第23話 二か所で足りた
――ナヴィル
枝道の口には、目印になるものが何もなかった。
街道から折れる角に、石も杭も立っていない。轍の幅が変わるあたり、草の丈が急に高くなるあたり、そこが口だった。前に通ったときと同じ場所のはずだが、夜になると、どこからが奥なのかが分からなくなる。
線は、引かれていない。
口までです、とナヴィルは村人へ言ったことがある。そのとき誰も、なぜですか、とは訊き返さなかった。
巡回は当面そのまま、と決まっていた。人は身柄の確保へ回す、とも決まっていた。回された者は街道の側に散っている。口はひとつではない。この口に立っているのは、ナヴィル一人だった。
非所属の使用者について、身柄の確保にあたること。
範囲は書かれていない。手続きは追って示す、とだけあった。
ナヴィルは鐙に足を掛けた。革が冷えていて、爪先を入れると硬かった。
線を越えた感触は、何もなかった。
枝道は、日が暮れてからのほうが長い。道の両側から草が内側へ倒れかかって、馬の腹をそれが擦る。刈り取りの済んだ畝が両側から寄ってきて、切り株の並びが道の縁を細くしていた。奥の村までは、ここからまだ一日半ある。聞いて回るだけの用で、この道を通るのは二度目だった。
二晩目の夜に、木立の切れ目が見えるところまで来た。
二度、音がした。
一度目は聞き流した。夜の畑では、いろいろな音がする。二度目が、違うほうから来た。乾いて、割れるような音だった。板を打つ音に似ているが、板は同じところから続けて鳴る。
風は、奥から来ていた。
草を渡ってくる風に別のものが混じりはじめたのは、半刻ほど前からだ。木の焼ける匂いだと分かるまでには、しばらくかかった。竈の煙は乾いていて薄いが、これは違った。湿った木を無理に燃やしたときの匂いが、風の来るたびに濃くなって、鼻の奥のほうへ残った。
切れ目の向こうが、明るい。
その明るさは、下から来ていた。空が焼けているのではなく、空が下の火を映していた。
切り株の並びが、火の明かりで縞になって見えた。
木立を抜けたところで、馬が脚を止めた。
手綱を引いても首が下がるだけで、前へは出ない。首筋に掌を当てると、短い毛の下で細かく震えているのが伝わってきて、汗の匂いが夜気の中に立った。ナヴィルは手綱を短く持ち直し、脇腹を二度叩いた。馬は耳を一度だけ後ろへ倒してから、また歩き出した。
途中で、人とすれ違った。
戸板だった。前と後ろで担いでいる。乗せられている者は動かない。縄で二か所を縛ってある。
ナヴィルは馬を降りて、道の端へ寄せた。
馬に乗せられないか、と一度だけ考えた。考えて、すぐに答えが出た。
道の幅は、彼が自分で測っている。担ぐ形は、縦にしかならない。
通り過ぎるとき、前の男がナヴィルを見た。靴から顔までを一度だけ見て、それから前へ向き直った。何も訊かなかった。
「街まで、どのくらいですか」
ナヴィルが訊くと、男は足を止めずに答えた。
「二日でさ」
「……そうですか」
後ろの男は、こちらを見もしなかった。夜の道に馬を連れた男が立っている、それだけのことだった。
三十歩ほど行って、ナヴィルは振り返った。
戸板は、街道のほうへ遠ざかっていく。あの速さなら、日が昇っても口までは着かない。街までは、そこからさらに半日ある。ナヴィルは、その二日を数えた。
村は、火が二つあった。
奥の一つは屋根の上にあり、入口寄りの一つは低い石積みの向こうにあった。あいだに挟まれた家は、どれも同じ葺き方をしている。風は奥から入口へ流れていて、火は風の道をそのままなぞっていた。
ナヴィルは、焼け方を見た。
落ちたのではない。屋根の上に置かれて、そこから下へ広がっていた。倉のときとは違う。あれは熱が点で落ちて、落ちたところから焼けていた。
二つ、とナヴィルは思った。一件目から三件目までは、火元はいつも一つだった。
水路のほうで、桶の当たる音が続いていた。運ばれた水は、屋根の高さの半分にも届いていない。届かないことは、投げている側にも見えているはずだった。それでも同じ順で、同じ数の人間が動き続けていた。
ナヴィルは、足を止めた。何をするために止まったのかは、自分でも決まっていなかった。
手綱を握ったまま、立っていた。指に嵌めたものは、火を出すための器だ。回復の杖は教会が持つ。彼の側にあるのは、燃やすほうの技術だけだった。
名乗ることはできた。世界政府の者です、と言えば、人は集まってくる。倉の村では、頭を下げられた。
ナヴィルは、名乗らなかった。手綱を握り直して、桶の列のほうへ二歩寄り、そこで止まった。
道の脇で、女が子どもを横向きに寝かせていた。もう咳は済んだあとらしく、背中に手を置いたまま動かずにいる。
「息は」
ナヴィルが訊くと、女は顔を上げずに答えた。
「……しています」
それ以上、訊くことがなかった。
風向きが変わって、煙が低いところを這ってきた。
喉の奥が塞がって、息が浅くなった。袖で口を覆っても、布の目を通って入ってくる。舌の上に、灰の味が残った。焦げた藁と、獣脂の焼ける匂いが混じっている。分所の蝋燭だろう、とナヴィルは思った。安い蝋は、燃えるとこの匂いがする。
目が痛んで、瞬きが増えた。まつげの縁に灰が溜まっているのが分かった。
奥のほうで、声がした。
人を呼ぶ声ではなかった。切れずに、長く続いている。この夜のどの声とも違っていた。
ナヴィルは、そちらへ歩いた。
言葉は聞き取れなかった。聞き取れないということのほうが、彼には分かった。
