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僕の世界  作者: 0u0
第二章
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第28話 あとでええ

――リジア


 朝のうちに、人を屋根の下へ入れることになった。


 井戸のそばの列は、夜のあいだにまた形が変わっていた。起きて家のほうへ戻った人のいた場所が空いて、空いたところへ、隣の人がすこしずつ寄っている。誰が指図したのでもない。冷えるほうから、風の当たらないほうへずれただけだ。


 数えると、十四人だった。


「そっちから」


 声のしたほうで、布のかかった杖《つえ》の先が、列の奥を指していた。年かさの聖療師だ。今朝も乾いたほうの布がかかっている。


「はい」


 運ぶ先は、村の入口寄りに一軒だけ残った家だった。屋根がある。壁の片側が煤《すす》で黒いだけで、中まで火は入っていない。土間が広くて、奥に竈《かまど》があった。梁《はり》から下がった縄に、麦の束が二つ、まだ吊《つ》るしたままになっている。麦を干す家だったのだと、あとで聞いた。乾いた穂の匂《にお》いが、天井の近くにだけ残っていた。


 戸板を出してください、とリジアは頼んだ。


 村の男が、手を止めて振り返った。


「戸を出せるのは、焼けんかった家だけですから」


 悪く言った声ではなかった。畑の話をするのと同じ調子だった。焼けた家からは、戸を外せない。外す戸が無い。それだけのことを言って、男はまた自分の手元へ戻った。


 結局、三枚で回した。


 乗せて、運んで、下ろして、また戻る。戻るあいだに戸板は空になっていて、次の人を乗せる。板は火の粉を浴びた側が毛羽立っていて、手を滑らせると細かいものが掌《てのひら》に刺さった。四度目の往復で、リジアの腕は肘《ひじ》の内側が細かく震えるようになった。震えているということに、次の人を持ち上げてから気づいた。


 最後に運んだのは、腕に布を巻いた男だった。


 左の腕は、昨日《きのう》のうちに骨が内側で繋《つな》がっている。触れば分かる。分かるが、喉《のど》のほうは何も変わっていない。口が動いて、息だけが出た。掠《かす》れた音にもならない、風だけの音だった。


「……いま、水を持ってきますね」


 男は頷《うなず》いた。頷き方だけが、昨日より深くなっていた。


 井戸から汲《く》んだばかりの水は、匙《さじ》の縁《ふち》を持つ指が痛くなるほど冷たかった。歯に当たると、男の眉《まゆ》が動いた。


「なんで、一つとこへ集めるんです」


 戸板を返しに来た男が訊いた。責めている声ではない。手順を訊く声だった。


「……声の出ない方がいますから。息の様子は、そばで見ていないと分かりません」


「はあ」


「まだ診ていない人も、おられますし」


 男は、土間の奥のほうを見た。それから、頷いて出ていった。


 嘘は、ひとつも言っていなかった。



 土間に十四人を並べると、家はもう歩く場所が無かった。


 匂いが変わった。外にいたあいだは、焦《こ》げた藁《わら》と濡《ぬ》れた灰の匂いが、上から降りてくるだけだった。屋根の下では、それが人の匂いと混ざる。汗と、膿《うみ》と、薬草を煮た湯気。壁と天井に当たって戻ってくるぶん、外の倍ほど濃い。


 リジアは端から順に見ていった。


 浅い火傷《やけど》は、赤みが引いてきている。塞《ふさ》がった腕は、腫《は》れが指の腹で分かるくらいまで下がった。診るたびに、手のほうが先に「昨日より軽い」と受け取っている。


