第22話 戸板の数
板を打つ音だと思った。
藁の上で目を開けると、音はまだ続いていた。板ではない。乾いて、割れるような音が、間を置いてもう一度鳴った。
戸の隙間が明るかった。夜の明るさではない。
起き上がると、匂いのほうが先に来た。敷いた藁の匂いの上に、別のものが乗っている。木の焼ける匂いだ。囲炉裏の匂いとは違う。生木の混じった、重たくて甘い匂いだった。
母屋のほうで、土間の何かが倒れる音がした。それから、年寄りが咳をしながら人を呼ぶ声が続いた。
板戸を押すと、風が正面から来た。熱を持った風だった。
村が明るかった。
奥のほうで、屋根の上に火が出ている。村長さんの家だ。葺いた藁が下から順に光って、その光が横へ伸びていく。
振り返ると、入口寄りの外れにも、もうひとつあった。分所の低い壁の向こうで火が立っていて、石積みの上の空だけが、そこだけ赤く濁っている。
村は、両方から挟まれていた。
あいだの家はどれも藁葺きで、風は奥から入口のほうへ、村を縦に抜けていた。どこかで木の軋む音がして、そのあとに何かが落ちる音が続いた。
誰かが走った。名前を呼んでいる。返事はない。
水路のほうで桶の当たる音がして、それから、女の人の声が高くなった。
僕は荷を納屋へ置いたまま、水袋だけ取って外へ出た。
最初に見つけたのは、垣根のところの若い男だった。
直しかけの垣根の、杭だけが立っている側に倒れている。顔を上げようとして、上がらない。
肩から先を、太い木が押さえていた。屋根の骨だ。落ちてきたものが、そのまま乗っている。
両手をかけて持ち上げると、思ったより軽く外れた。焼けて細くなっているせいだった。
男の左の腕は、肘の下で向きが違っていた。前腕が、内側へ半分ねじれている。
声は出さなかった。息だけが、短く、続けて出ていた。
「動かします」と言って、動かした。ここには置いておけない。
腋の下から抱えて、背中を胸へ預けさせた。重いのは、力が抜けているからだ。膝で押すようにして、僕は後ろへ下がった。地面には、なう前の藁がまだ散らばっていて、踵がそれを巻き込んで滑った。
水路の縁まで運んで、下ろした。
水は流れている。細い。畑の畝のあいだを通る、脛より浅い水路だ。
村の人が桶で汲んでは、家へ投げていた。汲んで、走って、投げて、また戻る。
火は、そのたびに一度沈んで、すぐ元へ戻った。濡れた藁が爆ぜる音が、投げるたびに一度ずつ鳴った。
桶では、消えなかった。屋根の上へは、誰も上がれない。
僕は水路の水を掌で受けて、男の腕へかけた。土の混じった汚れた水だったが、熱を持っている腕には冷たかったらしく、指の先が一度だけ動いた。
肘の下は、巻いているあいだにも腫れていった。布を裂いて、腕と胴をひとまとめに巻いた。添え木は探さなかった。折れた向きが分かるように、そのままにして巻いた。あとで見る人のほうが、僕よりも上手い。
顔を上げると、井戸のほうから声が聞こえた。名前だった。同じ名前を、二度呼んでいる。
二軒目は、まだ屋根が落ちていなかった。かわりに、煙が戸口から低く出ている。地面に近いところを、灰色が這って流れ出していた。上へは行かない。
女の人が戸口へ入ろうとして、熱に押し戻されていた。
「中に」
それだけ言った。僕は水袋の水を頭からかぶって、残りで布を濡らし、折って口へ当てた。
屈んで入ると、立った高さには何も見えなかった。膝から下にだけ、まだ空気が残っている。
床板を這って進んだ。板は、掌に熱かった。頭の上のほうで、梁が一度、短く鳴った。手が莚の端に触れて、その下に足があった。
子どもだった。腕に、白い線が一本ある。
息はしている。浅くて、咳もしていない。それが良くないことは知っていた。
抱えて、来た向きへ戻った。布ごしに吸う息は粉を舐めたような味がして、喉の奥のほうが灼けていた。入るときより、出るほうが遠かった。
外の空気が、汗の引いた頬に当たった。
