第14話 該当者なし
――ナヴィル
轍が、ひと組に減った。
枝道に入って、ナヴィルは馬の脚を落とした。両側から寄ってきた草が、鐙に触れる。荷馬車の通う道ではない。人と、せいぜい荷駄の通う道だ。
街道を折れて、ほどなくだった。報せが監察所の卓に載ってから、ここへ着くまでに幾日かかったかを、彼は数えていた。数えても、短くはならなかった。
畑の切れたあたりに、黒いものが立っていた。
柱が何本か、焦げたまま天を向いている。屋根は落ちていた。壁板は半分炭になって、地面に散らばっている。倉だ。
道からは、畑をひとつ隔てた向こうだった。焦げた匂いは、もう風に薄れている。人の姿は、どこにもなかった。散らばった炭は落ちたときのまま、誰の足にも踏み直されずに残っていた。
三人は、畑の縁を回って、焼け跡へ入った。
「獣ですかね」
先任の実務官が、鞍から降りながら言った。この辺りは外縁からそう遠くない、と続ける。倉を破られて、火は、そのあとから――
「爪がない」
監察官は、崩れた壁板の縁を手袋の指でなぞった。
「牙も、足跡も。獣の入った倉は、こうはならない」
「では、畑火で」
「畑が焼けていない」
先任が、口を閉じた。
ナヴィルは、その二往復を、後ろで聞いていた。畑は、刈り取りのあとの枯れ草を残したまま、倉のすぐ手前で無事に途切れている。火は、畑を渡ってきていない。倉のところから始まって、倉で終わっていた。
監察官は焼け跡の縁を、ゆっくりと一周した。
燃え残りと燃えすぎが、理屈なく並んでいた。風上の壁板が炭になり、風下の柱が半分残っている。燃えるものの少ない土間の一角だけが、抉れたように深く黒い。
「熱が、点で落ちている」監察官が言った。「火が回ったのではない。落ちたところから、焼けている」
ナヴィルは、その一点を見た。
見覚えのある焼け方だった。ただし、散らかっている。
「アズレイム卿」
監察官が、初めてこちらへ顔を向けた。
「正規の火は、こう焼けるか」
「いえ」
ナヴィルは、抉れた一点の前で膝を折った。焦げの底に、指を入れない程度まで顔を寄せる。
「詠唱で形を与えた炎は、与えた形のとおりに焼けます。狙った先へ落ちて、そこで終わる。……ここは、終わっていません」
監察官は、それを書き取るような目で聞いていた。相槌も、疑いも、返してこない。
「もうひとつ、伺っても」
監察官が、顎で促した。
「この倉に、燃えるものは。麦か、藁か」
「空です。刈り入れの前でしたから」先任が横から答えた。「村の衆は、そこも訳が分からんと言っています。空の倉を焼いて、何になるのかと」
ナヴィルは、立ち上がった。焼くものが何もない場所で、火だけが落ちている。
監察官が、倉の手前の地面を指した。
そこにも焦げがあった。倉のほうへ向いた扇形の煤が、倉から離れる向きに薄く延びている。土の上のそれは、雨に流されかけて、輪郭を失いはじめていた。
「撃った側だ」監察官が言った。「後ろへ抜けている」
先任が、黙った。
ナヴィルの喉の奥で、何かが、静かに合った。
彼の炎は、器を通り、詠唱で輪郭を与えられてから出る。輪郭を持たない炎は、撃った者の手を焼く。訓練の年月とは、その輪郭を絶やさないためだけにある。父はそれを、器を通す、という言い方で教えた。
――手が、粗い。
粗い。それだけなら、説明はつく。任官して間もない者。務めの外で使った者。酔っていた者。横へ流れた器を拾った者。監察が追うのは、まずそこだ。
ナヴィルは、そう考えた。考えられるうちは、まだ、何も動かない。
「村では」監察官が、先任へ顔を向けずに言った。
「訊きました。見た者はいないと。夜のうちに焼けていたそうです」
村の年寄りが一人、畑の向こうから、こちらを遠く見ていた。近づいてはこなかった。ナヴィルが目を戻すと、その姿はもう、畦の陰に入っていた。
「前のと、同じだ」監察官は、帳面を開かずに言った。「先だっての、畑の隅のほうだ。あれも竈からも道からも遠かった。あれも、焼けただけで済んでいる」