「なあ、シスターさん」


 壁ぎわで、痩せた男が肘を立てた。顎で、奥の寝床を指している。喉の男が寝ているほうだった。


「あの人の腕、火の晩は、あっち向いとったんです。わし、横で見とった」


「……」


「それが、次の日にはもう曲がっとらん。そんなに早う繋がるもんですか」


 答えずにいると、男は自分で頷いた。


 隣で膝を抱えた女が、顔を上げた。


「セラさんが診とったんやろ」


「薬で、あんなに戻るもんかね」


 女も、奥の寝床を見た。


 土間の奥まで、声が渡っていった。


 戸口から、桶を提げた女が入ってきた。昨日、塀のそばへ連れていった女だった。


「あんた、昨日、セラさんの話をしとったやろ」


 痩せた男が言った。


「……そうやったかね。あたしゃ、何を言うとったんやろ」


 女は桶を置いて、自分の手を見た。


「歳やで」


 脇から声がした。女も笑って、桶の取っ手を握り直した。


 リジアは、巻いている布の端を指で押さえ直した。


 昼を回るころ、戸口の光が動いて、土間の床に細長い影が伸びた。


「シスターさん」


 入口のところに、若い男が立っていた。肩に麻《あさ》の袋を提げている。夜のうちに一度、自分で起きて家へ戻った人だった。


「もう歩けますんで」


「……はい」


「畑が、まだ水の中で。堰《せき》を落としたままなんです」


「傷は、開くことがあります」


 リジアは言った。それは本当のことだった。


「三日は、腕を上げないでください。それから、汗をかいたら巻き直しを」


 男は自分の腕を見て、それから戸口の外へ目をやった。


「巻き直しは、どこでしたらええですか」


「……ここで」


 男は、しばらく黙っていた。


「ここで」


 そう言って、袋を土間へ置いた。置いてから、置いた自分の手を見ていた。


 リジアは次の人のところへ移った。移りながら、いま自分が何をしたのかを、指のほうが先に数えていた。留めた。留めるつもりで言ったのではない。三日というのも、汗のことも、全部が本当のことだ。それでも、袋は下りた。十四が十五になったことには、移ってから気づいた。


 土間の奥のほうで、女の声がした。


「セラさんに診てもらえばええがな」


 膝《ひざ》を火にやられた女だった。起き上がれる。起き上がって、隣の人の布を替えてやれるくらいには動く。


「あの人は、あたしらの薬なら分かっとるもの。前も、うちの子の腹をな」


「セラさんも、ここにおられますから」


 リジアはそう言った。


「そんならええ。……あんた、シスターさん、聞いたかね。うちの人が、火の晩に見たって」


「――お水を、持ってきますね」


 立ち上がるのが、思ったより速かった。


 膝が伸びてから、自分が話を切ったことに気づいた。桶《おけ》は、手の届くところにあった。汲みに行く必要は、本当は無かった。



 薬師《くすし》は、奥の竈のそばにいた。


 石の上に鉢を置いて、なにかを潰《つぶ》している。乾いた音が、二つ、三つと間を置いて鳴った。指のあたりから、青いような、埃《ほこり》のような匂いが上がっている。竈にかけた湯からは、それより濃いものが立っていて、口の中まで苦かった。


「足りませんね」


 リジアが言うと、セラは手を止めずに答えた。


「昨日で終いだ」


 鉢の中を覗《のぞ》くと、緑よりも茶に近いものが薄く底に張っていた。潰れきって、もう粉になりかけている。


「これは、二人ぶんも無い」


「支部から、届くように頼みます」


「街まで二日だろ」


 セラは鉢を傾けて、中身を布の上へ落とした。落としてから、指で寄せて集めた。指の腹に残ったぶんまで、布の縁でこそげ取った。


「二日ぶん、どこから出すね」


 答えられなかった。


 答えが無いのではない。二日を埋められる手は、この土間にひとつだけある。使わせれば、この人は境の内へ入る。入った人がどうなるかは、昨日、自分の掌で押さえた。


 セラは布を四つに折って、口を紐《ひも》で縛った。


「洗うのだけは、やっときな」


「はい」


「水は、汲みたてを使いな。桶の底のは駄目だ」


 その言い方には、答え合わせをする響きが無かった。第一、いまのセラは訊《き》いてこない。あれから一度も、あの棒のことも、繋がった腕のことも、リジアに訊いていない。


 訊かないことのほうが、重かった。



 翌日の昼過ぎに、村の外から人が二人来た。


 白と、黒と、灰色。教会の白とは違う。糸の目が細かくて、道の埃が乗っても色が沈まない生地だった。二人とも荷を持たず、帳面だけを提げている。


 二人は畑のほうへ歩いていった。畝《うね》の間を、端から順に見ている。ときどきしゃがんで、水の引いた土に手を入れた。片方が指を擦《こす》り合わせ、もう片方が帳面へ何か書いた。