井戸のそばに、人が寝かされていた。誰かが列を作ったのではない。運び込まれた場所が、そのまま列になっていた。
村長の家の前は、熱で近づけない。顔の正面だけが、火のほうを向いているあいだ乾いていく。その手前、井戸との間の暗がりに、人が立っていた。
こちらを向いていた。
火の明かりが横から当たって、輪郭だけが見えた。若い。二十歳そこそこか、それより下に見えた。片方の手のあたりで、小さく光るものがあった。指に嵌めるものではない。手の中に握るには、大きすぎた。
声が、止まった。
「――あなたが」
男は答えなかった。こちらを向いたまま、動かない。
「あなたが、やったんですか」
声が、思ったより大きく出た。
「答えてください」
男の唇が動いた。返事ではなかった。低く、切れずに続く声だった。
白いものが来た。
地面の高さを横に走って、ナヴィルの足元の少し先で弾けた。土が飛んで、頬と首筋に当たった。音は、光より遅れて来た。
熱は届いた。届いただけだった。
足元の土は、形を持たないまま散っていた。
ナヴィルは、後ろを見た。
水路の列は、まだ続いている。風は奥から入口へ、人のいるほうへ抜けていた。男の右手側だけが、風の下にならない。
ナヴィルは、手袋の指を握り込んだ。
詠唱は短い。言い終わるより先に、器が灯った。青白い光が指の上で立ち上がって、掌のほうへ下りてくる。
撃った。
音が、村の音を一度消した。桶の当たる音も、名前を呼ぶ声も、そこで切れた。
炎は男の右へ落ちた。落ちたところで止まって、そこから先へは行かない。乾いた土の上でも、輪郭の内側だけが焼けていた。
水路のほうで、何人かが振り返った。誰も来なかった。手が塞がっている。
村の音が、また戻った。
当てなかったのではない。当てないところへ落とせる、というだけのことだった。
男が半歩下がった。それから、また唇を動かした。
二度目が来た。
今度は近い。肩の高さを過ぎて、後ろの壁で弾けた。板の割れる音がして、火の粉が落ちてきた。ナヴィルは首を下げた。灰が襟の内側へ入って、汗の上で溶けた。
顔を上げると、男はもう横を向いていた。
三度目は、来なかった。
男が走った。奥へではない。入口のほうへ、風と同じ向きへ走った。
ナヴィルは追った。
馬は置いた。家と家のあいだは、馬の入る幅ではない。
畦を跳ねて、畑へ出た。刈り株が靴の底に当たって、そのたびに足の裏が滑った。背中の側で火の音が続いている。木の裂ける音と、藁の爆ぜる音と、そのあいだに何かが崩れる音が入る。前を行く男の姿は、明かりの届かないところで一度消えた。足音は聞こえない。起こしたばかりの土が柔らかくて、走る音を吸っていた。
息が上がって、口の中の灰の味が濃くなった。
水の音がした。
堰が切られていた。畝のあいだへ水が入っていて、土がそれを吸っている。畑の誰かが、火のほうへではなく畑へ走って、そうしたのだろう。掘り返したばかりの湿った匂いが、煙の下から上がってきた。
男は、そこで足を取られた。
膝まで入って、抜こうとして、もう片方も入った。前へ倒れた。両手が泥に沈んで、水の跳ねる音が短く鳴った。
倒れた拍子に、手のものが落ちた。泥の上で、光は一度も立たなかった。
ナヴィルは追いついて、背中を押さえた。
男は抵抗しなかった。というより、抵抗する形にならなかった。濡れた布ごしに、肩の骨が薄かった。振り払う力もない。畑仕事をしている村の男のほうが、腕は太い。
落ちたものを、ナヴィルは靴の先で、届かないところへ押しやった。
それから、腰の縄を出して、男の手首へ当てた。
短い言葉をひとつ言った。さっき男が出していたような、長く続く声ではない。
縄は当てたところから回りはじめて、手首を二周してから、肘のほうへ上がっていった。袖の上を締めて、そこで止まった。何度も使われた縄だった。折り返しの来る場所だけ、毛羽が寝ている。
男が、自分の腕を見た。
それから、指を動かした。何度か動かして、やめた。
手首を返したとき、掌が見えた。藁の擦れた跡が、指の付け根に横に走っている。何かを長いあいだ撚り続けた手だった。
男が、顔を上げた。
泥のついた顔だった。若い。頬がこけていて、顎の線がまだ細い。息は上がっているのに、目だけが上がっていなかった。
「……あんたらは、来なかった」
低い声だった。答えを待っている言い方ではなかった。
ナヴィルは、縄の端を握り直した。
顔は、捕らえてから訊く。監察官はそう言った。
ナヴィルは、男の袖を肘の上までめくった。
縄の巻かれた上に、線が続いていた。墨は本物だ。だが、太いところと細いところがある。間隔が揃っていない。肘の内側で一度、向きが変わっていた。
こういう刻み方を、ナヴィルは見たことがなかった。
この線を引いた手は、量を決めていなかった。
村のほうでは、まだ燃えている。木の裂ける音が、風に乗って途切れずに届いた。堰から回った水は、畝のあいだを鳴らして流れている。畑は焼けない。
井戸の手前に、丸い跡がひとつ残っている。輪郭の内側だけが焼けて、外側は焼けていない。朝になれば、あれも読まれる。正規の火は、こう焼けるか、と。
応援は来ない。監察所で、そう聞いている。街道までは、この男を歩かせて戻ることになる。
歩くあいだに、訊くことはいくらでもある。名前も、経路も、誰に教わったかも。紙にはそう並んでいる。
ナヴィルは、まだ何も訊いていない。
縄は、二か所で足りた。




