第17話 速かったのは紙だけ
――ナヴィル
封蝋は、まだ新しかった。
書記がそれを割る。赤い破片が二つ、盆の上へ落ちた。ナヴィルは卓から少し離れて立っていた。
前の紙は、十日かかった。この紙は、四日で戻ってきている。
速さが、答えだった。
けが人の出ていない小さな案件は、支部と支部を結ぶ優先の連絡には乗らない。乗らないから、記録は近隣の支部を遡り、遡った分だけ日が要る。あの十日は、そういう十日だった。
今度の紙は、支部を遡ってきていない。上から、まっすぐ降りてきている。
「読み上げます」
書記が言い、監察官が顎で促した。
非所属者による攻撃魔法の使用、ならびに無断習得および教授の疑い。世界政府案件として扱う。以後、当所の照会はクレイセルの控えへ直接当たること。現場は、痕跡の保全と、巡回の強化にあたること。
読み終えて、書記が紙を伏せた。
「立った」
監察官が言った。朝と同じ高さの声だった。
立った、という言い方をこの人はする。ナヴィルは、その一語を胸の内で二度めくった。立つ。倒れていたものが起きるのではない。無かったものが、今、そこに在ることになった、という意味の立つだ。
「では、応援が」
先任の実務官が、いくらか明るい声を出した。
「来ん」
監察官は、紙のほうを見たまま答えた。
「立ったのは、紙の上の話だ。名簿の外に回路がある――それを確かめるのは記録の仕事で、記録はクレイセルにある。ここにあるのは、焼けた倉と、畑と、村だ」
先任が、口を閉じた。
その閉じ方を、ナヴィルは前にも見ている。獣ですかね、と言った時と、では畑火で、と言った時。この人は外れることを恐れていない。ただ、当たらなかったあとの黙り方が、少しずつ長くなっている。
「巡回を増やす」監察官が言った。「道筋は決まったものが降りてくる。我々は、通る」
「どのあたりまでを」
「街道から枝道の口までだ。奥へは入らん」
入れない、ではなく、入らん、と言った。
ナヴィルは、卓の木目を見ていた。あの倉は、その口を入ってすぐだ。
言葉が、喉の途中まで来て、止まった。通るだけで止まりますか、と訊けば、答えは返ってくる。止まらない、という答えが。この人はそれを承知で巡回と言っている。
だから訊くべきことは、そこではなかった。
「もうひとつ、伺っても」
監察官が、顔を上げた。
「監察官殿は」ナヴィルは、言い方を探した。探しても、短くしかならなかった。「名簿の外に回路がある、と書いた紙に――以前にも、判を」
「訊いてどうする」
答えではなかった。だが、否定でもなかった。
監察官は伏せられた紙を指の腹で押さえ、それだけをした。窓の外で、荷車がひとつ通っていった。
「明日、村へ回れ」
顔は、上げないままだった。
「巡回のことを、置いてくる。卿が行け」
「私が、ですか」
「見えるものが要る。紙は、村までは行かん」
ナヴィルは、頭を下げた。
枝道は、前と同じだった。轍はひと組しかなく、両側から寄ってきた草が鐙に触れる。ただ、草の丈は前より落ちていた。刈り取りの済んだ畑が、道の左右で乾いた色をしている。
倉は、まだ黒いまま立っていた。
誰も片づけていない。柱は焦げたまま天を向き、壁板は炭になって地面に散っている。焦げた匂いは、もう完全に抜けていた。
村へ入ると、人が出てきた。
最初は一人、それから三人、五人。誰も走らない。鍬を持ったまま、畦を回って集まってくる。前に来た時、畑の向こうからこちらを遠く見ていた年寄りが、その先頭にいた。今度は、畦の陰へは入らなかった。
ナヴィルは馬を降りた。降りてから、上着の裾を直した。この裾も、この紋章も、この馬も、ここでは自分の身なりではなく、政府の姿だった。
「世界政府の者です」
誰も、何も言わなかった。
「この件は、正式に扱うことになりました。街道の巡回を増やします」
年寄りが、頭を下げた。深く、時間をかけて下げた。ナヴィルは、その頭のつむじを見ていた。
「ありがたいこって」
そのあと、問いが来た。
「何日おきに、通ってくださるので」
「――当面は、間を詰めます」
「夜は」
「夜も、回ります」
「枝道は」
ナヴィルは、答えた。
「口までです」
誰も、声を上げなかった。年寄りは頷き、後ろの誰かも頷いた。誰も、なぜ、とは訊かなかった。訊かないということが、分かっているということだった。
若い男が一人、腕を組んだまま倉のほうを見ていた。何も言わない。掌に鍬の柄を握ったままで、その手が、握り直すたびに音を立てた。
言うことは、それで終わりだった。何かあれば街道へ出て巡回の者に、と付け足した。付け足しながら、次に通るまでの日数を、この人たちのほうが正確に数えているのが分かった。
ナヴィルは馬に戻った。
鐙に足をかけたところで、後ろから声が来た。
「旦那さま」
振り返ると、年寄りだった。
「あの倉な」
年寄りは、黒い柱のほうへ顎をやった。
「空でしたんじゃ。刈り入れの前でしたでな。焼くもんが、何も入っとらん」
「――伺っています」
「次も空とは、限らんでしょう」
風が、乾いた畑を渡ってきた。誰も、その言葉に足しも引きもしなかった。
年寄りは、それだけ言うと、もう畦のほうを向いていた。責める顔ではなかった。
言葉が、喉の途中で止まった。
人が散っていく。後ろのほうで、鍬の柄が、もう一度だけ鳴った。
ナヴィルは、鞍の上で、しばらく動かなかった。
器を通さない火がどうなるかなら、父の言い方でそのまま出てくる。輪郭を持たない炎は、撃った者の手を焼く。
それは正しい。正しくて、あの人に向けて言う言葉ではなかった。
手綱を握る。手袋の指に、印環の重みがある。素手では指の上で回るものが、手袋の上から嵌めて、ようやく隙間がなくなる。外して渡したところで、環だけでは灯らない。刻まれている側があって、初めて灯る。
馬を返す。
枝道の口までは、村から、そう遠くない。
――速かったのは、紙だけだ。




