↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕の世界  作者: 0u0
第二章
48/63

第18話 布の内側

――リジア


 その男が運び込まれたのは、まだ外が暗いうちだった。


 脇腹《わきばら》から下が、赤黒く濡《ぬ》れている。濡れたまま、乾いていない。戸板《といた》の木目《もくめ》に沿って、それが縁まで来て、止まっていた。何も巻かれていなかった。運んできた男たちは、下ろすなり戸口で膝《ひざ》に手をついて、しばらく動かなかった。


「聞こえますか」


 返事は、なかった。


「……触りますね」


 リジアは、手首に指をあてた。あるにはある。あるけれど、指の腹を押し返してくる力が、遠かった。瞼《まぶた》を上げると、瞳の奥が濁《にご》っていた。唇の色が、足元の石と同じだった。


 足りていない。


 体の中に、もう。


「ここに、いますから」


 それでも、リジアの手は動いていた。腹の布をめくり、傷の位置を確かめ、押さえる場所を探す。探しながら、探すところが無いことも、指先が分かっていた。


 窓が白んだ。


 朝の勤めの鐘が鳴って、止んだ。長椅子が、一人ずつ埋まっていく。指を挟んだ子ども。咳《せき》の止まらない年寄り。荷を担いで腰を痛めた男。年かさの聖療師《せいりょうし》が順に見て、順に返していった。


 リジアは、動かなかった。


 昼が近づくころ、戸が鳴った。


 鳴った、というより、体ごとぶつかった音だった。顔を上げた時には、もう戸口に人が立っていた。肩に紐《ひも》の跡を残した若い男が、息の上がったまま、外へ腕を振る。


「もう一人、います。枝道から」


 男の袖《そで》が、肘《ひじ》から先だけ黒かった。


 石畳《いしだたみ》に、戸板が下ろされた。


 腿《もも》に布が幾重にも巻かれ、その上から細い添《そ》え木が二本あてがわれている。膝の上と下で、別の紐で留めてあった。布はどす黒く、乾いていた。


 乾いている、ということに、リジアの手のほうが先に反応した。


「リジア」


 年かさの聖療師が、新しく来たほうの傷を上から一度見て、それから、リジアの手元へ目を移した。それだけだった。


「そちらへ」


 リジアの指は、まだ手首にあった。夜明けから、ここにあった。


 離せば、決まる。決まってしまうことを、指のほうが知っていた。


 リジアは、離した。


 布を切る。鋏《はさみ》が布を噛《か》むたび、乾いた血が粉になって落ちた。添え木を外し、巻きを解いていくと、腿の外側に長い裂け目が現れた。指を三本ほど並べた長さ。深い。骨には、届いていない。


「水を、お願いします」


 担ぎ手が、桶ごと持ってきた。


 傷の上から流す。土も、木の屑《くず》も、出てこなかった。流れた水は、濁らなかった。二度流して、指で縁《ふち》を開いて、奥まで覗《のぞ》いた。何も残っていない。


 リジアは、少しのあいだ、その水を見ていた。


 杖《つえ》を握った。


 息を吸って、言葉を置く。指先から送り込むと、裂け目の縁と縁が、内側から寄りはじめた。寄るのに合わせて、男が一度、喉《のど》の奥で呻《うめ》いた。呻けるということに、リジアは少しだけ肩の力を抜いた。


 途中で、後ろの床が鳴った。


 何人かの足音が、短く行き来した。それから、静かになった。


 リジアは、振り返らなかった。振り返らないまま、次の言葉を置いた。杖の先が熱を持ち、指の付け根まで痺《しび》れが上がってくる。まだ足りない。もう一度、置く。


 どれくらい経ったのか、分からなかった。


 顔を上げた時、掌《てのひら》に感覚が無かった。裂け目は、細い線になって閉じていた。男の息が、深く、遅くなっていた。


 立ち上がると、膝が笑った。


 はじめの戸板に、布が掛かっていた。


 顔まで。


 リジアは、そちらへ足を向けた。


「そちらは済みました」


 年かさの聖療師が、手を拭《ぬぐ》いながら言った。


「水を」


 済みました、という言葉が、耳の中で、少し遅れて鳴った。


 リジアは、頷《うなず》いた。頷いてから、自分が頷いたことに気づいた。


 水を汲《く》みに行き、戻り、男の唇を湿《しめ》らせた。長椅子に残っていた者を順に見て、布を巻き、明日《あした》また来るように言った。子どもがもう一人増えていた。指を挟んだほうの子は、帰る時に振り返って、小さく手を振っていった。


 日が傾《かたむ》くころ、腿《もも》の男が目を開けた。


「飲めますか。……ゆっくりで、いいですよ」


 含ませた水を、飲んだ。飲めた。


 付き添いの女が床に手をついて、何度も頭を下げた。リジアも、下げ返した。


 助かった人が、いる。


 外の石畳は、戸板の在ったあたりだけが濡れていた。洗ったあとだった。井戸端で手を洗うと、水が桶《おけ》の中で薄く色を変えて、それから、また澄んだ。


 戻ると、切った布が盥《たらい》の縁にまとめてあった。


 捨てるつもりで持ち上げて、手が止まった。


 布の内側に、葉が貼りついていた。


 白く褪《さ》めた、縁のところ。乾いて、血を吸って、それでも形が残っている。剥《は》がすと、下の布に、葉の輪郭がそのまま薄く写っていた。


 レニス(湿布草)の、葉だった。


 担ぎ手の若い男が、井戸で顔を洗っていた。リジアは、布を持ったまま外へ出た。


「これは」


「ああ」男は袖で顔を拭った。「枝道の薬師《くすし》んとこで、一晩」


「一晩」


「うちの村には、いないんで。夜のうちに担いで、そこで縛《しば》ってもらって、朝また担いで。……途中で一晩、寝ましたけど」


 男は、井戸の縁に腰を下ろした。膝から下が、乾いた泥で白くなっていた。


「あの人、起きてきて、すぐでした。灯《あか》りも点けんうちから、もう手ぇ動かしてて」


「火は」


「明け方には、収まってました」男は、袖の黒いところを見た。「梁《はり》が落ちたんです。逃げ遅れたんじゃなくて、戻ったんで」


 リジアは、布を見た。


「もう一人は、別の組が、直で運んだんです。枝道《えだみち》は遠回りになるんで、そのほうが早いって」


 男は、桶の水に指を浸した。


「早かったですよ。夜明け前には、こっちに着いてたはずです。うちらより、半日」


 半日。


 手の中で、布が重かった。


 教わったとおりにした。助かるほうへ手を回した。間違っては、いない。間違っていないから、あの人は今、水を飲んでいる。


 その助かるほうに、あの人がいられたのは。


 リジアは、布を握った。乾いた血が、指の間で崩れた。


「薬師さんは」


 声が、思っていたより低く出た。


「一緒に来てますよ。荷を戻したら帰るって、そこで」


 男が顎《あご》で示したのは、支部の裏手だった。


 塀《へい》の陰に、籠《かご》がひとつ置いてあった。


 腕の上で一度揺れた、あの籠だった。


 リジアは、そちらへ足を向けた。


 布は、まだ手の中にあった。


 何を言うのかは、決まっていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
ゆったりと進む異世界ファンタジーが新鮮でした。ノアの一つ一つの暮らしが丁寧に描かれていて、新しいものに触れるたびに成長を見守るような感覚で読んでいました。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。