↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕の世界  作者: 0u0
第二章
54/63

第23話 二か所で足りた

――ナヴィル


 枝道《えだみち》の口には、目印になるものが何もなかった。


 街道から折れる角に、石も杭《くい》も立っていない。轍《わだち》の幅が変わるあたり、草の丈が急に高くなるあたり、そこが口だった。前に通ったときと同じ場所のはずだが、夜になると、どこからが奥なのかが分からなくなる。


 線は、引かれていない。


 口までです、とナヴィルは村人へ言ったことがある。そのとき誰も、なぜですか、とは訊《き》き返さなかった。


 巡回は当面そのまま、と決まっていた。人は身柄の確保へ回す、とも決まっていた。回された者は街道の側に散っている。口はひとつではない。この口に立っているのは、ナヴィル一人だった。


 非所属の使用者について、身柄の確保にあたること。


 範囲は書かれていない。手続きは追って示す、とだけあった。


 ナヴィルは鐙《あぶみ》に足を掛けた。革が冷えていて、爪先《つまさき》を入れると硬かった。


 線を越えた感触は、何もなかった。


 枝道は、日が暮れてからのほうが長い。道の両側から草が内側へ倒れかかって、馬の腹をそれが擦《こす》る。刈り取りの済んだ畝《うね》が両側から寄ってきて、切り株の並びが道の縁を細くしていた。奥の村までは、ここからまだ一日半ある。聞いて回るだけの用で、この道を通るのは二度目だった。


 二晩目の夜に、木立《こだち》の切れ目が見えるところまで来た。


 二度、音がした。


 一度目は聞き流した。夜の畑では、いろいろな音がする。二度目が、違うほうから来た。乾いて、割れるような音だった。板を打つ音に似ているが、板は同じところから続けて鳴る。


 風は、奥から来ていた。


 草を渡ってくる風に別のものが混じりはじめたのは、半刻《はんとき》ほど前からだ。木の焼ける匂いだと分かるまでには、しばらくかかった。竈《かまど》の煙は乾いていて薄いが、これは違った。湿った木を無理に燃やしたときの匂いが、風の来るたびに濃くなって、鼻の奥のほうへ残った。


 切れ目の向こうが、明るい。


 その明るさは、下から来ていた。空が焼けているのではなく、空が下の火を映していた。


 切り株の並びが、火の明かりで縞《しま》になって見えた。


 木立を抜けたところで、馬が脚《あし》を止めた。


 手綱《たづな》を引いても首が下がるだけで、前へは出ない。首筋に掌《てのひら》を当てると、短い毛の下で細かく震えているのが伝わってきて、汗の匂いが夜気の中に立った。ナヴィルは手綱を短く持ち直し、脇腹《わきばら》を二度叩(たた)いた。馬は耳を一度だけ後ろへ倒してから、また歩き出した。


 途中で、人とすれ違った。


 戸板《といた》だった。前と後ろで担いでいる。乗せられている者は動かない。縄で二か所を縛ってある。


 ナヴィルは馬を降りて、道の端へ寄せた。


 馬に乗せられないか、と一度だけ考えた。考えて、すぐに答えが出た。


 道の幅は、彼が自分で測っている。担ぐ形は、縦にしかならない。


 通り過ぎるとき、前の男がナヴィルを見た。靴から顔までを一度だけ見て、それから前へ向き直った。何も訊かなかった。


「街まで、どのくらいですか」


 ナヴィルが訊くと、男は足を止めずに答えた。


「二日でさ」


「……そうですか」


 後ろの男は、こちらを見もしなかった。夜の道に馬を連れた男が立っている、それだけのことだった。


 三十歩ほど行って、ナヴィルは振り返った。


 戸板は、街道のほうへ遠ざかっていく。あの速さなら、日が昇っても口までは着かない。街までは、そこからさらに半日ある。ナヴィルは、その二日を数えた。


 村は、火が二つあった。


 奥の一つは屋根の上にあり、入口寄りの一つは低い石積みの向こうにあった。あいだに挟まれた家は、どれも同じ葺《ふ》き方をしている。風は奥から入口へ流れていて、火は風の道をそのままなぞっていた。


