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僕の世界  作者: 0u0
第二章
56/64

第25話 先に来ていた手

――リジア


 谷の底は、朝が遅い。


 尾根の向こうが白んでも、下の家々にはまだ日が入らない。屋根の藁《わら》に置いた霜が乾かずに残っていて、指で触れると腹のところが濡《ぬ》れた。竈《かまど》の煙が三本、まっすぐ立っている。風の来ない土地だった。


 リジアは荷の紐《ひも》を結び直していた。


 結び目に指をかけたところで、戸の開く音がした。

 男が出てきていた。


 自分の足で敷居《しきい》をまたいで、片手を柱にかけて、そこで一度止まった。左の腿《もも》に体重を移すときだけ、動きが半分になる。それから、また歩いた。


「歩いて、よろしいんですか」

 付き添いの女が、後ろから言った。

「八日目です」

 リジアは答えて、それから男のほうを見た。

「……見せていただいても」


 男は自分の腿を見た。

 見てから、頷《うなず》いた。


 膝《ひざ》をついて、裾《すそ》をまくる。

 七日前に閉じた線は、まだそこにあった。細い。色が周りと違って、白っぽく、その両側だけが少し盛り上がっている。指の腹を横に当てて、そっと引いた。皮が下で滑った。中で繋《つな》がっている手応えだった。


「痛みますか」

 男は、また腿を見た。

「……昨日より」

 それだけだった。


 少ないと感じてから、少ないと感じた自分に気づいた。この人の声を聞くのは、これが初めてだった。運ばれてきた夜も、七日のあいだも、呻《うめ》きしか聞いていない。


「開いていません」

 言うと、女のほうが息を吐いた。男は布の端を指で押さえてから、腰を下ろした。押さえてから動く。七日のあいだに覚えた順番だった。


「洗って、乾かしてください。貼るものは、もう要りません」

「……はい」

「重いものは、まだです」

 男は腿を見た。

「炭は」

「……いつからなら」

 言い直したのは、男のほうだった。


 背中で、水を捨てる音がした。

 年かさの聖療師が、桶《おけ》を返しに来ていた。


「終わったか」

「はい」

「なら、先を」


 それだけ言って、もう背を向けていた。杖《つえ》を持つほうの手に、乾いた布が一枚かかっている。この人は、集落へ来てから一度も座らなかった。



 尾根へ上がると、日が当たった。


 登り口の草には霜が残っていたが、上がりきるころには乾いていた。振り返ると、谷はまだ影の中にある。三本の煙は、細いまま動いていない。


 前を向いたとき、東の下に、それが見えた。


 煙だった。

 谷の三本とは太さが違う。低いところで横に長く伸びて、風の向きへ流れている。上がっているのではない。もう落ちかけている煙だった。


 どこかは、考えるまでもなかった。

 枝道を下りて、突き当たりの村。分所のある村だ。半月前に、自分で掃いて帰った。


 リジアは、走り出していた。

 走り出してから、走っていることに気づいた。


 草の露が裾を重くして、下りの石が踵《かかと》の下で動いた。息が上がって、喉《のど》の奥が冷たくなった。耳のそばで風が鳴り、後ろの足音が遠くなった。


「リジア」


 後ろから、声がかかった。

 年かさの聖療師は、速さを変えていなかった。


「向こうへ着いて、使えない者を一人増やすな」


 リジアは、足を緩めた。


「……でも、少しでも早く」

「潰れれば、同じだ」


 その先が、出てこなかった。


 それでも、止まりはしなかった。


 枝道に合わさるまで、一度も座らずに下りた。年かさの聖療師は、離れずに後ろから来た。



 村へ入ったのは、昼を回ったころだった。


 急いで下りて、これだった。


 匂《にお》いは、村の手前から来ていた。

 支部の治療所で嗅《か》ぐものとは違う。あちらは湯と、石鹸《せっけん》と、晒《さらし》を煮た匂いがする。ここは焦《こ》げた藁と灰と、その下で濡れている土だった。息を吸うと、喉の奥に細かいものが残った。水を含んでも、しばらくすると戻ってきた。


 最初に会ったのは、鍬を担いだ男だった。


「火は」

「昨日の夜だ」

「みなさんは」

「井戸のとこだ。二か所から出た。奥の村長の家と、そっちの分所と」

「何人ですか」


 訊《き》いてから、この男に分かる数ではないと気づいた。数は、これから自分で数える。


 男は、指を折らなかった。

「知らん。運ばれてったのが、三人」


「セラさんは」

「まだ回っとる」


 それだけ聞いて、リジアは歩き出した。

 歩き出してから、礼を言い忘れたことに気づいた。



 焼け残った家は、戸口が開いていた。

 閉める戸が、そこに無い。外したあとの縁だけが残って、土間の奥まで外から見えている。寝床も、鍋を置く台も、そのまま道の側を向いていた。閉められない家が、両側に続いている。

