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僕の世界  作者: 0u0
第二章
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第15話 三日目と七日後

――リジア


 刈り取りの済んだ匂《にお》いがした。秋の枝道《えだみち》だ。


 支部を出て、二日。街道を外れてからは、荷を負った担ぎ手の足音ばかりになった。両側から伸びた草が、歩くたびに袖を撫《な》でていく。人が通らない道は細るのだと、支部の誰かが言っていた。細るというより、閉じかけている、とリジアは思った。


 三日目の昼過ぎ、木立《こだち》が切れて、村が見えた。


 低い家が身を寄せ合って、どの屋根からも薄い煙が上がっている。畑の畝《うね》の間を、細い水路が通っていた。畑の端で鍬《くわ》を止めた男が、こちらを見て、それから村の奥へ向かって、何か大きな声で言った。声は、届いたらしい。戸が、いくつか開いた。


 村の外れに、小さな建物がある。屋根の上に、簡素な印。


 分所だった。


 戸には、掛け金が下りているだけだった。指の背で上げて、押す。動いた戸が、内側の埃《ほこり》を巻き上げる。


 中は、思っていたより暗い。窓が一つきりで、床には枯れ葉と土が薄く積もっていた。


「去年の春以来だねえ」


 いつのまにか戸口に立っていた年寄りが、中を覗《のぞ》き込んで、そう言った。


 リジアは外套《がいとう》を掛け、袖をたくし上げて、箒《ほうき》を取った。


 掃きながら、正面の像の前で、箒の先が浮いた。


 木彫(ほ)りの、聖なる降臨者。翼を大きく広げ、空から前へ舞い降《お》りる途中のように身を傾《かたむ》けている。頭の後ろの光輪は、彫りが浅い。彩色はほとんど剥《は》げて、頬《ほほ》のあたりから木肌がむき出しになっていた。足元に、蝋燭《ろうそく》が一本。芯が、根元まで焼け落ちている。


 差し伸べられた片手の先には、何もない。


 そういう形の像だった。支部の像も、大聖堂の像も、同じだと聞いている。


 リジアは、その手の下で、埃を掃いた。


 新しい蝋燭を立て、火を移す。小さな炎が、剥げた木肌を、少しだけ温かい色にした。足元の鉢の底に溜《た》まっていた枯れ葉を払って、像の前へ戻した。


 戸を開けたままにしておくと、人が集まってきた。


 十人ほどだろうか。年寄りが多い。子を抱いた女が、後ろのほうで立ったままでいる。長椅子は二つきりだから、あとは板の間に膝《ひざ》を折って座った。


 リジアは、像の前に立った。


 聖典は、持っていない。分所には置かれていないし、司祭様が回られるのは、もっと近い村の話だ。だから、覚えているものを短く語る。


 口が、勝手に動いた。修行のあいだ、何百回も唱えたものだ。考えなくても、次の言葉が出てくる。


 村人は、目を閉じて聞いていた。前のほうの年寄りが、口の中で一緒に唱えている。ところどころ、言葉が違った。それでも、拍だけは、きちんと合っていた。


 リジアは、直さなかった。


 唱え終えると、みんな、揃《そろ》って手を合わせた。務めは、これで済んだ。リジアも、手を合わせた。


 長椅子を戸口のほうへ寄せる。そこからが、診療だった。


 膝。腰。肩。畑仕事の体は、どこも同じところが傷んでいる。リジアは一人ずつに手を添《そ》え、低く詠唱《えいしょう》を落とした。杖《つえ》の木と水晶が、掌《てのひら》の下で熱を持つ。強ばりがほどけ、痛みが遠のく。座った時と、立ち上がる時とで、顔が違った。


 垣根《かきね》を直していて、割れた木で手のひらを裂いたという若い男がいた。縁《ふち》が開いて、まだ滲《にじ》んでいる。手を添え、詠唱を落とすと、血が止まり、開いていた縁が寄って、薄い線になった。


 男は自分の手をひととおり眺めて、それから、ありがとうございます、と言った。それだけだった。驚いては、いなかった。


 奥で、鉢に小銭が落ちる、乾いた音がした。


 四人目の年寄りが、脛《すね》を出した。


 古い傷だった。膿《う》んで、乾いて、また膿んで、を繰り返している。縁の皮が硬く盛り上がって、色が変わっていた。


 リジアは膝をつき、手を添えて、詠唱を落とした。熱を持っていた芯が、少し引く。年寄りが、息を吐いた。それでも、盛り上がった縁は、盛り上がったままだった。


「……これは、日にちがかかります」


 リジアは、そう言った。


「一度では、塞《ふさ》がりません。何度かに分けて、その間、乾かさずにおかないと」


 後ろに並んでいた女が、こともなげに言った。


「じゃあ、セラさんとこだね」


「……セラさん」


「薬師さ。奥の、薬草を干してる家」


 誰も、それを説明とは思っていないようだった。女は当たり前のことを言った顔のまま、列に戻っていった。


 しばらくして、その人が来た。


 四十半ばくらいの女だった。前掛けに、乾いた薬草の粉がついている。戸口で一度だけ中を見渡して、それから何も言わずに入ってきた。


「あんたが、巡りの人かい」


「はい。リジアと申します」


「セラだよ」


 それだけだった。挨拶が済んだのかどうかも、よく分からない。セラは長椅子の端に籠を下ろすと、もう次の患者の腕を取っていた。


 午後、走り込んできた男の子がいた。竈《かまど》で腕を焼いたのだという。母親が、袖を捲《まく》り上げる。手首から肘《ひじ》にかけて赤く、水疱《すいほう》がいくつか立っていた。


