第26話 半日と、少し
――ナヴィル
夜が明けても、水は止まらなかった。
堰は昨夜のうちに切られていて、畝のあいだへ入った水が、まだ低いほうへ回り続けている。誰かが止めに来る気配はなかった。村の側には、そちらへ回せる手がない。ナヴィルは片膝を泥へ落としたまま、端から順に掻いた。手を沈めて、握って、開く。握ったものが石なら脇へ放り、また同じ深さへ手を入れる。掻いた幅を目で覚えて、そのぶんだけ体を横へ送った。
水は、指の関節まで冷えを通してきた。
匂いは二通りあった。掘り返した土の、湿って青いような匂いと、その上に薄く乗っている焦げの匂いだ。風が村のほうから来るたびに、後のほうが濃くなった。息を吸うと、舌の奥に細かいものが残る。水を含んでも、すぐには消えなかった。
探しているものは、手の中に握るには大きすぎた。
昨夜、火の明かりの中で一度だけ見ている。小さく光った。指に嵌めるものではなかった。それだけが分かっていて、色も、重さも、何でできているのかも分からない。掌に当たるものがあるたびに指を回して、石だと分かるたびに脇へ置いた。脇の石は、もう二十を越えていた。
畝の土は、掘り返したばかりのところと、そうでないところで手応えが違った。柔らかいほうは指が沈む。沈んだところは、沈んだぶんだけ見えなくなる。時間が経てば経つほど、下へ行く。
掻く音のほかには、何も鳴っていなかった。
東の空が白んで、畑の面に薄い光が乗った。水の入っているところだけが、細く光る。光ると、その下が見えなくなった。畝の向こうで鴉が二度鳴いて、それきり鳴かなかった。
畦に座らせた男は、朝になっても同じ形で座っていた。手首を二周した縄が袖の上まで上がっていて、その手を腿の上に置いている。逃げる素振りはない。逃げられる状態でもなかった。縄が巻かれているあいだ、体に回路が彫ってあっても、何かを隠し持っていても、それは動かない。
道のほうを、村の男が通った。鍬を担いでいる。
「焼けとらん」
男はそう言って、畑のほうを見た。ナヴィルには言っていない。ひとりごとの形だった。それから、畦の男のほうへ目をやって、すぐに逸らして、道を戻っていった。土を踏む音が遠ざかって、村のほうの、桶の当たる音に混ざった。
この男が何をしたのかを、村はまだ知らない。
ナヴィルは、名乗っていなかった。訊かれもしなかった。
昼の少し前に、荷を負った若い男が道を通っていった。こちらを一度見て、そのまま行った。旅装だった。この村の者ではない。ナヴィルは手を止めずに見送った。日が高くなるまでに、さらに畝を三本ぶん掻いた。
日が高くなって、濡れた腕の裏が乾きはじめていた。
街までは二日ある。歩かせて戻ることになっていて、応援は来ない。
立ち上がると、膝の内側で泥が引きつった。掌を水で洗っても、爪の際に入ったものは残った。指の腹の皮が水を吸って、白く、皺が寄っている。触れたものの手触りが、朝より遠くなっていた。
畑には、焼けた跡が丸く残っている。縁のところで、焦げが唐突に終わっていた。昨夜、自分が落としたものだった。
押収できるものは、見つからなかった。
男を立たせた。道の脇に繋いでいた馬の手綱を取って、畑を出た。
道は、村を縦に抜けている。奥のほうでは、まだ低いところに煙が這っていた。燃えている音はもうしない。
明るいところで見ると、二つの焼け跡は同じ形をしていた。どちらも上から下へ広がって、途中で横へ逃げていない。夜に見たとおりだった。落ちたのではなく、置かれた火だ。
風下へ回ると、濡れた灰の匂いが鼻の奥まで来た。乾いて燃えたものの匂いとは、別のものだった。
井戸のそばに人が寝かされているのが、道からでも見えた。数は、遠くて分からない。
村の入口寄りに、石積みだけになった建物があった。
その前で、男の足が止まった。
引く手に、力は入れなかった。
男は石積みのほうを見ていない。道を挟んだ向かいの、小さな家のほうを見ていた。屋根は残っている。風下ではなかったので、焼けていない。
それだけで、分かった。
「――中を、見せていただきます」
男は答えなかった。答えを待つ言い方でも、なかった。
戸は閉まっていて、閂は掛かっていなかった。押すと、乾いた軋みがして開いた。
男を先に入れて、戸の内側に立たせた。手は、放さなかった。
土間に、履物が揃えてあった。
ナヴィルは数えた。数えてから、数えたことに気づいた。
揃え方が同じだった。爪先の向きも、間の空け方も、同じ手が並べたものだ。一組だけ、他より小さい。