「……政府の方ですね」


 リジアが言うと、年かさの聖療師は畑のほうを見なかった。


「そっちを」


 顎《あご》で示したのは、土間の奥だった。


 リジアは戻った。あの二人が何を探しているのかを、自分は一度も考えていなかった。焼けた村に政府が来る。それだけで、理由は要らないと思っていた。


 二人は日が傾く前に畑を出て、枝道《えだみち》のほうへ下りていった。土間へは一度も入らなかった。誰にも、何も訊かなかった。



 脛《すね》の年寄りが熱を出したのは、その夜だった。


 列の端にいた人だ。前の巡りで診た脚だった。塞がりきらないまま、次の巡りまで待たせることになっていた。


 初めの朝に見たときは、灰がついていた。


 布を解くと、縁のところが濡《ぬ》れていた。膿だった。押すと、下から出てくる。甘いような、鉄のような匂いが、押すたびに指のあいだから上がった。出てくるあいだ、年寄りは天井の麦の束を見ていた。


「あとでええ」


 まだ、そう言った。


「向こうに、若いのがおる」


 リジアは、その脚を抱えたまま動かなかった。


「……いま、ここを診ます」


 出た声が、喉の奥を硬く擦った。


「向こうへは、あとで参ります」


 首の脇へ指を当てた。速い。指の下で、打つ間がすこしずつ詰まっていく。


「……しみますよ」


 洗った。汲《く》みたての水で、二度。膿を押し出して、濡らした布を当てた。皮の縁は寄せなかった。寄せてはいけないほうの傷だ。


 その上から、手を重ねた。


 脚の熱は下がらなかった。首の脇へ指を戻す。打つ間は、また詰まっていた。


 届いていない。


 病そのものを治すことはできない。和らげ、体を支えるところまで。習ったときは、条文の一行だった。


 もう一度、脈へ指を当てた。


「リジア」


 背中で声がした。


 振り返らなかった。指は、まだ脚の上にある。


「そっちへ」


 行かなかった。


 それ以上は、言われなかった。桶を持ち上げる音がして、土間の反対の端で、誰かの水を替える音が始まった。


 しばらくして、背中のほうで鉢を置く音がした。


 セラだった。膝をついて、年寄りの脚を見た。それから、リジアの手を見た。


「あんたの手でも、駄目なのかい」


「……はい」


 言えるのは、そこまでだった。


 なぜ駄目なのかを言えば、この人はまた一段、内側へ入る。傷は塞げるが、その下は塞げない。塞ぐという言い方をした時点で、それは奇跡の話ではなくなる。


 セラの手が、膝の上で止まった。


 止めたまま、しばらく年寄りの顔を見ていた。


「……湯を沸かすよ」


 立って、竈のほうへ戻っていった。


 沸かした湯で、できることは無かった。二人とも、手は空いていた。


 夜が明けるまでに、年寄りの息は浅く、速くなった。口のあたりが、甘く匂った。


 速くなってから、静かになった。



「そちらは、終わりました」


 年かさの聖療師が言った。


 敬体だった。この人がそれを使うのを、リジアはこれまでに一度しか聞いていない。


 村の者が三人、土間の入口に集まった。誰かの母親と、隣の家の男と、縄をなえる年寄りだ。


「焼いてやらんと」


「うちの薪《まき》なら、まだあります」


「……セラさんの薬なら、効いたかもしれんな」


 誰かが言った。責める調子ではなかった。畑の水の話をするのと、やはり同じ調子だった。


「セラさんも、薬は切れています」


 リジアは言った。


 言ってから、その名前を二度目に口へ出したのが自分だったと気づいた。


「分所は、屋根が無いですが」


 石積みだけは残っている。台に立った聖像は、差し伸べた手だけが上を向いたままだった。


「焼くのに、四人だ」


 年かさの聖療師が言った。


「四人が、半日いない」


