第18話 布の内側
――リジア
その男が運び込まれたのは、まだ外が暗いうちだった。
脇腹から下が、赤黒く濡れている。濡れたまま、乾いていない。戸板の木目に沿って、それが縁まで来て、止まっていた。何も巻かれていなかった。運んできた男たちは、下ろすなり戸口で膝に手をついて、しばらく動かなかった。
「聞こえますか」
返事は、なかった。
「……触りますね」
リジアは、手首に指をあてた。あるにはある。あるけれど、指の腹を押し返してくる力が、遠かった。瞼を上げると、瞳の奥が濁っていた。唇の色が、足元の石と同じだった。
足りていない。
体の中に、もう。
「ここに、いますから」
それでも、リジアの手は動いていた。腹の布をめくり、傷の位置を確かめ、押さえる場所を探す。探しながら、探すところが無いことも、指先が分かっていた。
窓が白んだ。
朝の勤めの鐘が鳴って、止んだ。長椅子が、一人ずつ埋まっていく。指を挟んだ子ども。咳の止まらない年寄り。荷を担いで腰を痛めた男。年かさの聖療師が順に見て、順に返していった。
リジアは、動かなかった。
昼が近づくころ、戸が鳴った。
鳴った、というより、体ごとぶつかった音だった。顔を上げた時には、もう戸口に人が立っていた。肩に紐の跡を残した若い男が、息の上がったまま、外へ腕を振る。
「もう一人、います。枝道から」
男の袖が、肘から先だけ黒かった。
石畳に、戸板が下ろされた。
腿に布が幾重にも巻かれ、その上から細い添え木が二本あてがわれている。膝の上と下で、別の紐で留めてあった。布はどす黒く、乾いていた。
乾いている、ということに、リジアの手のほうが先に反応した。
「リジア」
年かさの聖療師が、新しく来たほうの傷を上から一度見て、それから、リジアの手元へ目を移した。それだけだった。
「そちらへ」
リジアの指は、まだ手首にあった。夜明けから、ここにあった。
離せば、決まる。決まってしまうことを、指のほうが知っていた。
リジアは、離した。
布を切る。鋏が布を噛むたび、乾いた血が粉になって落ちた。添え木を外し、巻きを解いていくと、腿の外側に長い裂け目が現れた。指を三本ほど並べた長さ。深い。骨には、届いていない。
「水を、お願いします」
担ぎ手が、桶ごと持ってきた。
傷の上から流す。土も、木の屑も、出てこなかった。流れた水は、濁らなかった。二度流して、指で縁を開いて、奥まで覗いた。何も残っていない。
リジアは、少しのあいだ、その水を見ていた。
杖を握った。
息を吸って、言葉を置く。指先から送り込むと、裂け目の縁と縁が、内側から寄りはじめた。寄るのに合わせて、男が一度、喉の奥で呻いた。呻けるということに、リジアは少しだけ肩の力を抜いた。
途中で、後ろの床が鳴った。
何人かの足音が、短く行き来した。それから、静かになった。
リジアは、振り返らなかった。振り返らないまま、次の言葉を置いた。杖の先が熱を持ち、指の付け根まで痺れが上がってくる。まだ足りない。もう一度、置く。
どれくらい経ったのか、分からなかった。
顔を上げた時、掌に感覚が無かった。裂け目は、細い線になって閉じていた。男の息が、深く、遅くなっていた。
立ち上がると、膝が笑った。
はじめの戸板に、布が掛かっていた。
顔まで。
リジアは、そちらへ足を向けた。
「そちらは済みました」
年かさの聖療師が、手を拭いながら言った。
「水を」
済みました、という言葉が、耳の中で、少し遅れて鳴った。
リジアは、頷いた。頷いてから、自分が頷いたことに気づいた。
水を汲みに行き、戻り、男の唇を湿らせた。長椅子に残っていた者を順に見て、布を巻き、明日また来るように言った。子どもがもう一人増えていた。指を挟んだほうの子は、帰る時に振り返って、小さく手を振っていった。
日が傾くころ、腿の男が目を開けた。
「飲めますか。……ゆっくりで、いいですよ」
含ませた水を、飲んだ。飲めた。
付き添いの女が床に手をついて、何度も頭を下げた。リジアも、下げ返した。
助かった人が、いる。
外の石畳は、戸板の在ったあたりだけが濡れていた。洗ったあとだった。井戸端で手を洗うと、水が桶の中で薄く色を変えて、それから、また澄んだ。
戻ると、切った布が盥の縁にまとめてあった。
捨てるつもりで持ち上げて、手が止まった。
布の内側に、葉が貼りついていた。
白く褪めた、縁のところ。乾いて、血を吸って、それでも形が残っている。剥がすと、下の布に、葉の輪郭がそのまま薄く写っていた。
レニスの、葉だった。
担ぎ手の若い男が、井戸で顔を洗っていた。リジアは、布を持ったまま外へ出た。
「これは」
「ああ」男は袖で顔を拭った。「枝道の薬師んとこで、一晩」
「一晩」
「うちの村には、いないんで。夜のうちに担いで、そこで縛ってもらって、朝また担いで。……途中で一晩、寝ましたけど」
男は、井戸の縁に腰を下ろした。膝から下が、乾いた泥で白くなっていた。
「あの人、起きてきて、すぐでした。灯りも点けんうちから、もう手ぇ動かしてて」
「火は」
「明け方には、収まってました」男は、袖の黒いところを見た。「梁が落ちたんです。逃げ遅れたんじゃなくて、戻ったんで」
リジアは、布を見た。
「もう一人は、別の組が、直で運んだんです。枝道は遠回りになるんで、そのほうが早いって」
男は、桶の水に指を浸した。
「早かったですよ。夜明け前には、こっちに着いてたはずです。うちらより、半日」
半日。
手の中で、布が重かった。
教わったとおりにした。助かるほうへ手を回した。間違っては、いない。間違っていないから、あの人は今、水を飲んでいる。
その助かるほうに、あの人がいられたのは。
リジアは、布を握った。乾いた血が、指の間で崩れた。
「薬師さんは」
声が、思っていたより低く出た。
「一緒に来てますよ。荷を戻したら帰るって、そこで」
男が顎で示したのは、支部の裏手だった。
塀の陰に、籠がひとつ置いてあった。
腕の上で一度揺れた、あの籠だった。
リジアは、そちらへ足を向けた。
布は、まだ手の中にあった。
何を言うのかは、決まっていなかった。




