第19話 籠が先に暗くなる
裏手へ回ると、風が変わった。
表を渡っていた風が、塀に当たって、行き場を無くしている。ここは支部の陰になる側で、洗い場の水音も、石畳を打つ足音も、一枚隔てて届いた。積んだ薪の匂い。乾いた土の匂い。物干しの綱に洗った晒が幾本も掛かって、風のないまま、垂れている。
表で、夕の勤めの鐘が鳴った。
塀のこちら側では、その音が、洗い場の水と同じ大きさで届いた。
まだ仕事は残っている。長椅子を戻す音がしている。夜のあいだ人の付く寝台の支度も、これからだった。
日は塀の向こうへ落ちかけて、地面は半分だけが明るい。籠は、その明るいほうの端にあった。
セラは、その前にしゃがんでいる。中身をいったん全部出して、並べ直しているところだった。壺。小さな包み。丸めた晒。数を確かめる指が、一つずつ、間を空けずに動いていく。
近づくと、乾いた薬草の匂いがした。前掛けについた粉の匂いだった。
リジアは、膝をつく前に、杖を下ろした。
布と一緒には持てなかった。指が、思ったところで閉じない。杖を握っていた付け根が、まだ痺れている。掌は、朝からずっと使い続けて、戻りが遅い。
置いた杖は、籠の隣に並んだ。日の当たっているところに、二つ。
喉が渇いていた。井戸で手を洗った時に、水を飲まなかったことに、今になって気づいた。
顔を上げないまま、セラが言った。
「あの縛り方で、よかったのかい」
「はい。添え木が、膝の上と下で別に留めてあったので、道の揺れが、傷まで来ていませんでした」
「動かんようにね」
セラは、包みの向きを揃えた。
「洗っといたのは、足りてたかい」
「はい。二度、流しました。……水が、濁りませんでした」
リジアは、手の中の布を、少し持ち上げた。
「これの、内側に」
開いて見せる。日の残りが、布の上を斜めに渡っていた。
「レニスの葉が、貼りついていました」
「乾けば剥がれる。血を吸ってりゃ、くっつく」
「……何枚、ですか」
「一枚でいい。多けりゃいいってもんじゃない」
セラは、壺を一つ、籠の奥へ入れた。
「明日からは、巻き替えのたびに触って、嗅ぎな。熱を持つか、饐えた匂いがしたら、中で膿んでる」
「今夜は、汁からにしとき。むせずに飲めるようなら、実も入れてやりな」
「寝たまま含ませるんじゃないよ。起こしてからだ」
言いながら、セラは丸めた晒を解いて、端を合わせ、巻き直した。指のほうが先に次の仕事へ行っていて、口は、その後ろをついてきている。
「……はい」
リジアは、口を開きかけて、閉じた。
「あの人は、今、眠っています。水も、飲めました」
セラは、次の包みを取った。取ってから、また置いた。
塀の向こうの通りを、荷を担いだ足音が幾つか、続けて過ぎていった。
「もう一人のは」
セラが言った。
「直の道を来たんだろう」
「はい」
「早かったかい」
「夜明け前には、こちらに」
セラは、指を折って数え直した。一度目と、同じ数で終わった。
「半日か」
「……はい」
それきり、セラは何も訊かなかった。並べ直した壺の列を、端から順に、籠へ移していく。同じ手つきだった。
「今夜は、どちらに」
「納屋を借りた。朝いちで発つ」
セラは、前掛けで手の粉を払った。払いながら、リジアの手を見ていた。それから、杖のほうへ目を移した。
「あれは」
「どれだけ祈ったら、授かるもんなんだい」
リジアの指から、布が滑りかけた。
口が、開いた。
それだけだった。
表から、リジアの名を呼ぶ声がした。
返事は、しなかった。
声はもう一度、少し高くなって、それから、別の誰かが代わりに答えた。呼んだほうの足音が、離れていく。
セラは、籠の空いたところを見ていた。
日が塀の上から落ちて、明るいところが、地面の上を退いていく。籠が先に暗くなった。杖は、まだ日の中にあった。
表の洗い場で、水の音が止んだ。
リジアは、何も言わなかった。
セラが、短く息を吐いた。
「あたしみたいな愛想なしは、神様も選ばんだろうさ」
包みを籠へ入れて、そう言った。
布を握った指に、力が入った。入れたつもりは、なかった。
「セラさん」
セラは、顔を上げた。何も訊かずに、手元へ目を落とした。
リジアは、その布を、差し出した。
「……これを」
セラは受け取って、広げた。葉の形に色の抜けたところを、指でなぞる。それから四つに畳んで、籠の隅へ入れた。
「洗えば、まだ使える」
セラは籠に布を掛け、口の紐を縛った。それから、立ち上がりながら言った。
「腿のは、七日は歩かせるな。骨に来てなくても、開く」
「七日目に、あんたが見るんだろう」
「……はい。見ます」
セラは籠を持ち上げて、塀のほうへ寄った。日の当たらないところまで下がって、そこで下ろす。また紐を解いて、数え直すつもりらしかった。
リジアは、膝をついたままでいた。表の音が、遠くで一つ、また一つと減っていく。夜のあいだに何度か起きて、あの人に水を含ませることになる。
立ち上がると、指は、もう思ったところで閉じた。
井戸で、今度は自分が水を飲んだ。それから、手を洗った。
乾いた薬草の匂いは、まだした。
戻ると、日は、そこにも無かった。
リジアは、杖を拾って、表へ回った。




