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僕の世界  作者: 0u0
第二章
40/63

第12話 風を見てから

――ノア


 アルテンの朝は、ハルヴェンより、少しだけ乾いている。


 街に戻って、五日が過ぎていた。村から二日、歩いて、この壁の中へ帰ってきて――それから、また、同じ回し方に戻った。朝、ギルドで口を一つ受けて、昼のうちに片づけて、宿へ帰る。


 宿は、最初に泊まった、あの安宿のままだ。素泊まりで、八千レム。……のはずが、この頃は、少し安い。何日か続けて泊まるうちに、帳場《ちょうば》の女と、話がついた。朝のうちに、裏の薪《まき》を割り、水を汲《く》んでおく。その代わりに、宿代を、いくらか引いてもらう。それでも、鍵の掛かる、あの狭い個室だけは、変えなかった。服に縫《ぬ》い込んだ金を抱えて眠るには、雑魚寝より、戸の閉まるほうが、いい。


 それでも、稼ぎは、宿代と、日々の飯とで、ほとんど残らない。革袋の重さは、この五日、ほとんど変わっていなかった。


 依頼板《いらいばん》の前に立つ。荷運び、近場の採取、溝《どぶ》さらい。見慣れた紙が、見慣れた場所に貼ってある。


 受付のほうから、男たちの話し声が流れてくる。


「――また、東で焼けたらしいぜ」

「畑火だろ。乾いてる時期だ」

「畑火が、蔵まで行くかよ」

「じゃあ何だ。付け火か」

「さあな。見た奴が、誰もいねえ」


 焼けた、という話は、村へ行く道でも、村の井戸端でも、聞いた。それが、街の中まで、上がってきているらしい。僕は、板に目を戻した。どこかの村が焼けたことと、僕の今日の宿代とは、関わりがない。


 その、いちばん下のほうに、一枚あった。


 枝道《えだみち》の村、畑の害虫の駆除。――見た瞬間に、あの村か、と思った。この前、水路のそばでクルサ(止血草)を摘《つま》んだ、あの村だ。


 害虫の駆除なら、討伐というほどのものでもない。報酬も、派手ではないだろう。それでも、往復すれば、その間の宿代は浮くし、日当のいくらかは、手のひらに残る。それに――あの村なら、道は、もう覚えている。


 その紙を、剥《は》がして、受付へ持っていった。手が、思ったより、早かった気もする。


 受付の男が、紙を見て、片方の眉《まゆ》を上げた。森から戻ったときと、同じ顔だ。


「その村か。物好きだな、あんたも」

「道は、知ってるので」

「まあ、いい。ブロッドだろう。畑の際に湧《わ》く、質《たち》の悪い蜂だ。刺されると腫れる。……気をつけな」


 ブロッド。口の中で、その名前を、ひとつ、転がしてみる。受注証《じゅちゅうしょう》を、リュックの口に、深く挟んだ。


 街道を東へ、半日。昼を回った頃に細い枝道へ折れて、日の落ちる前に、枝道沿いの窪《くぼ》地で火を焚《た》いて、一晩を明かした。乾いた枝を選び、風を背にして寝る。一人の夜は、もう、慣れた。


 翌日も、枝道を行く。両側から草がせり出して、道の真ん中で触れ合っているのは、前に来たときと、同じだった。ただ、あのときより、草の丈が、伸びている。木立《こだち》が切れて、畑と、細い水路と、薄い煙を上げる低い家並みが見えたとき、少しだけ、足が軽くなった。


 村へ入ると、畑の男が、鍬《くわ》の手を止めて、こちらを見た。前に、届け先を教えてくれた男だ。


「……ああ、あんたか。今度は、何の用だい」

「ギルドから。虫の駆除で」

「ブロッドか」男は、少し、ほっとした顔になった。「なら、村長《そんちょう》のとこへ行きな。あの人が、街へ話を出したんだ」


 村長の家は、村のいちばん奥の、少し大きな一軒だった。出てきたのは、白いものの混じった髪の、年老いた男だ。僕が受注証を見せると、皺《しわ》の間の目が、少しだけ和んだ。


