第27話 次はどこへ
――ノア
村から戻った次の朝、ギルドへ寄った。
帳場には、受付の男がいた。
帳簿に線を引いている。指の腹で紙を押さえながら、次の行へ移っていく。爪が短く切ってあって、書き仕事の人の切り方だった。
「荷は、ありますか」
「東の枝道なら、ある」
男は顔を上げなかった。
枝道。街道を東へ半日行って、右手へ折れる道だ。
「……今日は、採取にします」
「好きにしな」
外へ出ると、風が乾いていた。
クルサは、街道沿いを歩いていれば籠に入る。ただし日陰の、湿った土のところほど汁が濃くなるので、そういう場所を選んで這うことになる。近いところのものは、たいてい先に採られている。同じ値なら濃いほうから売れるので、奥まで入るしかない。
三日ぶんをまとめて採ることにした。外で寝れば、そのあいだの宿代も浮く。
この街に来てからは配達ばかりで、一日じゅう薬草を探して歩いた日が、しばらくなかった。
東へ行く道は、街の反対側にある。僕は、西側の門から出た。
街道を西へ半日で、低い森に入る。
入口のあたりは日が入るので、草が高くて硬い。分けて進むたびに乾いた種が跳ねて、足首のあたりに引っかかった。低いほうへ下ると木の下が一段暗くなって、土の匂いが変わる。上は埃っぽいのに、下は水の匂いが混じっていた。
根と根のあいだに、細い流れがあった。
前に来たときと同じところを、同じ幅で流れている。手を入れると指の節まで冷たくて、掬って飲むと、鉄の味が少しした。
流れの縁に沿って、クルサが並んでいた。
膝をついて、葉の裏から見ていく。
日の当たるところのものは葉が厚くて色が濃く、よく育っているように見えるけれど、茎を折ると汁が薄い。日陰で少し徒長したくらいのほうが、切り口の赤が濃く出る。指へ垂らして擦り合わせると、粘りで分かった。
「……こっちだ」
声が出ていた。誰も聞いていない。
根の泥は、その場で落とす。持って帰る泥は重いだけで、値にならない。小刀の背で撫でるように払ってから根元を揃えて、蔓で二か所を縛る。縛る位置が上すぎると、運んでいるあいだに真ん中で折れてしまう。
束がひとつできると、少しうれしい。
これは、たぶん一生直らない。
鳥が二度鳴いて、そのあとは水の音だけになった。
日が傾くまでに、三束できた。
夜は、街道へ戻って窪みで寝た。
石が転がっているだけの、街道から少し外れたところだ。前に一度ここで寝たときは、鳥型の魔物に包み葉をひとつ持っていかれた。今度は袋の口を体の下に敷いておいた。
火を熾して、干し肉を炙る。脂が落ちて、そのたびに小さく音が鳴った。
バルゴは前のを畳んで取ってある。葉ごと噛むと苦い。苦いのに、肉の脂と混ざると急に甘くなって、噛むほど味が戻ってくる。表通りの人は葉を捨てるけれど、捨てるところがいちばんうまい。
「……うまい」
言ってから、火の粉がひとつ上がって消えた。
風は東から来ていた。
この風は、あの村のほうから来ている。
僕は火の位置を少し直した。
草の擦れる音がしたのは、火が落ちかけたころだった。
石の向こうだ。低い。地面すれすれを、こちらへ回り込んでくる。
匂いが先に来た。獣の匂いで、土と、腐った根が混じっている。
火の縁で、目が光った。
ひと組ではなかった。
白目まで黒く濁っている。焦げ茶の硬い毛と、指の長さほどの前爪。ザグルだ。三匹いた。餌の匂いを追ってきて、そのまま人の火のそばまで出てくる。
僕は立って、燃えている枝を一本、抜いた。
追うのではない。振り回すのでもない。
袋を背のほうへ寄せて、火を体の前へ出す。
一匹が横へ動いた。僕も、同じだけずれた。袋へ回る道に、体を入れた。
もう一匹が、火の脇まで来た。爪が石を擦る音が、近い。
僕は枝の先を地面へ突いて、火の粉を散らした。
鳴き声が短く二つ重なって、光っていたものが順に向きを変えた。草を擦る音が遠ざかって、それきりになった。
息を吐いた。指が落ち着くまで、しばらくかかった。震えは毎回くる。慣れることと、震えないことは、たぶん別のことだ。
「……行った」
火を足して、干し肉の残りを袋の奥へ押し込んだ。
翌朝、流れの低いほうへ下りた。
水気の多い、湿地寄りの土のところに、アマラとレニスが並んで生えている。アマラは根を掘るので、指を土へ入れて、崩さないように横から起こす。レニスは葉を一枚ずつ透かして、縁の傷んだものを外した。買い取る人は必ず透かすから、こちらで外しておかないと、その場で弾かれる。
束に混ぜれば、小銭の足しになる。
足しにしかならないものが、僕はけっこう好きだった。
昼を過ぎても、手を止めなかった。
膝が濡れて、指の腹が水でふやけて、皺が寄った。爪のあいだに黒い土が入って、押し出しても、また入った。