後ろで、男は動かなかった。
中の空気は、外より冷たかった。焦げた匂いはここまで入っていない。かわりに、埃と、乾いた藁と、長く火を落とした竈の匂いがした。動かない空気の匂いだった。
その竈には、鍋が載っていなかった。火から下ろして、脇の台へ置いてある。中は空で、底のほうに焦げが薄く残っていた。掌を近づけても、何も来ない。冷たいというより、長いあいだ何も通っていない冷え方だった。
寝床には、掛けるものが無かった。持って出たのか、初めから無かったのかは、分からない。板の上に藁が薄く残っていて、手を当てると冷たかった。
台の隅に、ざるがひとつあった。
芋が三つ入っている。芽が伸びて、白く曲がって、ざるの目から下へ抜けていた。抜けた先が乾いて、途中で折れている。指で触れると、皮の下が空になっていた。
誰かが置いていったものだ、とナヴィルは思った。置いた者が誰かは、この家には書いてない。
土間の隅に、藁が積んであった。
積み方が高い。使う速さより、集める速さのほうが早い積み方だった。手前の一束だけ崩れていて、そこから細く筋が伸びている。撚りかけて、途中でやめたものだった。屈んで手に取ると、藁は乾ききっていて、指のあいだで軽く鳴った。
窓は板で塞いであって、その隙間から光が細く入っていた。埃が、その光の中だけで動いている。
帳面には、書く欄がある。家財、遺留品、同居の有無。どれも、決められた形で埋める欄だった。
履物の数を、彼は書かなかった。
村を出るとき、誰も見送らなかった。
道の両側の家は戸口が開いたままだった。外した戸の行き先を、訊く必要は無かった。夜のうちに、二枚。朝になって、もう一枚。担いでいった者たちは、まだ戻っていない。
枝道は、村を出てすぐに細くなる。
草が両側から内側へ倒れかかっていて、朝の露が乾ききらないうちは裾が重くなった。掻き分けるたびに草の青いところが匂って、そのぶんだけ、後ろの匂いが薄くなる。前を歩かせた男の背中は、痩せていた。肩の骨の位置が、濡れた上着の上からでも分かる。歩く速さは落ちない。落ちないが、歩幅が短い。畑を歩き慣れた者の歩き方だった。
半刻ほど、どちらも黙って歩いた。
「お名前を」
答えは、返らなかった。
「どこで教わりましたか」
草の鳴る音に、後ろから蹄の音が重なった。
「渡した者の背格好だけでも」
男は前を向いたままだった。首の後ろに藁屑が一本ついていて、それが歩くたびに揺れていた。
紙に並んでいる項目は、六つある。名前、出身、経路、教授者、媒体の入手、回路を刻んだ者。順に訊いて、順に返らなかった。ナヴィルは、順に訊いた。訊かないという選択が、彼の側には無かった。
男の掌が、縄の下から半分見えていた。
指の付け根に、横一本、擦れた跡がある。皮が厚くなって、そこだけ色が違う。同じ動きを、年の単位で続けた手のつき方だった。ナヴィルは、それが何の跡かを知らない。畑の男の手にも、似たものはある。
昼を過ぎて、風が変わった。
背中の側から来るようになって、匂いが薄くなった。焦げたものの匂いは、そのあたりで終わっていた。かわりに、日の当たった草の、干し草に近い匂いが上がってきた。喉の奥に残っていた粉の味も、そのころには薄くなっていた。
道の端に、戸板があった。
二人が、その脇に座っていた。膝を立てて、腕をその上に置いている。担ぎ棒がわりの棒が、戸板の横に転がっていた。
ナヴィルは、足を止めた。
前の男が振り返った。昨夜、道の端でナヴィルを見た男だった。下から順に見上げて、顔のところで止める。その見方を、もう一度した。
「……朝方でさ」
訊く前に、そう言った。
戸板の上のものには、上から布が掛けてあった。掛け方が丁寧だった。端を折り込んで、風で捲れないように石を置いている。足元のほうだけ、布が短い。
「……どこを」
「煙です」
男は、戸板のほうを見なかった。
「息はしとったんです。ずっと、しとった。しとったのに」
そこで言葉が切れた。後ろの男は、地面を見たままだった。指で、乾いた土を意味もなく掻いている。
ナヴィルは、戸板の横に立った。
できることは、無かった。
教会の杖なら、あるいは、とそこまで考えて、その先が無いことに行き当たった。彼が身につけているのは、燃やすための器だけだった。この道の上で、それは、ただ重い。指に嵌めた器は、いつもと同じ温度をしている。