「よく来てくれた。……正直、来ないかと思っていた。巣ひとつのために、街から来る者はおらんでな」


 村長は、村の外れの、木立のほうへ、顎《あご》をしゃくった。


「あの際に、巣がある。ひと夏かけて育った、大きな巣だ。近ごろ、急に気が立ってな。もう、二人が刺された。畑にも、水汲みにも、あの一角へは、誰も近づけん」


 この前、クルサを摘みに来たときは、まだ、こんな話は、なかった。


「焼くのは」


「やってみたさ。若いのが、火のついた枝を放ろうとした。……だが、あの木立だ。下手に火をかければ、村ごと燃える。それに、火を向けたとたん、あいつら、いっそう湧いた。囲まれかけて、命からがら逃げ帰ってきた。それきり、手が出せずにいる」


「その二人は」


「セラさんが診た。うちの、薬師だ」村長は、突き当たりの家を指した。「あの人が、あの蜂には、詳しい。刺された傷のことも、聞いていきな」


 突き当たりの、薬草を干した家。軒下の、乾いた青い匂《にお》いも、前と同じだった。戸は、開いている。


「……また、あんたかい」


 薬研《やげん》の前から、セラさんが顔を上げた。呆《あき》れたような、けれど、追い払う気配のない声。この人の話し方は、もう、分かってきた。


「村長さんに。あの蜂の話を、聞けと」

「物好きだね。あんたが受けたのかい」


 僕は、少しだけ笑った。薬研の音が、また始まった。


「子は、どうですか。傷」

「とっくに塞《ふさ》がったよ。あんたが屋根の鳥を指さした話、まだ、してる」


 言いながら、セラさんは、湯を椀《わん》に汲《く》んで、一つ、こちらへ押し出した。椀の縁《ふち》から、湯気が一本立った。


「刺された二人は、あたしが診た。一人は、腕が、これくらい腫れてね」セラさんは、自分の腕を、手で大きく囲ってみせた。「毒より、数だよ。一匹叩(たた)いた者に、あとから残らず寄ってくる。……匂いでも付くんだろうね。手を出した者ほど、たかられる」


 僕は、黙って、聞いていた。


「村長から、聞いただろう。焼けば、村まで行く。かといって、あの数だ。うちの者じゃ、どうにもならん」セラさんは、僕の顔を、じっと見た。「あんた、どうするつもりだい」


 僕は、椀の湯を、ひとくち飲んだ。


「……風を、見てからにします」


 セラさんは、何か言いかけて、やめた。かわりに、ふん、と、鼻を鳴らした。


 木立の際は、村の外れの、日の傾く側にあった。


 少し離れて、様子をうかがう。太い木の根方、その洞《うろ》の暗がりを、黒いものが、ひっきりなしに出入りしている。一匹が、僕の顔の脇を、す、と横切った。人の親指ほどもある腹の先で、針が鈍く光る。目が――複眼《ふくがん》が、光を返さない。濁《にご》った、黒。


 ――魔物《まもの》だ。ただの蜂じゃない。


 僕は、半歩だけ、下がった。


 叩けば、匂いをつけられる。火を向ければ、巣じゅうが湧く。


 足元の草が、木立のほうへ靡《なび》いていた。指を濡《ぬ》らして、立てる。水路から洞へ、弱い風が流れている。


 水路のそばの、湿った土を浅く掘り、乾いた枝へ火を移した。初めから、大きくはしない。湿った草を、ひと掴《つか》みだけ、かぶせる。


 細い煙が、風に押されて、洞へ伸びた。


 煙の端に触れた一匹が、急に、飛ぶ筋を乱した。木肌へぶつかり、脚を広げて張りつく。続いて出てきた一匹も、まっすぐこちらへは来ず、煙の外へ逸《そ》れた。


 それを見てから、湿った草を、もう一束、火へ重ねた。


 白い煙が太くなり、洞の口を覆っていく。羽音は、まだ大きい。けれど、ひと固まりだった音が、少しずつ、木立のあちこちへ、散っていった。


 濡らした布で口と鼻を覆い、低い姿勢で、洞へ寄る。袖口をすり抜けた一匹が、手首を刺した。熱い痛みが、走る。それでも、さっきまでのように、後から群れが押し寄せては、こなかった。


