第13話 よく眠れた夜
ブロッドの駆除から、何日か過ぎた。また、いつもの回し方に戻っていた。
その日、依頼板のいちばん下のほうに、一枚あった。
配達だ。街道から枝道に入って、一日ほどの、小さな村。荷は、重くない。この前、駆除で行った村とは、別の村だ。同じ東でも、入る枝道が、違う。あっちの道は、もう覚えたけれど、こっちの村は、初めてだった。
紙を剥がして、受付へ持っていく。宛先を見て、男が、また、片方の眉を、上げた。
「……またその方角か。あんた、東が好きだねえ」
「近い村から、順に覚えようかと」
「まあ、いい。荷は、そこの棚だ。落とすなよ」
受注証を、リュックの口へ、深く挟む。荷紐を、肩へ掛けた。
門を出るのに、壁の銭は、いらない。入るときだけの銭だ。門番に受注証を見せて、僕は、街の外へ出た。
街道を、東へ。荷馬車とすれ違い、荷を背負った人と、すれ違う。この道は、駆除の村へ行ったときと、途中まで、同じだった。あのとき折れた枝道を、通り過ぎる。もう一つ、その先で、別の細い道が、分かれていた。
道標は、なかった。轍が、ひと組。草が、両側から、道の真ん中へ、寄っている。荷馬車の通う道ではない。人と、せいぜい荷駄の、通う道だ。
枝道に入ると、行き交う人が、ぐっと減った。畑が、まばらになっていく。手入れの行き届かない田が、目につくようになった。刈り取りの済んだあとに、枯れた草が、そのまま倒れている。人の手の、足りていない土地だ。空は高く、風だけが、乾いた音を立てて、田の上を渡っていった。
昼を、少し回ったころ。
道の先、畑の切れたあたりに、黒いものが見えた。
近づくにつれ、それが、崩れた建物だと分かった。柱が何本か、黒く焦げて、天を向いたまま、残っている。屋根は、落ちていた。壁板は、半分、炭になって、地面に散らばっていた。
倉だ。焼けた倉。
道からは、畑をひとつ、挟んだ向こうだった。人の姿は、ない。焼けてから、幾日か経っているらしく、焦げた匂いは、もう、風に薄れていた。
……焼けた、というのは、これか。
街の受付でも、村への道でも、聞いた話だった。畑火か、付け火か。言葉でだけ聞いていたものが、いま、畑の向こうに、黒い形になって、立っている。
畑火なら、畑で消える。倉まで焦がすのは、畑火にしては――
そこで、考えるのを、やめた。
畑をひとつ隔てた、焼け跡だ。近づいて、確かめて、それで、どうなるものでもない。焼けた理由が分かったところで、僕の荷が、届くわけでもなかった。
僕は、荷紐を、握り直した。
焼けた倉を、道の脇に残したまま、枝道の先へ、歩く。
一度だけ、振り返った。黒い柱が、昼の光の中に、静かに立っていた。それから、前を向いて、もう、振り返らなかった。
枝道は、そのあとも、しばらく続いた。畑の間に、ときおり、人の背丈ほどの石が、苔をつけて立っている。境の石か、古い道しるべの、なれの果てか。彫られていたはずの字は、もう、読めない。直す者の、いない石だった。
日が傾きはじめたころ、道の先に、低い屋根が、いくつか見えた。目当ての村だ。
畑に囲まれた、小さな村だった。村のなかほどに、教会の分所らしい、小さな建物がある。白い壁は、ところどころ剥げて、下の土が、覗いていた。その前に、井戸。あとは、寄り合うように建った農家が、幾軒か。荷を継ぐような賑わいは、どこにもない。セラさんの村と、そう変わらない――いや、それより、もう少し、静かだった。畑に出ている人の姿も、数えるほどしか、なかった。
村の入り口で、荷の宛先を尋ねると、井戸で水を汲んでいた女が、手を止めた。よそ者の僕を、上から下まで、一度、見る。その目の底に、用心が、薄く沈んでいた。焼けた話が、この村にも、届いているのかもしれない。それでも女は、黙って、奥の家のほうを、指してくれた。
