第25話 先に来ていた手
――リジア
谷の底は、朝が遅い。
尾根の向こうが白んでも、下の家々にはまだ日が入らない。屋根の藁に置いた霜が乾かずに残っていて、指で触れると腹のところが濡れた。竈の煙が三本、まっすぐ立っている。風の来ない土地だった。
リジアは荷の紐を結び直していた。
結び目に指をかけたところで、戸の開く音がした。
男が出てきていた。
自分の足で敷居をまたいで、片手を柱にかけて、そこで一度止まった。左の腿に体重を移すときだけ、動きが半分になる。それから、また歩いた。
「歩いて、よろしいんですか」
付き添いの女が、後ろから言った。
「八日目です」
リジアは答えて、それから男のほうを見た。
「……見せていただいても」
男は自分の腿を見た。
見てから、頷いた。
膝をついて、裾をまくる。
七日前に閉じた線は、まだそこにあった。細い。色が周りと違って、白っぽく、その両側だけが少し盛り上がっている。指の腹を横に当てて、そっと引いた。皮が下で滑った。中で繋がっている手応えだった。
「痛みますか」
男は、また腿を見た。
「……昨日より」
それだけだった。
少ないと感じてから、少ないと感じた自分に気づいた。この人の声を聞くのは、これが初めてだった。運ばれてきた夜も、七日のあいだも、呻きしか聞いていない。
「開いていません」
言うと、女のほうが息を吐いた。男は布の端を指で押さえてから、腰を下ろした。押さえてから動く。七日のあいだに覚えた順番だった。
「洗って、乾かしてください。貼るものは、もう要りません」
「……はい」
「重いものは、まだです」
男は腿を見た。
「炭は」
「……いつからなら」
言い直したのは、男のほうだった。
背中で、水を捨てる音がした。
年かさの聖療師が、桶を返しに来ていた。
「終わったか」
「はい」
「なら、先を」
それだけ言って、もう背を向けていた。杖を持つほうの手に、乾いた布が一枚かかっている。この人は、集落へ来てから一度も座らなかった。
尾根へ上がると、日が当たった。
登り口の草には霜が残っていたが、上がりきるころには乾いていた。振り返ると、谷はまだ影の中にある。三本の煙は、細いまま動いていない。
前を向いたとき、東の下に、それが見えた。
煙だった。
谷の三本とは太さが違う。低いところで横に長く伸びて、風の向きへ流れている。上がっているのではない。もう落ちかけている煙だった。
どこかは、考えるまでもなかった。
枝道を下りて、突き当たりの村。分所のある村だ。半月前に、自分で掃いて帰った。
リジアは、走り出していた。
走り出してから、走っていることに気づいた。
草の露が裾を重くして、下りの石が踵の下で動いた。息が上がって、喉の奥が冷たくなった。耳のそばで風が鳴り、後ろの足音が遠くなった。
「リジア」
後ろから、声がかかった。
年かさの聖療師は、速さを変えていなかった。
「向こうへ着いて、使えない者を一人増やすな」
リジアは、足を緩めた。
「……でも、少しでも早く」
「潰れれば、同じだ」
その先が、出てこなかった。
それでも、止まりはしなかった。
枝道に合わさるまで、一度も座らずに下りた。年かさの聖療師は、離れずに後ろから来た。
村へ入ったのは、昼を回ったころだった。
急いで下りて、これだった。
匂いは、村の手前から来ていた。
支部の治療所で嗅ぐものとは違う。あちらは湯と、石鹸と、晒を煮た匂いがする。ここは焦げた藁と灰と、その下で濡れている土だった。息を吸うと、喉の奥に細かいものが残った。水を含んでも、しばらくすると戻ってきた。
最初に会ったのは、鍬を担いだ男だった。
「火は」
「昨日の夜だ」
「みなさんは」
「井戸のとこだ。二か所から出た。奥の村長の家と、そっちの分所と」
「何人ですか」
訊いてから、この男に分かる数ではないと気づいた。数は、これから自分で数える。
男は、指を折らなかった。
「知らん。運ばれてったのが、三人」
「セラさんは」
「まだ回っとる」
それだけ聞いて、リジアは歩き出した。
歩き出してから、礼を言い忘れたことに気づいた。
焼け残った家は、戸口が開いていた。
