた男が肘を立てた。
戸口から入る光は、筵の端まで届かなくなっていた。
火の晩に、横で見ていたと言った男だ。呼ばれて戻ってきてから、まだ誰とも話していない。
「シスターさん」
「はい」
「抜けとるところが、あるんです」
男は、横になっている人たちのほうを一度見て、それからリジアを見た。
桶を提げた女へ、セラの話を確かめていたのは、この人だった。
「隣の者が戸を叩いて、逃げえと言うたんです。出たら、みな桶を持って走っとりました。ここへ入れられたのも覚えとる。呼ばれたのも覚えとるんです。……何で呼ばれたんかが、分からんのです。シスターさん、わしは、何かしたんでしょうか」
土間の音が、急に遠くなった。桶の水の音も、誰かの咳も、鳴ってはいた。鳴っているのに、遠かった。
「いいえ」
言えた。嘘はつかなかった。
男は待っていた。待たれているあいだに、言えることを探した。探すところは、もう無かった。
「……いいえ」
二度言った。二度目のほうが小さかった。
男は、ふうん、と言って、肘を下ろした。
「ほんなら、ええんです」
そのまま、横になった。
リジアは、その場から動かなかった。
夜になって、奥へ行った。
上の者は、この人のところへは来なかった。この人は、誰に治されたかを言えない。
喉の男は起きていた。匙で水を入れると、縁が下の歯に当たって小さく鳴った。昨日も、そこに当たった。
左の腕は、折れていたあたりの腫れも、もう指の腹では探せない。喉のほうは、昨日と変わらなかった。口が動いて、音にならない息が出た。
男は、頷いた。
礼のかたちの頷き方だった。誰に向けた礼なのかは、リジアには分からなかった。男は、それでも頷いていた。
リジアは匙を置いて、桶の水を替えた。替えるときに少し零れて土が黒くなり、男の口のまわりを拭いてから、布を膝へ戻した。それから、男の喉のそばへ掌を当てた。当てて、待って、離した。
届かない。
布を絞り直して、枕の下へ畳んで入れた。
翌朝、村の奥へ行った。
用は無かった。回る順でもなかった。夜のうちに降ったらしく、土を踏むと浅く沈んだ。それでも足は村の奥へ向いていた。
軒下に、草が吊ってあった。
束は八つになっていた。新しいのが一つ、乾いていないほうの端に足されている。葉の裏が外を向いていた。吊り方は、七つのときと変わらない。
戸は閉まっていた。
掛け金は下りていない。中にいるのかもしれないし、井戸へ出たのかもしれなかった。
中は見なかった。見れば、石の上の薬研が洗ってあるかどうかが分かる。
板戸へ手を伸ばして、軋む前に離した。
リジアは、来た道を戻った。
井戸のそばに、水を汲む列ができていた。
誰も、昨日のことを話していなかった。
分所の前で、足が止まった。
屋根は無い。石積みが四角く残っていて、台の上に聖像が立っている。差し伸べた手だけが上を向いていて、掌に灰が溜まっていた。寄付用の鉢は、灰の中から縁だけを出している。
膝をついた。膝のところに、水が染みた。
台を伝った蝋の跡は、まだ白く固まっていた。石積みの内側の土は、薪を積んだところが黒い。
目を閉じた。
言葉を探した。
習ったものは、いくつもある。病んだ人のための言葉、亡くなった人のための言葉、迷っている人のための言葉。どれも口に出す前から順番が決まっている。胸につかえても、言葉は出てきた。
口が開かなかった。
誰のために言うのかが、決まらなかった。
リジアは、濡れた土に膝をついたままでいた。
風が来ても、夜の雨を吸った聖像の掌の灰は、縁に貼りついたまま動かなかった。
リジアは目を開けて、立った。
立ってから、掌を見た。今日も人を診る。診て、布を替えて、水を飲ませる。
歩き出すと、裾が濡れて重くなっていた。膝をついたところに、土が付いていた。
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