女の人が受け取ろうとしたので、渡さずに水路まで運んだ。腕を掴まれたまま、その速さで歩いた。
下ろして、横を向かせた。背中へ手を当てると、浅い息が続いていた。
やがて子どもが咳をした。二度目で、吐いた。
女の人が、名前をもう一度呼んだ。返事はなかったが、目のほうは開いた。
それから先は、順番が分からない。運んで、戻って、また運んだ回数だけが、腕と背中のほうに残っている。
脛の悪い年寄りは、自分の家の前の畦に座り込んでいた。歩けないのではなく、立ち上がるところで足が止まっている。背負って運ぶと、軽かった。背中では、皮の硬いところを押す癖の指が、僕の肩を押しては離していて、汗が顎の先から落ちた。
畑の男は、鍬を持って走っていた。火のほうへではない。畑へ走って、水路の堰を切っていた。畝のあいだへ水が回りはじめて、土の匂いが上がった。掘り返したばかりの、湿った匂いだった。
誰も指図をしていない。それぞれが、自分の知っている手を動かしていた。
突き当たりまで行った。まだ燃えていなかった。軒下に吊るしてある薬草が、風で大きく振れていた。
戸が開いていて、土間で薬研が横に倒れていた。挽きかけの粉が、そこから帯になってこぼれている。竈の火は落としたあとだった。
セラさんは、棚の前にいた。昨日、六つの包みを入れたばかりの棚だ。仕切りは端まで埋まっている。
その棚から、順に抜いていた。抜いて、前掛けの中へ放り込んでいる。全部ではない。ひとつ飛ばし、ふたつ飛ばしで、選んで抜いていた。
「持ちな」
僕に前掛けごと押しつけて、セラさんはまた棚へ向いた。
「井戸だ。あすこは焼けない」
「セラさんは」
「あとだ」
まだ抜いている。腕の中から、乾いた薬草の匂いが上がってきた。埋まったばかりの仕切りが、また空きはじめていた。
井戸のそばへ薬を運んで、地面へ置いた。
朝になれば、水を汲む列ができる場所だ。今は、その同じ場所に人が並んでいた。並べたのではなく、運ばれた順にそうなっていた。
数えていない。数えられる並び方ではなかった。
煤と、焦げた毛の匂いがしていた。風で飛んできた熾きが、並びのそばの地面で小さく光っては消えた。呻き声は思っていたよりも少なくて、そのかわりに、名前を呼ぶ声だけがあちこちで続いていた。
戸板を外している人がいた。
外して地面へ置いて、その上へ人を乗せる。縄で二か所を縛って、前と後ろで担ぐ。街まで二日だと、誰かが言った。
縄は、新しかった。撚りの詰んだ、まだ毛羽の立っていない縄で、握ると掌に食い込んだ。
二枚出た。三枚目の戸板を外そうとして、外す家がもう無い人がいた。
戸板は、家の数だけあるわけではない。外せる家から順に外して、外し終えたあとの人は、そのまま地面で待つことになった。
そのとき、また光った。
村の奥だ。屋根の上ではなく、地面の高さで、白いものが一度立った。音は、少し遅れて来た。
立つ前に、声が聞こえた気がした。長く続く、意味の分からない声だ。
方角は分かった。距離も、だいたい分かった。
僕は、そちらへは行かなかった。
腕の折れた人が水路の縁にいて、煙を吸った子が横向きに寝ていて、井戸のそばの並びは、さっきよりも長くなっていた。
運ぶ人が、足りていない。
戸板の前と後ろに、人が付いた。
僕は後ろを持った。前を持ったのは、納屋の年寄りだった。
「あんた、まだおったのか」
「はい」
「……そら、ええ」
それきり年寄りは前を向いて、足の運びを自分の側から先に決めた。枝道の口までは、日が昇っても着かない。
村の外れまで担いで、そこで待っていた二人へ渡した。手を離すと、掌に縄の痕が残っていた。
東の空は、まだ動かなかった。口の中には、さっきの粉の味が残っている。
背中のほうでは、燃えきったところが燻る音と、まだ燃えているところの音とが、混ざって続いていた。板を打つ音とは、やはり違った。
僕はもう一度、村へ戻った。




