↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
僕の世界  作者: 0u0
第二章
45/64

第16話 一頭なら、一頭

――ノア


 アルテンの東門を出たのは、朝のうちだった。


 荷は軽い。油紙で巻いた包みが三つと、麻布でくるんだ小さな木箱がひとつ。ぜんぶ合わせても、水袋ふたつぶんくらいしかない。届け先は、枝道《えだみち》の先の村。薬師のセラさんの家だ。


「軽い荷だが、濡《ぬ》らすなよ」


 受付の男は、依頼票を渡しながらそう言った。


「はい」


 濡らさないための油紙だ。それでも言うということは、濡らして帰ってきた人間が、前にいたのだろう。


 街道を東へ。刈り取りの済んだ畑が、両側に低く続いている。


 日が落ちる前に、林の縁《ふち》で火を熾《おこ》した。


 食料袋は、枝に吊《つ》るす。アルテンの門の前で、空《から》荷車の男に教わったやり方だ。あの人は、声で数と位置を欺く鳥の話をしていた。吊るしておけば取られない、と。


 試すのは、これで四度目になる。いつも、朝には袋がそのまま下がっていた。


 火を小さくして、毛布をかぶった。夜のあいだ、遠くで何かが二度鳴いた。右で鳴いて、次は左だった。袋は、朝もそこにあった。


 二日目。日が傾《かたむ》きかけた頃に、木立《こだち》が切れた。


 道の曲がりは、覚えていた。三度目だからだ。


 村の入り口の近くに、分所がある。石を積んだ低い壁に、教会の印が彫《ほ》ってある。前に来た時は、扉が開いていて、中には誰もいなかった。埃《ほこり》をかぶった台に、蝋燭《ろうそく》の燃えさしが残っているだけだった。