 風が土間を抜けるたびに、中の灰の匂いが道まで出てきた。人のいる家の音は、どこからもしない。

 戸がどこへ行ったのかは、訊かなくても分かった。


 分所は、石積みだけになっていた。


 その前で、足が止まった。

 止めたのではない。止まった。


 屋根が無い。前に来た日に、ここを掃いた。箒《ほうき》の先が石のどの高さに当たるかを、リジアの手のほうがまだ覚えていた。

 寄付鉢は、灰に埋まって縁だけが出ていた。中の小銭は、そのままそこにある。誰も拾っていない。


 聖像は、立っていた。

 台から落ちずに、差し伸べた手の先まで残っている。翼のかたちのところが煤《すす》で黒く、片側だけが厚かった。

 獣脂《じゅうし》の匂いは、その足元から来ていた。蝋燭《ろうそく》の流れた跡が、白く固まって台を伝っている。立てたのは、たぶん自分だ。あの日、一本、灯《とも》して帰った。

 手の先には、今日も誰もいない。


「リジア」


 呼ばれて、体のほうが先に動いた。


 奥には、まだ煙が立っていた。低く、細く、風の下へ落ちていく。

 二か所から出たなら、逃げる向きが二つ塞がる。人は真ん中へ寄る。寄ったところに、いま並んでいる。


 井戸のところに、人がいた。


 女が二人、桶を提げて動いている。座って布を裂いている年寄りがいた。裂ける音が、間を置いて一度ずつ鳴った。鴉《からす》が畑のほうで鳴いて、誰も追わなかった。


 教会の白を見て、手を止める人がいなかった。


「そっちから」

 年かさの聖療師が、列の奥のほうを顎《あご》で指した。

「はい」


 膝をついて、順に見ていった。

 浅い火傷《やけど》には手が届く。赤みが引いて、水疱《すいほう》が萎《しぼ》む。深いものには届かない。皮が面で失われているところは、寄せて塞《ふさ》ぐ縁《ふち》が無い。指を当てて、当てたところで手を離す。離すたびに、離したことが掌《てのひら》に残った。


 列の端に、脛《すね》の悪い年寄りがいた。


 前の巡りで診た脛だった。一度では塞がらないと言って、日にちがかかりますと言って、それきりになっている。硬く盛り上がった縁のところに、今日は灰がついていた。

 手を伸ばすより先に、年寄りは焼けた側へ顔を向けた。

「あとでええ」

 言ったのは、年寄りのほうだった。

「向こうに、若いのがおる」

 それから、鼻から短く息が抜けた。咳ではなかった。


 リジアは、立って向こうへ行った。

 行きながら、自分が言われたとおりに動いたことに気づいた。


 七人目で、布の巻かれた腕に行き当たった。



 水路の縁に、男が仰向けに寝ていた。


 左の腕に布が巻いてある。腕と胴を、ひとまとめにして巻いてあった。裂いた布で、端の始末はしていない。


「……触りますね」


 結び目に指をかけた。

 布は乾いていた。染みたところだけが硬くなって、爪《つめ》の先に当たる。解くと、その硬いところが折れる音を立てた。

 解きながら、指のほうが先に読んでいた。


 添え木が無い。

 探した跡も無い。この村には、まっすぐな棒なら垣根《かきね》にも軒《のき》にもあった。無いのではなく、探していない。


 巻きは、肘《ひじ》の下で一度ゆるめてあった。

 そこだけ、締めていない。曲がっているものを、曲がったまま通してある。


 その意味が分かったとき、リジアの手は、もう最後のひと巻きを解いていた。


 腕は、まっすぐだった。


 肘の下に、向きの違うところが無い。腫《は》れも引いている。指の先まで色が通っていて、爪の下が桃色をしていた。


 リジアは、肘の下へ指を滑らせた。

 滑らせてから、滑らせたことに気づいた。

 折れたはずのところに、動く端が無い。骨は、内側でひとつになっていた。

 今朝、谷で確かめたのと同じ手応えだった。


 男が口を動かした。

 声は出なかった。空気だけが、喉の奥で鳴った。


「……無理をなさらないで」


 言いながら、耳の奥で数えていた。

 煙を吸った喉は戻らない。焼けたところは、誰の手でも戻らない。

 それは、この人の腕を治した手にも、戻せなかったということだった。


 顔を上げた。


 井戸のそばに、セラが立っていた。



 前掛けは煤で灰色になっていた。髪が半分ほどいて、片方だけ肩にかかっている。

 手に、短いものを持っていた。


 乳棒《にゅうぼう》くらいの木の棒だった。掌の中に隠れる長さで、指のあいだから両端だけが出ている。表に浅い刻《きざ》みが走っていた。何本も、同じ向きに。埋めてはいない。溝の縁が黒く焦げて、中に煤が溜《た》まっていた。