 リジアは、その腕に手を添えた。低く落とす。杖が熱を持ち、赤みが引いていく。水疱が萎《しぼ》んで、下から新しい皮が寄ってきた。捩《よじ》っていた体から、力が抜ける。


 手を離す。焼けた跡の縁が、まだ薄く赤い。


 顔を上げると、セラが、もう横にいた。


 布を絞り、冷ました湯でそっと拭《ぬぐ》う。壺《つぼ》の中身を指に取って、薄く伸ばす。晒《さらし》を巻く。締めすぎない。指が、迷わなかった。


「三日は、濡《ぬ》らすな」


 母親が、何度も頷《うなず》いた。


 日が傾く頃には、列は途切れていた。


 セラは、籠の中を並べ直していた。壺と、小さな包み。数を確かめて、幾つかを土間の隅の棚へ移していく。


「置いていくんですか」


「あの子の、あと二回ぶん。婆さんの腰のと」


 セラは、こちらを見ずに続けた。


「母親には言ってある。二日目で剥がして、また巻きな、と」


 リジアは、その手元を見ていた。それから、自分の籠に目を落とした。


 棚の壺の一つを、セラがこちらへ向けて置いた。


「開けてみ」


 言われたとおりにする。乾いた、青い匂いがした。刻んだ葉が、いっぱいに詰まっている。


「……クルサ(止血草)、ですか」


「よく分かるね」


「支部で、包みになっているのを見ます」


「そりゃ、挽《ひ》いたあとだ」


 セラは指を突っ込んで、ひと摘《つま》み取り出した。


「乾かしすぎると粉になる。粉になったのは、効かん」


 それから、棚の上の、まだ束のままの薬草を顎《あご》で示した。


「軒下で、色が残ってるうちに下ろす。日に当てると赤が飛ぶ。赤が飛んだら、止まらん」


 教えている顔では、なかった。ただ、そこにあるものの名前を、順に言っているだけの顔だった。


 アマラ(解熱草)の根の、皮の剥き方。レニス(湿布草)の葉の、水の切り方。同じ調子で、次々に出てきた。


 リジアの手が、止まった。


 覚えておこう、と思った。今のところを、もう一度。


「……すみません。その、赤が飛ぶ、というのは」


「陽に当てすぎるとだよ。ほら」


 セラは束を一つ下ろして、葉を裏返した。縁のほうが、白く褪《さ》めている。


「これは、もう駄目だ」


 リジアは、その葉を指で受け取った。乾いて、軽い。少し力を入れると、端が崩れた。


「……ありがとうございます」


「礼を言うようなことじゃない」


 セラは束を戻し、手の粉を前掛けで払った。


 その晩は、分所の板の間で寝た。蝋燭を消すと、村は驚くほど静かだった。虫が一日じゅう鳴いていたことに、消してから気づいた。


 籠の布をほどいて、貝殻を取り出す。掌《てのひら》の上で、冷たい。耳には当てず、そのまま布に戻した。


 朝は、霜が薄く降りていた。


 昨日診きれなかった二人を診て、それで終わりだった。荷はもう、担ぎ手が背負っている。リジアは分所の掛け金を下ろし、指の背で、一度だけ確かめた。


 セラは、見送りに出てきたわけではないようだった。籠を提げて通りの向こうから歩いてきて、たまたま、そこで足が止まった。


「帰るのかい」


「はい。お世話になりました」


 セラは、頷きもしなかった。


「あの子の腕、三日目に見る。膿んだら、街のギルド便で薬を頼む。届くのが、七日後くらいだね」


 それだけ言うと、もう自分の一日のほうを向いていた。


 三日目。七日後。


 リジアは、その横顔を見ていた。


 口が、開いた。


「わたし、が」


 その先が、出てこなかった。


 何を言おうとしたのか、自分でも分からない。分からないのに、喉《のど》の奥のあたりが、詰まっていた。


 セラが、こちらを見た。待つでもなく、急かすでもない目だった。


「……いえ。なんでも、ないです」


 リジアは、頭を下げた。


 セラは「そうかい」とだけ言って、歩いていった。籠が、腕の上で一度揺れた。それきり、振り返らなかった。


 枝道は、来た時と同じ細さだった。


 袖の内側に、乾いた葉の欠片《かけら》が入っているのに気づいた。白く褪めた、縁のところ。


 リジアは、それを指でつまんだ。捨てずに、握ったまま歩いた。

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