第12話 風を見てから
――ノア
アルテンの朝は、ハルヴェンより、少しだけ乾いている。
街に戻って、五日が過ぎていた。村から二日、歩いて、この壁の中へ帰ってきて――それから、また、同じ回し方に戻った。朝、ギルドで口を一つ受けて、昼のうちに片づけて、宿へ帰る。
宿は、最初に泊まった、あの安宿のままだ。素泊まりで、八千レム。……のはずが、この頃は、少し安い。何日か続けて泊まるうちに、帳場の女と、話がついた。朝のうちに、裏の薪を割り、水を汲んでおく。その代わりに、宿代を、いくらか引いてもらう。それでも、鍵の掛かる、あの狭い個室だけは、変えなかった。服に縫い込んだ金を抱えて眠るには、雑魚寝より、戸の閉まるほうが、いい。
それでも、稼ぎは、宿代と、日々の飯とで、ほとんど残らない。革袋の重さは、この五日、ほとんど変わっていなかった。
依頼板の前に立つ。荷運び、近場の採取、溝さらい。見慣れた紙が、見慣れた場所に貼ってある。
受付のほうから、男たちの話し声が流れてくる。
「――また、東で焼けたらしいぜ」
「畑火だろ。乾いてる時期だ」
「畑火が、蔵まで行くかよ」
「じゃあ何だ。付け火か」
「さあな。見た奴が、誰もいねえ」
焼けた、という話は、村へ行く道でも、村の井戸端でも、聞いた。それが、街の中まで、上がってきているらしい。僕は、板に目を戻した。どこかの村が焼けたことと、僕の今日の宿代とは、関わりがない。
その、いちばん下のほうに、一枚あった。
枝道の村、畑の害虫の駆除。――見た瞬間に、あの村か、と思った。この前、水路のそばでクルサを摘んだ、あの村だ。
害虫の駆除なら、討伐というほどのものでもない。報酬も、派手ではないだろう。それでも、往復すれば、その間の宿代は浮くし、日当のいくらかは、手のひらに残る。それに――あの村なら、道は、もう覚えている。
その紙を、剥がして、受付へ持っていった。手が、思ったより、早かった気もする。
受付の男が、紙を見て、片方の眉を上げた。森から戻ったときと、同じ顔だ。
「その村か。物好きだな、あんたも」
「道は、知ってるので」
「まあ、いい。ブロッドだろう。畑の際に湧く、質の悪い蜂だ。刺されると腫れる。……気をつけな」
ブロッド。口の中で、その名前を、ひとつ、転がしてみる。受注証を、リュックの口に、深く挟んだ。
街道を東へ、半日。昼を回った頃に細い枝道へ折れて、日の落ちる前に、枝道沿いの窪地で火を焚いて、一晩を明かした。乾いた枝を選び、風を背にして寝る。一人の夜は、もう、慣れた。
翌日も、枝道を行く。両側から草がせり出して、道の真ん中で触れ合っているのは、前に来たときと、同じだった。ただ、あのときより、草の丈が、伸びている。木立が切れて、畑と、細い水路と、薄い煙を上げる低い家並みが見えたとき、少しだけ、足が軽くなった。
村へ入ると、畑の男が、鍬の手を止めて、こちらを見た。前に、届け先を教えてくれた男だ。
「……ああ、あんたか。今度は、何の用だい」
「ギルドから。虫の駆除で」
「ブロッドか」男は、少し、ほっとした顔になった。「なら、村長のとこへ行きな。あの人が、街へ話を出したんだ」
村長の家は、村のいちばん奥の、少し大きな一軒だった。出てきたのは、白いものの混じった髪の、年老いた男だ。僕が受注証を見せると、皺の間の目が、少しだけ和んだ。
「よく来てくれた。……正直、来ないかと思っていた。巣ひとつのために、街から来る者はおらんでな」
村長は、村の外れの、木立のほうへ、顎をしゃくった。
「あの際に、巣がある。ひと夏かけて育った、大きな巣だ。近ごろ、急に気が立ってな。もう、二人が刺された。畑にも、水汲みにも、あの一角へは、誰も近づけん」
この前、クルサを摘みに来たときは、まだ、こんな話は、なかった。
「焼くのは」
「やってみたさ。若いのが、火のついた枝を放ろうとした。……だが、あの木立だ。下手に火をかければ、村ごと燃える。それに、火を向けたとたん、あいつら、いっそう湧いた。囲まれかけて、命からがら逃げ帰ってきた。それきり、手が出せずにいる」
「その二人は」
「セラさんが診た。うちの、薬師だ」村長は、突き当たりの家を指した。「あの人が、あの蜂には、詳しい。刺された傷のことも、聞いていきな」
突き当たりの、薬草を干した家。軒下の、乾いた青い匂いも、前と同じだった。戸は、開いている。
「……また、あんたかい」
薬研の前から、セラさんが顔を上げた。呆れたような、けれど、追い払う気配のない声。この人の話し方は、もう、分かってきた。
「村長さんに。あの蜂の話を、聞けと」
「物好きだね。あんたが受けたのかい」
僕は、少しだけ笑った。薬研の音が、また始まった。
「子は、どうですか。傷」
「とっくに塞がったよ。あんたが屋根の鳥を指さした話、まだ、してる」
言いながら、セラさんは、湯を椀に汲んで、一つ、こちらへ押し出した。椀の縁から、湯気が一本立った。