 ナヴィルは、焼け方を見た。


 落ちたのではない。屋根の上に置かれて、そこから下へ広がっていた。倉のときとは違う。あれは熱が点で落ちて、落ちたところから焼けていた。


 二つ、とナヴィルは思った。一件目から三件目までは、火元はいつも一つだった。


 水路のほうで、桶《おけ》の当たる音が続いていた。運ばれた水は、屋根の高さの半分にも届いていない。届かないことは、投げている側にも見えているはずだった。それでも同じ順で、同じ数の人間が動き続けていた。


 ナヴィルは、足を止めた。何をするために止まったのかは、自分でも決まっていなかった。


 手綱を握ったまま、立っていた。指に嵌《は》めたものは、火を出すための器だ。回復の杖《つえ》は教会が持つ。彼の側にあるのは、燃やすほうの技術だけだった。


 名乗ることはできた。世界政府の者です、と言えば、人は集まってくる。倉の村では、頭を下げられた。


 ナヴィルは、名乗らなかった。手綱を握り直して、桶の列のほうへ二歩寄り、そこで止まった。


 道の脇《わき》で、女が子どもを横向きに寝かせていた。もう咳《せき》は済んだあとらしく、背中に手を置いたまま動かずにいる。


「息は」


 ナヴィルが訊くと、女は顔を上げずに答えた。


「……しています」


 それ以上、訊くことがなかった。


 風向きが変わって、煙が低いところを這《は》ってきた。


 喉《のど》の奥が塞《ふさ》がって、息が浅くなった。袖《そで》で口を覆《おお》っても、布の目を通って入ってくる。舌の上に、灰の味が残った。焦《こ》げた藁《わら》と、獣脂《じゅうし》の焼ける匂いが混じっている。分所の蝋燭《ろうそく》だろう、とナヴィルは思った。安い蝋は、燃えるとこの匂いがする。


 目が痛んで、瞬《まばた》きが増えた。まつげの縁に灰が溜《た》まっているのが分かった。


 奥のほうで、声がした。


 人を呼ぶ声ではなかった。切れずに、長く続いている。この夜のどの声とも違っていた。


 ナヴィルは、そちらへ歩いた。


 言葉は聞き取れなかった。聞き取れないということのほうが、彼には分かった。


 井戸のそばに、人が寝かされていた。誰かが列を作ったのではない。運び込まれた場所が、そのまま列になっていた。


 村長の家の前は、熱で近づけない。顔の正面だけが、火のほうを向いているあいだ乾いていく。その手前、井戸との間の暗がりに、人が立っていた。


 こちらを向いていた。


 火の明かりが横から当たって、輪郭だけが見えた。若い。二十歳《はたち》そこそこか、それより下に見えた。片方の手のあたりで、小さく光るものがあった。指に嵌めるものではない。手の中に握るには、大きすぎた。