荷を届けて、受注証に、届けたしるしをもらう。それで、今日の用は、済んだ。
あとは、一晩、身体を休める場所を、探すだけだった。
日が落ちると、村は、火の色を、ひとつずつ閉じていった。
納屋の隅を、ひと晩貸してもらえないか。村外れで薪を割っていた年寄りに訊くと、相手は僕を上から下まで見て、それから、村のいちばん端の一軒を、顎で示した。百レムを何枚か掌に載せると、藁は使っていい、火は使うな、と言った。どこの村でも、同じことを言われる。
その納屋の戸を引くと、乾いた藁と、土の匂いがした。
――先客が、いた。
奥の藁に、旅装の男が一人、壁に背を預けて座っていた。荷袋がひとつ、足元に転がっている。年は、僕の親ほどか、それより少し上か。髪は暗い色で、少し伸びていた。左の目に、色の褪せた布を当てている。
右の目と、目が合った。男は、口の端だけで、笑った。
「やあ。……先に、いい場所を取ってしまったね」
声は、柔らかかった。夜の納屋に、ちょうどいいくらいの。
「あ、すみません。……ご一緒しても、いいですか」
「どうぞ、どうぞ。藁は、二人ぶんある。……そっちの壁のほうが、隙間風が来なくていいよ。僕が来たときは、そっちにいたんだ」
譲るような言い方だった。押しつけるでもなく。僕は、礼を言って、示された壁際に荷を下ろした。
男は、僕が食べるのを、見るともなく見ていた。硬いパンの端と、干し肉。それだけだ。干し肉は、いつものように、バルゴの葉で包んである。削いだ肉を、ちぎった葉にのせて、くるりと巻いて、口に入れた。
「……ずいぶん、手慣れてるね」男が言った。「君も、葉ごと食べるのか」
「あ……はい。このほうが、肉が旨くなるので」
「そうだろう、そうだろう」男は、少しおかしそうに笑った。「僕も、若い頃はよくやったよ。苦いだけの葉だと、みんな残すんだけどね。……噛んでいるうちに、肉の甘みを引き出してくれる」
「そうなんです」
つい、声が大きくなった。この食べ方を知っている相手に会うのは、久しぶりだった。
「よかったら、これも」
男が、荷袋から、乾いた木の実を差し出した。塩の利いた、旅慣れた者の持ち物。
「いいんですか! ありがとうございます」
「一人で食べても、味気ないからね」
奥歯で割ると、脂の味のあとに、塩がきた。バルゴの葉と、よく合った。
男は、荷袋に背をあずけて、天井の闇のあたりを、見ていた。
少しして、僕のほうから、言った。
「……ここへ来る道で、焼けた倉を、見ました」
なぜ、口にしたのか、自分でも、分からない。あの黒い柱が、まだ、目の裏に、残っていた。
「倉が」
「畑を、挟んだ向こうに。もう、幾日か、経ってるみたいでしたけど」
男は、すぐには、何も言わなかった。残っていた木の実を一つ、指の間で、ゆっくり、転がしている。
「……こういう土地は」やがて、言った。「いつだって、後回しだ」
僕は、相槌の代わりに、小さく頷いた。
「君は、荷運びかい」
「はい。まだ、下働きの口ばかりですけど」
「立派なものだよ。この時期に、一人で東まで来るのは」男は、右の目だけで、こちらを見た。「……ずいぶん、急いでいるようだね」
どきりと、した。
急いでいる。そんなつもりは、なかった。ただ、稼ぎは宿代に消えて、袋の重さは、いつまでも変わらない。少しでも早く、次へ。――そう思っていることを、口に出した覚えは、ない。
「……分かりますか」
「荷の下ろし方でね」男は、悪びれずに言った。「腰を下ろしても、次に持ち上げやすいところへ置く。休むより先に、もう出る支度をしている人の置き方だ。……急ぐわけが、あるんだろう。訊きはしないよ」