根は、掘った順に並べて日陰へ置く。日に当てると縮んで、値が落ちる。葉のほうは重ねすぎると下のが蒸れるので、途中で一度、束をほどいて入れ替えた。ほどくと薬草の匂いがまた立って、そのたびに腹が減った。
夕方までに、クルサがもう二束と、根が半袋になった。
街の門を入ったのは、次の日の昼過ぎだった。
ギルドの帳場に束を並べると、受付の男は一枚ずつ透かして、傷んだ葉を弾いていった。査定用の天秤が鳴って、皿が傾く。
硬貨が木目の上を滑ってきた。数えると、思っていたより多かった。
「汁の濃いクルサを採ってくるやつは、そう多くない」
「……ありがとうございます」
「値も上がってる。東の村から、けが人が運ばれてきてる」
手が、止まった。
「教会の支部へ回すぶんもある。助かる」
「……はい」
男は次の束へ移っていた。
誰が運ばれてきたのかは、言わなかった。訊かなかった。訊いても、たぶんこの人も知らない。
あの夜、僕が後ろを持った人も、その中にいるのかもしれない。
湯屋は、宿の裏の通りにあった。
入り口の脇に薪が積んである。太いのが下、細いのが上で、切り口が全部こちらを向いていた。乾き具合を見て並べ替える人がいる積み方だ。
五百レム硬貨を一枚、台の上へ置いた。
湯は、思っていたより熱かった。
肩まで入ると、背中の張っていたところが順番にほどけていく。腕の付け根と、腰の右のところだ。あの夜に変な持ち方をしてから、まだ残っている。膝の泥は指で擦ると簡単に落ちて、爪のあいだの黒いのだけが、しばらく残った。
誰かが柄杓で湯を掬う音が、石に反響して長く伸びた。
湯の面に、薬草の匂いが少し立った。
自分の腕から出ている匂いだった。三日ぶん、袖に入っている。
「……はー」
声が出た。
隣で湯を使っていた年寄りがこちらを見て、少し笑った。僕も笑った。それだけだ。
出るとき、番をしている女の人に礼を言った。
女の人は、うちは湯を落とすのが遅いから明日も来なと言った。明日も来ますと答えた。
飯屋は、大通りから一本入ると安くなる。
麦の粥と、煮た豆と、塩気の強い漬物が出た。粥は椀の底のほうが熱くて、掻き混ぜると湯気が上がり、豆の匂いが立った。腹へ入ると、指の先まで温かくなっていく。漬物は塩が勝っていて、そのぶん粥が甘く感じた。
奥の卓で、男が三人、飲んでいた。
「――で、助かったんだと」
「助からんて言われとったんじゃろ」
「言われとった。腕が、こう、内側へ折れてな」
匙が止まった。
「それが、次の日には繋がっとったと」
「そんなことがあるか」
「あるかい。だから言うとる」
断言したほうの男は、話しながら卓を指で叩いていた。二回叩いて、一度置いて、また二回。話が本当かどうかとは関係のない、癖の音だった。
「そのかわり、声は出んようになったと」
「そりゃ、割に合うとるほうじゃ」
男たちは笑った。
叩いていた指が、笑っているあいだだけ止まった。
「教会の人が来たんだろ」
「来た。来たけどな」
その先は聞こえなかった。誰かが椀を置いて、話はよそへ移っていった。荷が高い、冬が早い、今年の芋の出来。そういう話に混ざってしまうと、火の話は、もう戻ってこなかった。
僕は粥を食べ終えた。
椀から手を離すまでに、少しかかった。
助かった人がいる。
それは、いいことだ。
あの朝、水路の縁にいた人の腕には、僕が布を巻いた。指の色のことと、声が出ないことは、あとで見る人にそのまま渡した。
腕は、繋がった。
声は、戻らなかった。
僕が渡した二つのうち、片方だけだった。
誰が繋いだのかは、分からなかった。
外へ出ると、日が低くなっていた。
通りの人が、道の端へ寄っていくのが見えた。
荷車ではない。歩いている。前に二人、後ろに二人。黒っぽい上着で、真ん中に一人いた。
両腕を前で揃えて、縄で縛ってあった。
口のところにも、幅のある布が回してあった。
顔は下を向いていた。
顔を見なくても分かった。指の付け根に藁の跡がついている手だ。硬いところが、まだ黒く残っている。あの夜、火のそばで縄をなっていた手だった。
列が、僕の前を通った。
男は顔を上げなかった。
僕は、袋の紐を持ち直した。
言えば、足が止まる。それが分かっていた。
列は通りの先で曲がって、見えなくなった。見ていた人たちも、じきに散った。近くにいた女の人が連れの人に、何かあったのかね、と訊いていた。連れの人は、さあ、と答えた。
僕は、宿のほうへ歩いた。
袖に、まだ薬草の匂いが残っていた。湯で流したのに抜けていない。三日も持っていれば、そうなる。
同じ道の草の高さを、僕はもう覚えてしまっている。
次はどこへ行こうかと、久しぶりに考えた。