 声が、止まった。


「――あなたが」


 男は答えなかった。こちらを向いたまま、動かない。


「あなたが、やったんですか」


 声が、思ったより大きく出た。


「答えてください」


 男の唇が動いた。返事ではなかった。低く、切れずに続く声だった。


 白いものが来た。


 地面の高さを横に走って、ナヴィルの足元の少し先で弾《はじ》けた。土が飛んで、頬《ほお》と首筋に当たった。音は、光より遅れて来た。


 熱は届いた。届いただけだった。


 足元の土は、形を持たないまま散っていた。


 ナヴィルは、後ろを見た。


 水路の列は、まだ続いている。風は奥から入口へ、人のいるほうへ抜けていた。男の右手側だけが、風の下にならない。


 ナヴィルは、手袋の指を握り込んだ。


 詠唱《えいしょう》は短い。言い終わるより先に、器が灯《とも》った。青白い光が指の上で立ち上がって、掌のほうへ下りてくる。


 撃った。


 音が、村の音を一度消した。桶の当たる音も、名前を呼ぶ声も、そこで切れた。


 炎は男の右へ落ちた。落ちたところで止まって、そこから先へは行かない。乾いた土の上でも、輪郭の内側だけが焼けていた。


 水路のほうで、何人かが振り返った。誰も来なかった。手が塞がっている。


 村の音が、また戻った。


 当てなかったのではない。当てないところへ落とせる、というだけのことだった。


 男が半歩下がった。それから、また唇を動かした。


 二度目が来た。


 今度は近い。肩の高さを過ぎて、後ろの壁で弾けた。板の割れる音がして、火の粉が落ちてきた。ナヴィルは首を下げた。灰が襟の内側へ入って、汗の上で溶けた。


 顔を上げると、男はもう横を向いていた。


 三度目は、来なかった。


 男が走った。奥へではない。入口のほうへ、風と同じ向きへ走った。


 ナヴィルは追った。


 馬は置いた。家と家のあいだは、馬の入る幅ではない。


 畦《あぜ》を跳《は》ねて、畑へ出た。刈り株が靴の底に当たって、そのたびに足の裏が滑《すべ》った。背中の側で火の音が続いている。木の裂ける音と、藁の爆《は》ぜる音と、そのあいだに何かが崩れる音が入る。前を行く男の姿は、明かりの届かないところで一度消えた。足音は聞こえない。起こしたばかりの土が柔らかくて、走る音を吸っていた。


 息が上がって、口の中の灰の味が濃くなった。


 水の音がした。


 堰《せき》が切られていた。畝のあいだへ水が入っていて、土がそれを吸っている。畑の誰かが、火のほうへではなく畑へ走って、そうしたのだろう。掘り返したばかりの湿った匂いが、煙の下から上がってきた。


 男は、そこで足を取られた。


 膝《ひざ》まで入って、抜こうとして、もう片方も入った。前へ倒れた。両手が泥に沈んで、水の跳ねる音が短く鳴った。


 倒れた拍子に、手のものが落ちた。泥の上で、光は一度も立たなかった。


 ナヴィルは追いついて、背中を押さえた。


 男は抵抗しなかった。というより、抵抗する形にならなかった。濡《ぬ》れた布ごしに、肩の骨が薄かった。振り払う力もない。畑仕事をしている村の男のほうが、腕は太い。


 落ちたものを、ナヴィルは靴の先で、届かないところへ押しやった。


 それから、腰の縄を出して、男の手首へ当てた。


 短い言葉をひとつ言った。さっき男が出していたような、長く続く声ではない。


 縄は当てたところから回りはじめて、手首を二周してから、肘《ひじ》のほうへ上がっていった。袖の上を締めて、そこで止まった。何度も使われた縄だった。折り返しの来る場所だけ、毛羽が寝ている。


 男が、自分の腕を見た。


 それから、指を動かした。何度か動かして、やめた。


 手首を返したとき、掌が見えた。藁の擦れた跡が、指の付け根に横に走っている。何かを長いあいだ撚《よ》り続けた手だった。


 男が、顔を上げた。


 泥のついた顔だった。若い。頬がこけていて、顎の線がまだ細い。息は上がっているのに、目だけが上がっていなかった。


「……あんたらは、来なかった」


 低い声だった。答えを待っている言い方ではなかった。


 ナヴィルは、縄の端を握り直した。


 顔は、捕らえてから訊く。監察官はそう言った。


 ナヴィルは、男の袖を肘の上までめくった。


 縄の巻かれた上に、線が続いていた。墨は本物だ。だが、太いところと細いところがある。間隔が揃《そろ》っていない。肘の内側で一度、向きが変わっていた。


 こういう刻み方を、ナヴィルは見たことがなかった。


 この線を引いた手は、量を決めていなかった。


 村のほうでは、まだ燃えている。木の裂ける音が、風に乗って途切れずに届いた。堰から回った水は、畝のあいだを鳴らして流れている。畑は焼けない。


 井戸の手前に、丸い跡がひとつ残っている。輪郭の内側だけが焼けて、外側は焼けていない。朝になれば、あれも読まれる。正規の火は、こう焼けるか、と。


 応援は来ない。監察所で、そう聞いている。街道までは、この男を歩かせて戻ることになる。


 歩くあいだに、訊くことはいくらでもある。名前も、経路も、誰に教わったかも。紙にはそう並んでいる。


 ナヴィルは、まだ何も訊いていない。


 縄は、二か所で足りた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。