 それだけだった。あとは、こちらで数えることになる。


 土間には十四人が残っている。水を替える手と、布を巻く手と、起こして飲ませる手がいる。半日、四人が抜ける。抜けたぶんは、誰かの水が半日遅れるということだ。


 誰も言い返さなかった。言い返せる形の言葉ではなかった。数だからだ。


「……夕方に、二人だけ」


 リジアが言った。


「二人で足りますか」


 縄をなえる年寄りが、指を折った。


「運ぶのに二人。積むのも、その二人で。……夕方なら、風が下りる」


「では、夕方に」


 声が、喉の低いところから出た。



 薪は、乾いたものから積むように言った。


 湿ったものを混ぜると煙が横へ這《は》う。それは知っていた。教わったのは、灰にして遺《のこ》すまでが務めだということだった。灰と、遺品を、身内へ渡す。書いて、支部へ送る。


 書くものが無かった。


 名前を訊いた。誰も、姓のほうを知らなかった。前の巡りの帳面にも、脛《すね》のことしか書いていない。


 火は静かだった。


 風が下りて、煙はまっすぐ上がった。首の後ろに、その風が当たった。日が落ちる前の空に、細い線が一本立った。村のどこからでも見える線だった。土間の中からも、戸口の四角に切り取られて見えていた。


 遠くで、薪が二度、鳴った。


 匂いだけが、あとから入ってきた。


 薪の煙とは違う。焼けた家の匂いとも違う。それが土間の奥まで届いたとき、寝ている人のうち何人かが、顔を戸口のほうへ向けた。誰も何も言わなかった。


 リジアは、そこにいなかった。


 土間の奥で、喉《のど》の男の口へ、匙で水を入れていた。匙の縁が下の歯に当たって、小さく鳴った。口の中が乾いていた。自分の口のほうだ。飲ませるあいだじゅう、リジアは一度も唾《つば》を飲まなかった。



 紙が戻ってきたのは、四日目の朝だった。


 街の支部から、馬で来た若い修道士が、封を年かさの聖療師へ渡した。馬の汗の匂いが、戸口まで入った。


 中は短かったらしい。読むのに、息を一つ吐くほどの時間しかかからなかった。


「上の者が来る」


 年かさの聖療師は、それだけ言った。


「いつです」


「明後日《あさって》の朝だ」


 それから、杖の布を掛け直した。


「それまで、ここを動かすな」


「……この人たちは、いつまで」


 訊いてから、訊くことではなかったと思った。答えは決まっている。


「二日だ」


 年かさの聖療師は、リジアのほうを見なかった。


「二日で、済む範囲が決まる」


 済む範囲。


 リジアは、土間に並ぶ十四人の顔を見た。この中の、何人だろう。


 戸口の外で、人が話していた。


 言い返す言葉は、やはり無かった。


 リジアは頷いた。首のほうが、口より先に動いていた。



 翌朝も、リジアは端から順に回った。


 土間の土は、朝のうちだけ冷たい。膝をつくと、布ごしに冷えが上がってきた。


 浅い火傷《やけど》は、また少し赤みが引いていた。塞がった腕は、指の腹で腫れを探しても、もう分からない。良くなっている。良くなったぶんだけ、この人たちがここにいる理由は減っていく。


 最後に、喉の男のところへ行った。


 左の腕は、もう布が要らない。触れば分かる。分かるが、喉は昨日と同じだった。口が動いて、息だけが出る。


「……聞こえますか」


 男は頷いた。喉の奥で、乾いた音が一度した。


「今日も、診ますね」


 届かないものが、ひとつある。だから、まとめて診る。


 それは本当のことだった。


 嘘ではないので、終わらない。


 リジアは、掌を男の喉のそばへ当てた。当てて、待って、離した。昨日と同じ手つきだった。明日《あした》も、同じ手つきになる。

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