「刺された二人は、あたしが診た。一人は、腕が、これくらい腫れてね」セラさんは、自分の腕を、手で大きく囲ってみせた。「毒より、数だよ。一匹叩いた者に、あとから残らず寄ってくる。……匂いでも付くんだろうね。手を出した者ほど、たかられる」
僕は、黙って、聞いていた。
「村長から、聞いただろう。焼けば、村まで行く。かといって、あの数だ。うちの者じゃ、どうにもならん」セラさんは、僕の顔を、じっと見た。「あんた、どうするつもりだい」
僕は、椀の湯を、ひとくち飲んだ。
「……風を、見てからにします」
セラさんは、何か言いかけて、やめた。かわりに、ふん、と、鼻を鳴らした。
木立の際は、村の外れの、日の傾く側にあった。
少し離れて、様子をうかがう。太い木の根方、その洞の暗がりを、黒いものが、ひっきりなしに出入りしている。一匹が、僕の顔の脇を、す、と横切った。人の親指ほどもある腹の先で、針が鈍く光る。目が――複眼が、光を返さない。濁った、黒。
――魔物だ。ただの蜂じゃない。
僕は、半歩だけ、下がった。
叩けば、匂いをつけられる。火を向ければ、巣じゅうが湧く。
足元の草が、木立のほうへ靡いていた。指を濡らして、立てる。水路から洞へ、弱い風が流れている。
水路のそばの、湿った土を浅く掘り、乾いた枝へ火を移した。初めから、大きくはしない。湿った草を、ひと掴みだけ、かぶせる。
細い煙が、風に押されて、洞へ伸びた。
煙の端に触れた一匹が、急に、飛ぶ筋を乱した。木肌へぶつかり、脚を広げて張りつく。続いて出てきた一匹も、まっすぐこちらへは来ず、煙の外へ逸れた。
それを見てから、湿った草を、もう一束、火へ重ねた。
白い煙が太くなり、洞の口を覆っていく。羽音は、まだ大きい。けれど、ひと固まりだった音が、少しずつ、木立のあちこちへ、散っていった。
濡らした布で口と鼻を覆い、低い姿勢で、洞へ寄る。袖口をすり抜けた一匹が、手首を刺した。熱い痛みが、走る。それでも、さっきまでのように、後から群れが押し寄せては、こなかった。
根方の巣へ布を添え、小刀で付け根を切る。灰色の塊が、布の上へ、重く落ちた。
すぐには火へ放らず、小刀の先で、表面を一層だけ開く。裂け目から、琥珀色の雫が、ゆっくり垂れた。
――蜜だ。
蜜の溜まった部分だけを、崩さないよう切り分け、乾いた布へ包んだ。残りは、土だけの場所へ運び、火で始末する。木からも、畑からも、離して。
木立の際が、静かになった。羽音は、もう、しない。
村へ戻ると、日は、傾いていた。村長が、家の前に出ていた。木立のほうと、僕の煤けた手を、順に見て――それから、僕が提げている、布の包みに、目を留めた。
「……終わったのかい」
「はい。巣は、落としました。しばらくは、湧かないかと」
村長が、深く、息を吐いた。長いあいだ村の肩に乗っていたものが、少しだけ、下りたような息だった。それから、僕の手元を、もう一度見た。
「それは……蜜か」
「巣の奥に、溜まってました。焼かずに、済んだので」
村長が、少し、笑った。焼くしか思いつかなかった、と、その顔に書いてあった。
「持っていきな。あんたが採ったんだ。……そいつも、村の礼のうちだ」
断るのも、違う気がした。頑丈な巣が一つ片づいて、手のひらには、思いがけない甘いものまで残った。悪くない一日だ。少しだけ、ついている。
セラさんのところへ、蜜を少し、分けに寄った。
「刺されたお人らに。それと、子に」
セラさんは、包みを受け取って、しばらく、それを見ていた。
「……あんた、ほんとに、変な子だね」
「よく言われます」
「褒めてないよ」
そう言いながら、口の端が、ほんの少し、上がっていた。それから、奥から、塗り薬の包みを持ってきて、僕の手に押しつけた。
「刺されただろう。持っていきな。……これで、貸し借りなしだ」
村を出るのは、明日の朝にした。今夜も、あの納屋を、貸してもらえることになった。藁は、ある。
また二日、独りで街道を歩いて、アルテンへ戻った。
ギルドの受付で、受注証を出す。男は、帳面を確かめて、硬貨を数え、僕の手のひらに載せた。派手な数ではない。それでも、荷運びや溝さらいの、あの小銭の軽さとは、違った。
男が、帳面に、何かを書きつけるのが見えた。日付と、口の名と、僕の名。虫の駆除、一件。――たぶん、それだけの、短い一行だ。
けれど、それは、紙の上に、残った。荷運びでも、採取でもない。そういう一行が、僕の名の下に並ぶのは、初めてだった。
外へ出ると、日は、まだ高かった。
革袋の、いつもの場所に、今日の千レムを落とす。持ち上げて、揺すってみる。目標の八万レムには、まだ、ずいぶん遠い。減ってはいない。けれど、大きく増えても、いない。
それでも、と思う。今日、運んだのは、荷でも、薬草でもなかった。それに、少しだけ、甘いおまけもついた。悪くない。
明日は、また、板の前に立つ。近場の採取か、荷運びか。いつも通りの、一日だ。
街の音は、夕暮れの中で、まだ、鳴りやまなかった。