 根方の巣へ布を添《そ》え、小刀《こがたな》で付け根を切る。灰色の塊《かたまり》が、布の上へ、重く落ちた。


 すぐには火へ放らず、小刀の先で、表面を一層だけ開く。裂け目から、琥珀《こはく》色の雫《しずく》が、ゆっくり垂れた。


 ――蜜だ。


 蜜《みつ》の溜《た》まった部分だけを、崩さないよう切り分け、乾いた布へ包んだ。残りは、土だけの場所へ運び、火で始末する。木からも、畑からも、離して。


 木立の際が、静かになった。羽音は、もう、しない。


 村へ戻ると、日は、傾いていた。村長が、家の前に出ていた。木立のほうと、僕の煤《すす》けた手を、順に見て――それから、僕が提げている、布の包みに、目を留めた。


「……終わったのかい」

「はい。巣は、落としました。しばらくは、湧かないかと」


 村長が、深く、息を吐いた。長いあいだ村の肩に乗っていたものが、少しだけ、下りたような息だった。それから、僕の手元を、もう一度見た。


「それは……蜜か」

「巣の奥に、溜まってました。焼かずに、済んだので」


 村長が、少し、笑った。焼くしか思いつかなかった、と、その顔に書いてあった。


「持っていきな。あんたが採ったんだ。……そいつも、村の礼のうちだ」


 断るのも、違う気がした。頑丈な巣が一つ片づいて、手のひらには、思いがけない甘いものまで残った。悪くない一日だ。少しだけ、ついている。


 セラさんのところへ、蜜を少し、分けに寄った。


「刺されたお人らに。それと、子に」


 セラさんは、包みを受け取って、しばらく、それを見ていた。


「……あんた、ほんとに、変な子だね」

「よく言われます」

「褒めてないよ」


 そう言いながら、口の端が、ほんの少し、上がっていた。それから、奥から、塗り薬の包みを持ってきて、僕の手に押しつけた。


「刺されただろう。持っていきな。……これで、貸し借りなしだ」


 村を出るのは、明日《あした》の朝にした。今夜も、あの納屋《なや》を、貸してもらえることになった。藁《わら》は、ある。


 また二日、独りで街道を歩いて、アルテンへ戻った。


 ギルドの受付で、受注証を出す。男は、帳面《ちょうめん》を確かめて、硬貨を数え、僕の手のひらに載せた。派手な数ではない。それでも、荷運びや溝《どぶ》さらいの、あの小銭の軽さとは、違った。


 男が、帳面に、何かを書きつけるのが見えた。日付と、口の名と、僕の名。虫の駆除、一件。――たぶん、それだけの、短い一行だ。


 けれど、それは、紙の上に、残った。荷運びでも、採取でもない。そういう一行が、僕の名の下に並ぶのは、初めてだった。


 外へ出ると、日は、まだ高かった。


 革袋の、いつもの場所に、今日の千レムを落とす。持ち上げて、揺すってみる。目標の八万レムには、まだ、ずいぶん遠い。減ってはいない。けれど、大きく増えても、いない。


 それでも、と思う。今日、運んだのは、荷でも、薬草でもなかった。それに、少しだけ、甘いおまけもついた。悪くない。


 明日は、また、板の前に立つ。近場の採取か、荷運びか。いつも通りの、一日だ。


 街の音は、夕暮れの中で、まだ、鳴りやまなかった。

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