訊きはしない、と言われて、逆に、少し、肩の力が抜けた。
「急いでるつもりは、なかったんですけど」僕は、少し笑った。「……見て回りたい所が、たくさんあって。まだ、そのどれにも、行けてないんです」
「ほう」
「稼ぎは宿代に消えるし、貯まるより先に、次の街まで、って。……気ばかり、急くのかもしれません」
言いながら、これくらいなら、いい、と思っていた。旅の若造が、あちこち見たがっている。それだけの話だ。
「どのあたりを、見たいんだい」
――そこで、少し、詰まった。
木の実の塩が、舌の端に残っている。
「……いろんな所です。まだ、決めてなくて」
僕は、そう言って、木の実をもうひとつ、口に入れた。男は、それ以上は訊かなかった。
「いいね」男は、天井のあたりを見たまま、言った。「見たいものが、たくさんあるうちは、いい」
僕は、なんとなく、頷いた。
火は、使わない。暗い納屋に、戸の隙間から、月の色が、細く入っていた。
男は、しばらくすると、寝息を立てはじめた。旅慣れた者の、静かな息だ。
僕も、壁を背に、横になった。
藁は、乾いていて、思ったより、あたたかかった。とりとめのないことを考えているうちに、瞼が、重くなった。
いつのまにか、眠っていた。
目が覚めると、戸の隙間が、灰色に、明るんでいた。
よく、眠っていた。
それに、自分で、驚いた。硬い藁の上で、旅先で、しかも、知らない土地の納屋で。こんなに、ぐっすり眠るなんて。いつもなら、藁の一本一本が、背中で気になるのに。
男は、もう起きて、荷袋の紐を、締め直していた。僕が身を起こすと、あの、口の端だけの笑みを、向けてきた。
「よく寝ていたね」
「……はい。自分でも、びっくりするくらい」
「僕もだよ」男は、荷袋を持ち上げた。「不思議だねえ。この歳になると、どこででも眠れそうなものなのに、案外そうでもなくてね。……君の隣は、なぜだか、よく眠れた」
どう返していいか、分からなかった。ただ、悪い気は、しなかった。
納屋を出ると、朝の霧が、畑の低いところに、溜まっていた。
男も、同じ頃に、村を出るらしかった。どちらからともなく、僕らは、村の細い道を、並んで歩いた。とりとめのない話をした。道の様子。夜のあいだの冷え。男は、よく笑い、よく聞いた。歩いているうちに、この人と話すのが、ずいぶん気楽なことに、気がついた。
村外れで、道が、二つに分かれていた。
辻の真ん中に、古い道標が立っている。腕木が、二本。彫った字は、浅い。一本の先に、僕の戻る道が、読めた。
男は、もう一本のほうへ、顔を向けていた。
「僕は、こっちだ」
「……そうですか」
なんとなく、名残惜しい、と思った。ただ一晩、藁を分けただけの相手なのに。
男は、二、三歩、そちらへ歩きかけて、ふと、振り返った。
「そういえば――名乗りも、しなかったね」
少し、笑った。口の端だけで。
「マテウス。……こう見えて、あまり、人には名乗らないんだけどね。君とは、なんだか、話しやすかったから」
僕は、少し、面映ゆかった。特別だと、言われたようで。
「ノアです」
「ノア、か。……いい名だ」
それだけだった。男は、片手を軽く上げた。背を向けかけた拍子に、左の目に当てた布が、朝の光に、一度、白く見えた。それから、霧の残る道を、僕とは反対のほうへ歩いていった。
僕は、しばらく、その背中を、見ていた。
それから、自分の道へ、向き直った。戻る道だ。この先に、街がある。
――藁の上で、あんなに眠れたのは、いつぶりだろう。
歩きながら、ふと、思った。やっぱり、答えは、分からなかった。