閉める戸が、そこに無い。外したあとの縁だけが残って、土間の奥まで外から見えている。寝床も、鍋を置く台も、そのまま道の側を向いていた。閉められない家が、両側に続いている。
風が土間を抜けるたびに、中の灰の匂いが道まで出てきた。人のいる家の音は、どこからもしない。
戸がどこへ行ったのかは、訊かなくても分かった。
分所は、石積みだけになっていた。
その前で、足が止まった。
止めたのではない。止まった。
屋根が無い。前に来た日に、ここを掃いた。箒の先が石のどの高さに当たるかを、リジアの手のほうがまだ覚えていた。
寄付鉢は、灰に埋まって縁だけが出ていた。中の小銭は、そのままそこにある。誰も拾っていない。
聖像は、立っていた。
台から落ちずに、差し伸べた手の先まで残っている。翼のかたちのところが煤で黒く、片側だけが厚かった。
獣脂の匂いは、その足元から来ていた。蝋燭の流れた跡が、白く固まって台を伝っている。立てたのは、たぶん自分だ。あの日、一本、灯して帰った。
手の先には、今日も誰もいない。
「リジア」
呼ばれて、体のほうが先に動いた。
奥には、まだ煙が立っていた。低く、細く、風の下へ落ちていく。
二か所から出たなら、逃げる向きが二つ塞がる。人は真ん中へ寄る。寄ったところに、いま並んでいる。
井戸のところに、人がいた。
女が二人、桶を提げて動いている。座って布を裂いている年寄りがいた。裂ける音が、間を置いて一度ずつ鳴った。鴉が畑のほうで鳴いて、誰も追わなかった。
教会の白を見て、手を止める人がいなかった。
「そっちから」
年かさの聖療師が、列の奥のほうを顎で指した。
「はい」
膝をついて、順に見ていった。
浅い火傷には手が届く。赤みが引いて、水疱が萎む。深いものには届かない。皮が面で失われているところは、寄せて塞ぐ縁が無い。指を当てて、当てたところで手を離す。離すたびに、離したことが掌に残った。
列の端に、脛の悪い年寄りがいた。
前の巡りで診た脛だった。一度では塞がらないと言って、日にちがかかりますと言って、それきりになっている。硬く盛り上がった縁のところに、今日は灰がついていた。
手を伸ばすより先に、年寄りは焼けた側へ顔を向けた。
「あとでええ」
言ったのは、年寄りのほうだった。
「向こうに、若いのがおる」
それから、鼻から短く息が抜けた。咳ではなかった。
リジアは、立って向こうへ行った。
行きながら、自分が言われたとおりに動いたことに気づいた。
七人目で、布の巻かれた腕に行き当たった。
水路の縁に、男が仰向けに寝ていた。
左の腕に布が巻いてある。腕と胴を、ひとまとめにして巻いてあった。裂いた布で、端の始末はしていない。
「……触りますね」
結び目に指をかけた。
布は乾いていた。染みたところだけが硬くなって、爪の先に当たる。解くと、その硬いところが折れる音を立てた。
解きながら、指のほうが先に読んでいた。
添え木が無い。
探した跡も無い。この村には、まっすぐな棒なら垣根にも軒にもあった。無いのではなく、探していない。
巻きは、肘の下で一度ゆるめてあった。
そこだけ、締めていない。曲がっているものを、曲がったまま通してある。
その意味が分かったとき、リジアの手は、もう最後のひと巻きを解いていた。
腕は、まっすぐだった。
肘の下に、向きの違うところが無い。腫れも引いている。指の先まで色が通っていて、爪の下が桃色をしていた。
リジアは、肘の下へ指を滑らせた。
滑らせてから、滑らせたことに気づいた。
折れたはずのところに、動く端が無い。骨は、内側でひとつになっていた。
今朝、谷で確かめたのと同じ手応えだった。
男が口を動かした。
声は出なかった。空気だけが、喉の奥で鳴った。
「……無理をなさらないで」
言いながら、耳の奥で数えていた。
煙を吸った喉は戻らない。焼けたところは、誰の手でも戻らない。
それは、この人の腕を治した手にも、戻せなかったということだった。
顔を上げた。
井戸のそばに、セラが立っていた。
前掛けは煤で灰色になっていた。髪が半分ほどいて、片方だけ肩にかかっている。
手に、短いものを持っていた。
乳棒くらいの木の棒だった。掌の中に隠れる長さで、指のあいだから両端だけが出ている。表に浅い刻みが走っていた。何本も、同じ向きに。埋めてはいない。溝の縁が黒く焦げて、中に煤が溜まっていた。