 今日は、人がいた。


 三人。いや、四人だ。戸口の前に並んで、順番を待っている。いちばん後ろの女の人が、腕に子どもを抱えていた。


 列は短い。もう終わりかけているように見えた。


 僕は荷を担ぎ直して、そのまま通り過ぎた。


 セラさんの家の戸を叩《たた》いても、返事がなかった。


 もう一度叩いて、待って、それでも音がしないので、離れた。


 畑の脇で、鍬《くわ》を持った男の人が顔を上げた。前に、届け先を教えてくれた人だ。


「セラさんなら、分所だよ」


「分所、ですか」


「巡りが来てるからね」


 巡り、と僕は口の中で言った。聞いたことのない言葉だった。


「年に一度か、二度」男の人は、鍬の先の土を落とした。「街から人が来て、診てくれる。今年は来た」


 今年は。


「来ない年もあるんですか」


「あるよ」


 男の人は、それだけ言って、また鍬を入れた。


 分所の前の列は、さっきより短くなっていた。


 女の人と、子ども。それだけだ。


 少し離れたところで待った。荷は濡《ぬ》らせないから、抱えたままで。


 中から声がした。低くて、短い。何を言っているかは、聞き取れない。


 やがて女の人が子どもを抱いて出てきて、戸口の前には誰もいなくなった。


 しばらくして、セラさんが出てきた。前掛けで手を拭《ぬぐ》きながら。


「あんたか」


「荷です。薬だと聞きました」


「ああ」


 セラさんは油紙の包みと木箱を受け取って、包みのほうを指で確かめた。それから、少し眉《まゆ》を寄せた。


「足りないね」


「え」


「頼んだのは、この倍だ」


 僕は包みを見た。ギルドで渡されたものを、そのまま運んだだけだ。


 言おうとして、やめた。セラさんも、僕のせいだとは言っていない。


「まあ、ないよりましだ」


 セラさんは包みを抱え直して、分所のほうを振り返った。


「悪いけど、受け取りは家じゃなくてここでいいかい。今日は、戻れそうにない」


「はい」


 戸口の中が、少しだけ見えた。


 板の間が掃いてある。台の上に、蝋燭《ろうそく》が新しく立っていた。火が点いていて、まっすぐ伸びている。


 奥に、人がいた。背中しか見えない。膝《ひざ》をついて、誰かの腕に手を当てている。


 僕は戸口から離れた。


 納屋《なや》を貸してくれたのは、村の端の家だった。


 百レムを二枚。年寄りは掌《てのひら》で受けて、数えもせずに帯《おび》に落とした。


「藁《わら》は好きに使いな」


「ありがとうございます」


 日が落ちてから、母屋の戸が開いた。


「食ったのか」


「いえ」


「じゃあ来な」


 土間に、囲炉裏《いろり》があった。鍋がかかっている。


 椀《わん》に、根と豆の煮たのを一杯もらった。塩気は薄い。それでも、温かかった。


 僕は自分の鍋を持っている。街を出る前に平鍋を買った。だから、なくても困らなかった。


 困らないのに、もらった。


 二口目を運ぶ手が、少し早くなった。


「この辺で、薬草の採れるところはありますか」


「薬草かい」


「はい。街で売れるので」


 年寄りは、少し考えるような顔をした。


「沢《さわ》沿いだな。上がっていけば、いくらでも生えとる」


「ありがとうございます」


「ただし」年寄りは椀の縁を舐《な》めた。「奥までは、行かんほうがええ」


「奥」


「あのへんは、村の者ももう行かん」


「なんでですか」


 年寄りは火を見たまま、しばらく黙っていた。


「何かおるらしい」


「らしい、って」


「見た者はおらん。おらんが、去年から、木の実を採りに行った者が、戻ってこん日がある」


 戻ってこない日がある。戻ってこない、ではなく。


「怪我をした人は」


「おらんよ。逃げてきただけだ」年寄りは首を振った。「逃げられたんなら、まだええ」


「どのあたりからですか」


「知らんよ。行かんからな」


 僕は少し考えた。


「街には」


「言うたよ。前に、蜂の時にな」


 蜂。木の根方の洞にいた、あの群れだ。僕が煙で燻《いぶ》して落とした。


「あれで、村の金は出しきった」年寄りは言った。「林は、行かんかったら済む」


 行かなかったら済む。


 そのとおりだと思った。畑には出てこない。水場にも来ない。行かなければいいだけの場所は、後回しになる。


 順番として、正しい。


 火が一度、小さく爆《は》ぜた。


 次の朝、僕は林へ行った。


 村のためじゃない。


 前に来た時、村の外れでクルサ(止血草)を見つけた。街道沿いに生えるあれが、こんな奥にもあるということは、もっと奥には、もっといいものがあるかもしれない。


 寒くて暗い奥で育ったやつほど、強く光る。メルナさんが、前にそう言っていた。


 林の奥は、暗い。


 年寄りには、行くとは言わなかった。


 納屋を出る時に顔を合わせても、何も言われなかった。よそ者がどこへ行こうと、村の人には関係がない。


 沢に沿って上がった。


 クルサが三束。それから、見たことのない葉が二株。裏が銀色で、揉《も》むと薄荷《はっか》に似た匂《にお》いがした。名前を知らないから、根ごとは採らずに、葉だけ包んだ。


