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僕の世界  作者: 0u0
第二章
55/64

第24話 三枚目の戸板

――ノア


 明るくなってから、数えられるようになった。


 井戸のそばに、十七人いた。

 夜のあいだは、数えられる並び方ではなかった。運ばれた順に置かれて、置かれたところがそのまま列になっていた。朝の光が入ると、人と人のあいだが見えるようになった。空いているところと、詰まっているところがある。空いているのは、夜のうちに自分で起きて、家のほうへ戻っていった人のいた場所だ。


 匂《にお》いは、夜より濃くなっていた。

 燃えているあいだは熱が上へ抜けていくので、匂いも一緒に上がっていた。冷えると下りてくる。焦《こ》げた藁《わら》と、濡《ぬ》れた灰と、その下から湿《しめ》った土の匂いが混じって、地面のあたりに溜《た》まっていた。


 僕は端から順に水を配った。

 桶《おけ》の水は汲《く》んだばかりで冷たかったが、口をつけると鉄と土の味がした。夜のあいだに何度も汲み上げたので、底のほうが混ざっている。起き上がって飲める人と、飲めない人がいた。飲めない人には布を濡らして唇へ当てた。それで口の動く人と、動かない人がいた。動かない人のところでは、そばにいる誰かが布を受け取った。僕が当てるより、そのほうが早かった。


 背中と腕は、動かしはじめが重かった。動かしているうちに、痛いところが二つに分かれた。腕の付け根と、腰の右側だ。どちらも昨日《きのう》の夜に、変な持ち方をしたところだった。

 手の甲に、火脹《ひぶく》れがひとつできていた。いつできたのかは覚えていない。指で押すと、皮の下で水が動いた。


 東の空は、もう白かった。

 夜のあいだは、どこが空で、どこが煙なのか分からなかった。今は分かれている。煙は焼け終わったところから低く上がって、途中で横へ流れていた。燃えているのではない。下のほうで、まだ燻《くすぶ》っている。灰の上を歩くと、表面だけが乾いていて、その下が湯気を吐くように温《ぬる》かった。


 鳥が鳴いていた。

 昨日と、たぶん同じ鳥だった。


 村長さんの家は、柱が四本だけ立っていた。

 屋根が無くなると、家はあんなに小さい。焼けた柱は根元が太くて、上へいくほど細くなって、途中で折れているものもあった。地面には灰が積もっていて、風が来ると表面だけが動いた。下は湿っている。夜のあいだに何度も水をかけたところだ。

 入口寄りの分所は、石積みが四角く残っていた。石は焼けない。囲いの中に炭が溜まって、そこだけが黒かった。近くを通ると、獣脂《じゅうし》の焼けた匂いがした。蝋燭《ろうそく》だ。一本だけ灯《とも》っているのを、昨日の夕方に見た。


 朝のうちは、まだ運ぶものがあった。

 焼け跡から出せるものを出す。鍋、鎌《かま》、壺《つぼ》。まだ熱を持っているので、濡らした布で掴《つか》んで、地面へ並べる。布ごしでも縁《ふち》は熱くて、置いたあとに指の腹がしばらく痛んだ。底についた灰が移って、掌《てのひら》がざらついた。

 並べると、どれが誰の家のものか分かる人がいた。分からないものは、井戸のそばへまとめて置いた。

「あんた、素手か」

「布を巻いてます」

 巻いてはいた。二重にしただけだった。女の人は僕の手をしばらく見ていたが、何も言わずに自分の桶を持ち上げた。


 三枚目の戸板《といた》が出たのは、日が昇ってからだった。

 焼け残った家の人が、自分の戸を外していた。外して、地面へ寝かせて、その上へ人を移す。縄《なわ》で二か所を留めて、二人で担ぐ。

 夜のうちは、外す家が見つからなかった。明るくなったから見つかったのではない。


 僕が後ろを持った人が、どうなったかは分からない。

 村の外れで、待っていた二人へ渡した。手を離したとき、掌に縄の痕《あと》が残った。痕は、朝になってもまだあった。

 納屋《なや》の年寄りに訊《き》いた。

「あの人は」

「知らん」

 年寄りは焼け跡のほうを見たままだった。

「街まで、二日ある」

 それだけだった。

 年寄りの手の甲は、赤くなって皮が浮いていた。昨日の夜には無かったものだ。本人は、それを見ていなかった。僕が水で冷やすように言うと、そうすると言った。そうしなかった。


 セラさんは、井戸のそばにいた。

 昨日運んだ薬を地面へ置いたまま、端から順に回っていた。前掛けの中から包みを抜いて、開いて、指で量って、また閉じる。誰にどれを使うかを、いちいち言わなかった。包みを開くたびに乾いた薬草の匂いが上がって、焦げた匂いのなかで、そこだけが違った。