近くに立つと、煙の匂いがした。髪にも前掛けにも入っていて、洗って落ちる入り方ではなかった。
その配置を、リジアは知っていた。
支部の杖にも同じ走り方がある。ただし、こちらは彫りが浅い。深さが揃っていない。途中で一度、線が逃げている。
息を吸うところで、胸が動かなくなった。
自分で止めたのではなかった。
「セラ、さん」
セラは、隠さなかった。
持ち替えもしなかった。持ったまま、リジアのほうへ歩いてきて、水路の縁の男を見下ろした。
「息は、戻った」
いつもの声だった。
「声は、戻らん」
手が、震えていた。
棒を持っているほうの手だった。震えは肘から先で、動かそうとすると止まって、止めるとまた出た。セラは、その手を前掛けで拭った。拭いても、震えは前掛けの下に残った。
「ひとりだけかい、と訊かないんだね」
「……」
「十七人、いたよ」
責めてはいなかった。薬の匙を数えるときと、同じ調子だった。
「薬は昼で尽きた」
セラは棒を軽く上げて、また下ろした。
「これは、昨日の晩から懐にあった。火のあいだも、ずっとだ」
「使えば残る。あんたらに見つかる。見つかれば、村に薬師がいなくなる」
リジアの口が、開いた。
「だから、待った。待って、この人だけにした」
セラの目が、初めてリジアのほうへ来た。
「あんたなら、誰にしたね」
答えられなかった。
助かる者に魔力と時間を使え、という言葉なら知っている。何度も聞いて、何度も、その通りに手を離した。それを今この人へ返せば、この人がやったことを正しいと言うことになる。
言わなければ、この人は間違ったまま残る。
どちらも、口から出なかった。
「あんた、あのとき何も言わなかったろ」
セラは棒を前掛けの中へ落とした。
「祈っても授からんもんは、授からんのだと思ってた。それはそれで、こっちも納得してたんだ」
手が、また前掛けの上で止まった。
「授かるもんじゃなかったんだね。教わるもんだった」
風が、灰の表面だけを動かした。
「なんで、教えてくれなかったんだい」
口は、動かなかった。
答えが無いのではない。あるものを、出せなかった。出せば、この人は内側へ入る。入れば、消される側になる。
「――リジア」
背中で、声がした。
年かさの聖療師が、列のほうに立っていた。
その隣に、女がひとりいた。五十くらいの、水を汲んでいた人だ。桶を提げたまま、口を動かしている。手も一緒に動いていた。話しながら手を止めない人だった。
「――だから、あたしゃ見てたんですよ。セラさんが、こう、手をこう出して、そしたらあの人が」
「そっちを」
年かさの聖療師が言った。
リジアの体が、先に動いた。
女の肩へ手を回して、列から離した。焼け残った塀のほうへ、二歩、三歩。女は逆らわなかった。逆らうほどの力もかけていない。ただ、肩の下で骨が動くのが掌に伝わった。
「なんです」
女が言った。
リジアは答えなかった。
年かさの聖療師が、襟の下から輪を出した。
小さい。革紐で下げてある。降臨者の頭の後ろの、あの形だ。信者が首から下げているものと、外からは見分けがつかない。
内側の縁に刻んだものが、日を受けて、一度だけ光った。
井戸のほうで、釣瓶が石を打つ音がした。誰かが水を汲んでいる。
詠唱は、短かった。
三つか、四つ。リジアの知っている言葉だった。使ったことは、まだ無い。
――広がらないように、必要な分だけ。見たところだけを消す言葉だと、習った。
女の口が、途中で途切れた。
言い終えた顔ではなかった。続きを探している顔だった。桶を持ち直して、あたりを見る。塀を見て、リジアを見て、それから自分の手を見た。
「……あれ」
リジアは、肩から手を離した。
離した掌に、まだ骨の形が残っていた。
「いま、何か言いましたか」
女が、リジアを見て言った。
悪いことをした人の顔ではなかった。落としものを探している人の顔だった。手はもう動いていない。動かし方を、いま思い出せずにいる。
「……あたしゃ、なんの話しとったんやろ」
女は、自分の手をもう一度見た。指が途中まで上がって、止まった。
「井戸の水が濁っとった。その話やったかね」
「いいえ」
リジアは言った。
それは、嘘ではなかった。