 沢の音が細くなって、木が太くなった。


 地面に、実が落ちていた。


 丸くて、親指の先ほどの、硬そうな実だ。見上げると、枝にはまだたくさん残っている。


 落ちた実のいくつかが、割れていた。


 割れ方が、変だった。鳥がつついたなら穴が開く。鼠《ねずみ》なら齧《かじ》った跡が残る。これは、上から潰《つぶ》したみたいに割れている。


 しゃがんで、地面を見た。


 柔らかい土に、跡があった。二つに割れた蹄《ひづめ》の跡が、実の落ちている範囲に、いくつも重なっている。


 鹿だ。


 鹿なら、いる。育った街の周りにもいた。実の落ちる木の下に来るのも、当たり前のことだ。


 立ち上がって、次の木へ行こうとして、幹が目に入った。


 樹皮が剥《は》げていた。


 高さが、僕の胸より上だ。肩に近い。


 削れ方が、横に広い。角を擦《こす》りつけた跡だとしたら、その角は、枝みたいに分かれていない。


 平べったい。


 僕は、その跡をしばらく見ていた。


 木立の向こうに、それが立っていた。


 鹿だ。


 大きい。肩の高さが、僕の肩くらいある。角は頭の上で平たく広がっていて、板を二枚さしたみたいに見えた。


 僕は足を止めた。


 鹿も、こっちを見ていた。


 逃げない。


 鹿は逃げる。人の匂いがしたら、音がしたら、こっちが見つける前に逃げる。育った街の周りでも、そうだった。


 逃げないなら、こっちが下がればいい。


 一歩、後ろに下がった。


 鹿が、一歩、前に出た。


 走ってはこない。首も下げない。ただ、詰めてくる。


 僕は、目を見た。


 白いところが、なかった。


 黒目と白目の境がない。全部が黒くて、濡れた石みたいに光を返している。


 両手が塞《ふさ》がっていた。薬草の包みと、掘り棒。


 地面に置いた。放らずに、置いた。売り物だ。


 それから、胸の留めに手をかけた。


 上下のベルトは、左右それぞれ胸のところで合わさっている。片手では外れない。左を外して、右を外す。


 手は、いつもの手順を追っていた。


 目は、上げたままだった。


 肩を抜いて、下ろす。ベッドロールと毛布とロープと水袋が、いっしょに地面に落ちた。鈍い音がした。


 鹿は、その音でも逃げなかった。


 また一歩、前に出た。


 開けたほうへ出てはいけない。


 あれは、重い。正面で受けたら、こっちが飛ぶ。


 僕は後ろへ下がった。沢のほうではなく、木の込んでいるほうへ。


 鹿がついてきた。


 幹と幹の間隔が狭くなる。肩幅より少し広いくらいの隙間《すきま》を、体を斜めにして抜けた。


 鹿は、そのまま入ってきた。


 入れるはずが、なかった。


 角が、幹に当たった。


 鈍い音がして、首が横に止まった。平たく広がった角は、木のあいだを通らない。まっすぐ来ようとして、引っかかる。


 鹿は、下がらなかった。


 下がって、角度を変えて、回り込めばよかった。それができれば、僕は追い出されていた。


 でも、下がらない。


 首をねじって、押した。もっと押した。木が鳴った。


 僕は、剣を抜いた。


 首の付け根に入れた。二度。


 膝が折れて、体が横に倒れた。角が幹に挟まったまま、しばらく動いていた。それからも、まだ少し動いていた。


 止まってから、僕は息を吐いた。


 手が震えていた。


 しゃがんで、震えが止まるまで待った。木の上のほうで、鳥が一羽、飛び立つ音がした。


 血を抜いて、腹の始末をする。


 肝は切り分けて、布に包んだ。持って帰るぶんだ。


 皮は剥ぎかけて、やめた。日が傾いていた。


 全部は運べない。頭から尻まで、僕の背丈より長い。


 内臓と、切り分けた肉を布で包んで、リュックの上に括《くく》った。ロープを使った。薬草の包みは、中に入れた。


 立ち上がると、思っていたより重かった。


 村に入った時、日が落ちかけていた。


 畑の男の人が、手を止めて、僕を見た。それから、背中を見た。


「あんた」


「はい」


「それ、どこで」


「林です」


 男の人が、口を開けたまま黙った。


「たまたまでした」僕は言った。「木に角が引っかかって、動けなくなってて」


 嘘《うそ》じゃない。


 男の人は僕の顔を見て、それから背中の荷を見て、もう一度顔を見た。


「……そうか」


 それだけだった。


 納屋の家へ持っていった。


「昨日《きのう》、椀《わん》をもらったので」


 年寄りは包みを開けて、しばらく黙っていた。


「これ、林のか」


「はい。鹿に見えましたけど、目が黒かったです。角が、平べったくて」


「……スラールだな」


「スラール」


「聞いたことは、あるだろ」


「あります」僕は言った。「見たのは、初めてでした」


「あんた」年寄りは言った。「無茶したなあ」


 怒っているのでも、褒めているのでもない声だった。


「林は、もう大丈夫でしょうか」


 訊《き》いてから、しまったと思った。


 年寄りは首を振った。


「知らんよ。あんたが見たのが一頭なら、一頭だ」


 僕は口を開いて、閉じた。


 次の朝、もう一度林へ行った。


 残してきたぶんは、そのままだった。夜のあいだに何かが来た跡もない。


 皮を剥《は》いで、肉を分けた。角は、頭の骨ごと落とした。鋸《のこぎり》がないから、首の付け根から刃を入れて、時間をかけて外した。


 二回で、運びきれた。


 その晩、年寄りの家で肉を煮た。


 匂いが出ると、人が来た。


 五人か、六人。椀を持ってきた人もいた。誰かが濁《にご》った酒を土瓶で持ってきて、鍋の横に置いた。


 火のそばに、男の人が一人いた。


 肉を切り分けているのは、その人だった。手が早い。骨のところで刃を回して、身を外して、椀に落としていく。誰よりも動いていた。


「隣の枝道な」誰かが言った。「政府の人が来とるらしい」


「政府」


「焼けた倉《くら》の。見に来たとか」


「そんな、倉ひとつで来るか」


「来たらしい」


「誰が見た」


「知らん。聞いた」


 僕はその話を聞いていた。


 枝道の先の村なら、前に泊まった。焼けた倉も見た。畑を挟んだ向こうに、黒い柱が何本か立っているだけの、静かな跡だった。


「気の毒にな」と、誰かが言った。


 火のそばの男の人は、手を止めなかった。


 骨で刃を回して、身を外して、次の椀へ落とす。


 僕の椀にも、身が落ちてきた。


「これ、あんたが」


 男の人が言った。


「はい」


 それだけだった。男の人は、次の椀へ移った。


 次の朝、村を出た。


 皮は置いていった。肉も、残しておけるだけ置いた。


 角だけ、リュックに括《くく》った。


 街まで二日かかる。肉は腐る。皮は、なめしていないから運んでも売り物にならない。角は残る。


 もらったぶんは返した。あとは、自分の旅費だ。


 年寄りが、納屋の戸のところまで出てきた。


「気をつけてな」


「はい」


 分所の前を通った。


 扉が閉まっていた。掛け金が下りている。


 台の上の蝋燭は、見えない。


 人は、一人もいなかった。


 僕は枝道を戻った。


 街道に出るまでのあいだに、一度だけ、林のほうを見た。


 木の色は、来た時と何も変わっていなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。