 僕は言われたものを持って、後ろについて回った。渡すのと、水を汲むのと、布を裂くのが、僕にできることだった。布は、着替えの上のほうから裂いた。

「そっちは」

「浅いです」

「なら、あとだ」

 セラさんは、深いほうから回っていた。浅いほうは、待っていれば治る。


 日が高くなるころ、手が止まった。

 包みが空になっていた。

「足りませんか」

「足りるわけがない」

 セラさんは空の包みを畳《たた》んで、前掛けへ入れた。

 昨日、棚から抜いて持ち出したのは、選んで抜いたぶんだ。選ばなかったぶんは、家の棚に残っている。家は、焼けなかった。

「セラさん、家の棚に」

「あれは、別の病人のだ」

 それきりだった。

「街へ戻るんだろう」

「はい」

「なら、行きな」

 礼は、今日も言われなかった。


 水路の縁に、垣根《かきね》の男がいた。

 昨日巻いた布は、そのままだった。腫《は》れは肘《ひじ》の上まで来ていた。触ると温かい。温かいのに、指の先だけが白かった。

 僕は、解かなかった。あとで見る人のほうが、僕よりも上手《うま》い。

 男は目を開けていた。口の形だけが動いて、声は出なかった。

 煙を吸うと、そうなる。前にも見たことがある。そのあとどうなるのかは、見ていない。

 何か答えたほうがいい気がしたが、何を訊かれたのか分からなかった。

「水を持ってきます」

 男は、それには首を振った。


 井戸へ戻って、セラさんに言った。指の先が白いことと、声が出ないことを。

 セラさんは手を止めずに聞いていた。

「見る」

 順番のどこに入るのかは、言わなかった。


 煙を吸った子は、母親の膝《ひざ》で水を飲んでいた。腕の白い線は、朝の光では見えにくかった。飲むたびに小さく咳《せき》をして、そのたびに母親の手が背中で止まった。

 僕を見て、それから母親の袖《そで》へ顔を入れた。

 母親が頭を下げた。僕も下げた。それで終わりだった。


 脛《すね》の悪い年寄りのほうは、家の前にいた。家は残っていた。座って、皮の硬いところを親指で押している。押しては離し、押しては離していた。昨日と同じだった。

 背負ったことには、触れなかった。僕も言わなかった。


 納屋は焼けていなかった。村の端で、風の下にならなかったからだ。

 戸を開けると、藁《わら》の匂いがまだ残っていた。昨日の夜にここで目を開けたときと、同じ匂いだ。その上に、煙の匂いが薄く乗っている。

 中に、荷を置いたままにしていた。油紙《あぶらがみ》が六枚。空のまま散らばっていたのを拾って、畳んで、括《くく》った。軽い。行きは、これで肩が痛かった。

 水袋は空だった。外側に煤《すす》が乗っていて、擦《こす》ると指が黒くなった。井戸で水をかけて落とした。二度目でも少しついた。三度目で、指に何もつかなくなった。

 革袋の口を開けて、また閉じた。

 百レムは、昨日の納屋銭で尽きていた。

 出るときに、戸を閉めて、ありがとうございましたと言った。誰も聞いていなかった。


 外で、畑の男が鍬《くわ》を担いで戻ってきた。畑を見に行っていたらしい。土の匂いを連れていた。

「水は回っとる」

「焼けとらんか」

「焼けとらん。泥だ」

 それから、思い出したように言った。

「街から人が来るぞ」

「役所のか」

「そういうもんらしい」

 いつ来るのかと誰かが訊いた。誰も答えなかった。


 僕は、荷を背負った。


 村を出るとき、誰にも言わなかった。

 言う相手が、みんな手を動かしている途中だった。


 村の外れの畑に、人が二人いた。

 ひとりは畦《あぜ》に座っている。もうひとりは、畝《うね》のあいだの泥へ膝をついて、両手で泥を掻《か》いていた。

 掻いているほうは、黒っぽい上着を着ていた。村の人の着るものではない。裾《すそ》に泥が跳《は》ねていた。

 道の脇《わき》に、馬が繋《つな》いであった。村に馬はいない。

 男は泥を端から順に掻いていた。掻いて、指のあいだから水を落として、また掻く。同じ幅で、同じ順に、少しずつ横へずれていく。水の落ちる音だけが、規則正しく続いていた。何を探しているのかは分からなかった。落としたのだろう、とだけ思った。


 畦のほうは、手を膝の上に置いていた。

 手首から肘の上まで、縄が巻かれていた。二周してから上へ上がって、袖の上で止まっている。ほどける巻き方ではなかった。

 顔に泥がついていた。


 知っている顔だった。


 男が顔を上げた。

 目が合った。

 落ち着いた目だった。昨日と、同じだった。


 男は何も言わなかった。僕も言わなかった。

 泥を掻いている男は、こちらを見なかった。手も止めなかった。


 僕は通り過ぎた。


 枝道《えだみち》の草は、行きと同じ高さで寄ってきた。払い方は、四度目に覚えている。五度目でも、同じでよかった。分けるたびに青い匂いが立って、村の匂いが、そのあたりで切れた。


 しばらくして、後ろから足音がした。

 村の若い男だった。走ってきて、僕の横で速さを落とした。息が上がっている。ギルドへ知らせに行くのだと言った。それから、二人ともしばらく黙って歩いた。草を分ける音が、二人ぶんになった。

「捕まったらしいぞ」

「はい」

「畑で捕まえたと。政府の人だと」

 男は、そこまでしか知らなかった。誰が捕まったのかは言わなかった。訊けば答えたかもしれない。僕は訊かなかった。

「二か所から出たんだ」男は言った。「火だ。両方からやられた」

「そうですか」

「そうですかって、あんた」

 男は返事を待たなかった。歩く速さを上げて、先へ行った。


 喉《のど》の奥に、まだ粉の味が残っていた。水を飲むといったん薄くなって、しばらくすると戻ってくる。

 掌の縄の痕は、昼を過ぎて消えた。


 日が傾くころ、一度だけ振り返った。

 木立《こだち》の切れ目は、もう遠かった。煙が一本、細く立っている。畑に回った水が光っているのが、そこからでも見えた。

 風は、こちらへは来ていなかった。焦げた匂いは、もうしなかった。


 縄をなう音は、もうしていなかった。

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