「あれは……」先任が言いかけて、途中でやめた。
誰も行っていない。ナヴィルは、その先を胸の内で埋めた。畑の隅の焼け跡ひとつでは、人は動かない。けが人が出ていないからだ。
監察官は帳面に幾つか書きつけ、閉じた。
「照会を回す。この属性で、この日、この一帯に、正規の者がいたか」
名簿にあたる、ということだった。
撃った以上、その者には回路がある。回路は、政府の墨でしか刻めない。ならばその名は、名簿に載っている。ナヴィルは、それを疑わなかった。疑う理由が、どこにもなかった。
返事は、すぐには来ない。
記録は近隣の支部を遡って戻ってくる。距離のぶんだけ、日がかかる。急ぎの線もあるにはあるが、あれは倉ひとつの焼失に引かれるものではない。けが人は、出ていない。
隊は、村に二日残った。
周りを見て回ったが、火の落ちた跡は、あの倉のほかになかった。畑にも、林の縁にも。焼かれたのは、空の倉ひとつきりだった。
引き上げる前の晩、先任が竈に薪を足しながら言った。
「気の長い仕事でしょう」
「そうですね」ナヴィルは、帳面から目を上げた。「……村の方は、まだ倉を片づけていませんね」
「片づけたところで、建て直す銭がありませんよ」先任は、火のほうを見たまま言った。「うちが引き上げてから、ぼちぼち手をつけるんです。だいたい、そういうものです」
「そうですか」
それ以上は、訊かなかった。訊けば、この人はもっと答えただろう。ただ、答えを聞いたところで、こちらに払えるものが何もない。
監察所へ戻ってからは、待つだけになった。
石の廊下と、閉じた扉と、判を待つ紙の束。村の竈の匂いは、二日で服から抜けた。
その夜、ナヴィルは灯りの下で手袋を脱いだ。
素手にすると、印環は指の上で回る。何百年か前の誰かの手に合わせて作られたきり、寸法はそのままだ。彼は環の向きを直し、印台の座りを確かめた。銀の象嵌の溝に、細かい煤が入っている。布の端で、それを押し出した。彫りはもう、ほとんど読めない。読めなくなるまで、代々の指がここを撫でてきたということだった。
結晶は、静かだった。魔力を通さなければ、ただの石と変わらない。
唇だけで、詠唱をなぞってみる。声は出さない。順と、間。言葉の置き方ひとつで、炎の輪郭は変わる。緊急のときほど、人はここを誤る。
指がやることと、喉がやることと、体の奥にあるものと。三つが揃って、初めて火になる。
三つ目には、触れようがなかった。
胸から腕へ刻まれたものは、そこにあるだけで、確かめる手立てがない。物心つく前からそうだったから、確かめようと思ったことも、なかった。
彼は手袋を嵌め直し、その上から印環を戻した。今度は、隙間はなかった。
返事が届いたのは、照会を回してから十日目だった。
監察官は封を切り、目だけを走らせた。それから、その紙を卓の上でナヴィルのほうへ滑らせた。
該当者なし。
その日、その一帯に、火の属性で登録された者はいない。任務も、移動も、届出もない。近隣の支部からの照会にも、名は挙がらない。
ナヴィルは、二度読んだ。
文字は、二度目も同じことを言っていた。
撃った者がいる。焦げは畑の向こうに残っている。撃った以上、その者には回路がある。回路は、政府の墨でしか刻めない。ならばその名は、名簿にある。
ないなら。
部屋の音が、少し遠くなった。
「上げる」
監察官の声だった。朝と同じ高さだった。驚いてもいないし、慌ててもいない。
「監察所では止まらん。クレイセルまで行く」
この人は、これを扱ったことがあるのだろうか。ナヴィルは、訊かなかった。
紙が畳まれ、封蝋が温められる。書記の手が動き出す。ここから先は、手続きが勝手に進んでいく。彼がそのために何かをする必要は、もう、なかった。
ナヴィルは、卓から離れた。
手が、無意識に胸のほうへ行きかけた。上着の布に触れる手前で、止まった。
触れたところで、何も分からない。布の上からでは、刻まれているかどうかを確かめる手立ては、ない。
――それは、誰の体でも、同じことだった。