昨夜、この戸板とすれ違ったとき、街まで何日かと訊いた。二日だと言われた。ナヴィルは、その二日を数えた。数えたところで、道が短くなるわけではない。
半日と、少し。
その人が進めたのは、そのぶんだった。
「……村へ、戻られますか」
「戻ります」男は言った。「置いてはいけんでしょう」
二人は立ち上がって、棒を戸板の下へ通しはじめた。板と棒の当たる音が、二度した。前と後ろで持ち上げる。持ち上げるとき、前の男が短く息を吐いた。同じ重さのはずのものが、行きより重そうに見えた。
通り過ぎるとき、後ろの男が一度だけこちらを見た。
その目は、ナヴィルの後ろへ行った。
縄を巻かれた男が、そこに立っている。
後ろの男は、何も言わなかった。言わずに、前を向いて、歩き出した。この人たちも、この男が何をしたのかは知らない。
戸板が遠ざかっていく。板の軋みが、草の音に紛れて、聞こえなくなった。
ナヴィルは、隣を見た。
男は、そちらを見ていた。目を逸らしてはいなかった。顔は動いていない。ただ、縄の巻かれた手が、腿の高さで一度、開いて、閉じた。
それだけだった。
風が、草を鳴らして通り過ぎた。
その夜は、枝道の途中で止まった。
火は焚かなかった。焚けば見える。見えて困る相手が、この道に何人いるのかを、ナヴィルは知らない。
馬を木へ繋いでから、男を根元に座らせた。縄は解かなかった。革袋の水を飲ませると、喉の鳴る音が二度した。それから干した肉を半分渡した。噛むのが遅かった。塩の利きすぎたやつで、ナヴィルの側でも、噛むほどに口の中が乾いた。
「痛みますか」
訊いてから、答えが返らないことを思い出した。
男は肉を噛み終えて、地面のほうを見ていた。
それから、訊かれていないことを、ひとつだけ言った。
「……ありゃ、誰でしたか」
低い声だった。返事が来るものとして訊いた声では、なかった。
ナヴィルは、答えを持っていなかった。名前を訊いていない。戸板の上の顔も見ていない。布が掛かっていた。
「――分かりません」
そのあと、男の口は開かなかった。
夜の枝道は、両側の草が黒く盛り上がって見えた。風が来るたびに、その黒いところだけが動いた。地面から冷えが上がってきて、外套の裾から入った。露の匂いが、夜のあいだじゅう続いていた。
翌日、道の先に人が見えた。
三人だった。前を歩いているのが誰かは、遠くからでも分かった。歩き方が、焼けた倉の前で見たものと同じだった。
監察官が、こちらを認めて足を緩めた。
「アズレイム卿」
それから、ナヴィルの後ろの男を見た。見て、それだけで済ませた。
「煙を見た者がいた」
「……そうですか」
「上がるのに、まる一日かかった」
監察官は、道の先のほうへ目をやった。この道が、まだどれだけ続くのかを測る目だった。上着の肩が白く粉を吹いている。歩きどおしの埃だった。
「村は」
「二か所です。村長の家と、教会の分所」
「けが人は」
「井戸のそばに集めてあります。数は、数えていません」
言ってから、ナヴィルは自分が数えなかったものを思った。
「押収は」
監察官の声の高さは、変わらなかった。
「――できていません」
ナヴィルは言った。
「村の外れの畑です。堰が切られていて、水が回っています。落ちた場所は分かっていますが、掻いても出ませんでした。時間が経つほど、下へ行きます」
「畝の何本目だ」
「東の端から、七本目までを掻きました。八本目から先が、まだです」
監察官は頷いた。頷いて、後ろの二人へ何か言った。二人は、こちらを見ずに道の先へ歩き出した。ナヴィルの横を通るとき、片方が縄の男を見て、それから前を向いた。
「身柄は、こちらで」
監察官が言った。
ナヴィルは、縄の端を離した。
離した掌に、縄の撚りの跡が残っていた。指を握って開くと、跡のところだけ、感覚が遅れて戻ってきた。
街道の口まで、あと半日ある。
紙の項目は六つ。供述で埋まったのは、そのうちの一つも無かった。
書けるものは、別にあった。確保の日時。場所。使用の回数。焼けた家の数。運ばれた人数。押収できなかったこと。日数。
どれにも、書く欄があった。
帳面を開いて、そこまで書いて、指が止まった。
男の掌の跡のことを、書く欄が無かった。土間の履物のことも、無かった。芽の伸びた芋のことも、藁の積み方のことも、どこにも書く場所が無い。
書けば、いつか誰かが読む。読んだ者が、それを何と読むのかは分からない。
書かなければ、無かったことになる。
ナヴィルは、帳面を閉じた。
数えた数は、書かなかった。