 近くに立つと、煙の匂いがした。髪にも前掛けにも入っていて、洗って落ちる入り方ではなかった。


 その配置を、リジアは知っていた。

 支部の杖にも同じ走り方がある。ただし、こちらは彫りが浅い。深さが揃《そろ》っていない。途中で一度、線が逃げている。


 息を吸うところで、胸が動かなくなった。

 自分で止めたのではなかった。


「セラ、さん」


 セラは、隠さなかった。

 持ち替えもしなかった。持ったまま、リジアのほうへ歩いてきて、水路の縁の男を見下ろした。


「息は、戻った」

 いつもの声だった。

「声は、戻らん」


 手が、震えていた。


 棒を持っているほうの手だった。震えは肘から先で、動かそうとすると止まって、止めるとまた出た。セラは、その手を前掛けで拭《ぬぐ》った。拭いても、震えは前掛けの下に残った。


「ひとりだけかい、と訊かないんだね」

「……」

「十七人、いたよ」


 責めてはいなかった。薬の匙《さじ》を数えるときと、同じ調子だった。


「薬は昼で尽きた」

 セラは棒を軽く上げて、また下ろした。

「これは、昨日の晩から懐にあった。火のあいだも、ずっとだ」

「使えば残る。あんたらに見つかる。見つかれば、村に薬師がいなくなる」


 リジアの口が、開いた。


「だから、待った。待って、この人だけにした」

 セラの目が、初めてリジアのほうへ来た。

「あんたなら、誰にしたね」


 答えられなかった。


 助かる者に魔力と時間を使え、という言葉なら知っている。何度も聞いて、何度も、その通りに手を離した。それを今この人へ返せば、この人がやったことを正しいと言うことになる。

 言わなければ、この人は間違ったまま残る。


 どちらも、口から出なかった。


「あんた、あのとき何も言わなかったろ」

 セラは棒を前掛けの中へ落とした。

「祈っても授からんもんは、授からんのだと思ってた。それはそれで、こっちも納得してたんだ」

 手が、また前掛けの上で止まった。

「授かるもんじゃなかったんだね。教わるもんだった」


 風が、灰の表面だけを動かした。


「なんで、教えてくれなかったんだい」


 口は、動かなかった。

 答えが無いのではない。あるものを、出せなかった。出せば、この人は内側へ入る。入れば、消される側になる。



「――リジア」


 背中で、声がした。


 年かさの聖療師が、列のほうに立っていた。

 その隣に、女がひとりいた。五十くらいの、水を汲《く》んでいた人だ。桶を提げたまま、口を動かしている。手も一緒に動いていた。話しながら手を止めない人だった。


「――だから、あたしゃ見てたんですよ。セラさんが、こう、手をこう出して、そしたらあの人が」


「そっちを」


 年かさの聖療師が言った。


 リジアの体が、先に動いた。


 女の肩へ手を回して、列から離した。焼け残った塀《へい》のほうへ、二歩、三歩。女は逆らわなかった。逆らうほどの力もかけていない。ただ、肩の下で骨が動くのが掌に伝わった。


「なんです」


 女が言った。

 リジアは答えなかった。


 年かさの聖療師が、襟《えり》の下から輪を出した。

 小さい。革紐で下げてある。降臨者の頭の後ろの、あの形だ。信者が首から下げているものと、外からは見分けがつかない。

 内側の縁に刻んだものが、日を受けて、一度だけ光った。


 井戸のほうで、釣瓶《つるべ》が石を打つ音がした。誰かが水を汲んでいる。


 詠唱は、短かった。

 三つか、四つ。リジアの知っている言葉だった。使ったことは、まだ無い。

 ――広がらないように、必要な分だけ。見たところだけを消す言葉だと、習った。


 女の口が、途中で途切れた。


 言い終えた顔ではなかった。続きを探している顔だった。桶を持ち直して、あたりを見る。塀を見て、リジアを見て、それから自分の手を見た。


「……あれ」


 リジアは、肩から手を離した。

 離した掌に、まだ骨の形が残っていた。


「いま、何か言いましたか」


 女が、リジアを見て言った。


 悪いことをした人の顔ではなかった。落としものを探している人の顔だった。手はもう動いていない。動かし方を、いま思い出せずにいる。


「……あたしゃ、なんの話しとったんやろ」


 女は、自分の手をもう一度見た。指が途中まで上がって、止まった。


「井戸の水が濁っとった。その話やったかね」


「いいえ」


 リジアは言った。


 それは、嘘ではなかった。

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