第20話 挟むだけの手
――ナヴィル
街道を折れてすぐ、道は二股になっていた。
右は谷へまっすぐ入る。左は畑のあいだを回り、隣の村を経てから戻ってくる。距離は左のほうが長い。
あの夜、担いで出た二組は、片方がこちら、片方があちらを通ったと聞いていた。どちらがどちらかは、帳面に書かれていなかった。
ナヴィルは右を取った。
斜面が両側から迫って、日の当たる幅が細くなる。轍は途中で消え、踏み跡だけが残った。
谷の底に、家がひと固まりになっていた。
焼けたのは、そのうちの三つだった。
屋根の落ちた一軒は、内側から黒くなっていた。倉ではない。人の住む家だった。
焼け落ちた土間に、鍋の輪がひとつ、灰の中から出ている。寝床のあったあたりは、藁の形のまま炭になって、崩れずに残っていた。踏めば消える。誰も踏んでいなかった。
風の向きが変わると、まだ匂った。倉の焦げた匂いとは、別のものだった。
前の二件では、人は傷つかなかった。畑の隅と、刈り入れ前の空の倉。ここは、そうではない。
人が出てきた。二人、三人。倉の村のようには集まってこない。畦の途中で立ち止まって、そこから動かない者もいた。
先任の実務官が、先に馬を降りた。ナヴィルは、そのあとで降りた。
「世界政府の者です」
ナヴィルの声に、動く者はいなかった。
聞き取りは、井戸のそばで行われた。先任が帳面を開き、一人ずつ呼んだ。
最初は、四十くらいの女だった。
「火は」先任が訊いた。「何色でしたか」
「赤う――」
女はそこで切った。前掛けの端を握って、握ったまま話した。
「いえ、赤かったです。赤かったと思います。……白かったような気も、しますけど」
「どっちですかね」
「……分かりません」
先任は、親指で頁を送り、そのまま書いた。
次は、若い男だった。左の腕を布で吊っている。井戸の縁に腰を下ろすとき、吊った側をかばって、体ごと右へ回した。
「火は、上から来ましたか。横からですか」
「上です」男は即答した。それから、少し黙った。「……上だと思ったんですが。屋根が落ちたのが先だったかもしれんので。そうすると、横から」
「……これも、はっきりしませんかね」
男は、吊った腕のほうを見た。答えなかった。
先任は、そこも書いた。
筆が止まってから、男が口を開いた。
「これは、逃げたときのじゃありません」
先任が、顔を上げた。
「戻ったんで。中に、まだ」
そのあとは、言わなかった。
三人目は、年寄りだった。背負われて出た、と先任が横で言い添えた。孫らしい娘が肘を持っていて、離すと、年寄りは少し前へ傾いた。
「人は」
年寄りは、先任のほうへ耳を寄せた。
「人は、と」先任がもう一度言った。
「おりました」年寄りは言った。「男が、そこに」
先任の筆が、少し遅れた。
「背丈は」
「大きい人でした。いや」
年寄りは、自分の言葉を追い返すように首を振った。
「大きく見えただけかもしれません。下から、見ておりましたので」
三人の言うことは、揃わなかった。
火の色が違う。来た向きが違う。人の背丈が違う。ナヴィルは、先任の帳面を横から見ていた。同じ夜の、三十歩と離れていない場所で起きたことが、三通りに書かれていく。
揃っているものが、ひとつだけあった。
三人とも、逃げていた。
「食い違っていますね」
先任が言った。誰も答えなかった。監察官は、ここにはいない。否定する者がいないまま、先任は口を閉じた。
その閉じ方は、これまでのどれよりも長かった。
人が散りかけたとき、年寄りだけが動かなかった。
ナヴィルを見ている。
「あの晩のあれも」年寄りが言った。「そちらさまがたのような、お方で」
答えられることは、あった。訊かれているのは、そこではなかった。
「――分かりません」
年寄りは、しばらく黙っていた。それから、先任のほうを見た。
「そちらさまも、お使いになるので」
「いえ」先任は、帳面を持ち直した。「若い頃に一度、見てもらいましたけどね。無いほうで。……だいたい、そういうものです」
年寄りは、それきり何も訊かなかった。
馬に戻る前に、先任が最後の一つを訊いた。
「担いで行ったのは」
「二組です」答えたのは、さっきの女だった。「うちの若い衆が、薬師んとこを回って行きました。二晩寝て、街へ着いたのは昼前だったと」
帰りは、左の道を取った。
畑のあいだを回る道は、なるほど長かった。刈り取りの済んだ畝が両側から寄って、道は途中で人ひとり分に細くなる。ナヴィルは、いったん馬を降りた。
草の切り株が靴の底に当たる。肘を横へ張ると、両側の畝に当たった。この幅で戸板を通すには、前と後ろで担ぐしかない。並んで支えることはできない。
夜なら、足元は見えない。
この道を、戸板を担いで歩いた者がいる。途中の村で一晩、手を借りて、道でもう一晩。街へ着いたのは、二晩越しての昼前だった。直の道を来た組より、半日遅い。
ナヴィルは馬を引いて、しばらく歩いた。日が傾いてから、ようやく枝道の口が見えた。
半刻、とナヴィルは考えた。
あの谷で、火が落ちてから家が焼け落ちるまでに、どれだけあったか。半刻か、もっと短いか。その間に、あそこにいた者にできたことは、逃げるか、戻るかだけだった。
落ちてくるものの前に、一度だけ何かを挟める手。消す手も、撃ち返す力も要らない。それだけの何かが、あの家のどれか一つにあったなら。
戸板は、二枚ではなく、一枚で済んだかもしれない。
馬が、勝手に脚をゆるめた。ナヴィルは鐙に足を戻し、手綱を握り直した。
あの三人は、同じ夜を三通りに語った。火の色も、向きも、背丈も。責める者は一人もいなかったが、揃うものも一つもなかった。
あの闇の中に、挟める手がいくつかあったとして。
落ちてくるものがどこから来たかを、あの三人のうちの誰が言えただろう。
揃わないものへ向けて手を挙げれば、それはもう、挟むだけの手ではない。
渡す量なら、決められる。墨も、器も、詠唱も、見合う分だけにできる。
決められないのは、向きだった。
輪郭を持たない炎は、撃った者の手を焼く。
父の言い方は、こういうときにも動かなかった。
監察所へ戻ると、紙が来ていた。
封蝋は既に割られている。監察官が卓の向こうで顔を上げた。
「アズレイム卿」
紙が、こちらへ滑ってきた。
非所属の使用者について、身柄の確保にあたること。手続きは、追って示す。
「決まったのですか」
「決まったものが、降りてくる」
伺っても、という前置きが、出てこなかった。
「監察官殿。証言は」
「要らん」
監察官は、卓の紙を指の腹で押さえた。
「名簿の外の者が撃った。紙は、それで足りている」
「顔は、捕らえてから訊く」
監察官は、紙の下からもう一枚を引き出した。
「巡回は、当面そのままだ。人はこちらへ回す」
枝道の口までの巡回が、当面そのまま。ナヴィルは、それだけを聞き取った。
ナヴィルは、帳面を開いた。
女の言った赤。若い男の言った上。年寄りの言った、大きく見えただけかもしれない背丈。三人が思い出そうとして思い出しきれなかったものが、そこに並んでいる。
ナヴィルは、帳面を伏せなかった。




