第11話 虫食いの木の実
――???
夜明け前の冷えが、魔物領の外縁に薄く張っていた。
数日かけて街道を離れ、人の住む土地の縁のさらに先、丘がいくつも折り重なる痩せた土地まで来ていた。ここから先は、地図に線が引かれていない。魔物領だ。ナヴィルの隊は、その縁に沿って敷かれ、夜明けを待っていた。季節ごとの、定期の間引き。魔物領の内で増えすぎた分が縁からあふれ、人の側へ滲み出す前に、線の手前で断つ。
霧の底が、動いた。
白目まで黒く濁った目が、いくつも、闇より濃い塊になって湧いてくる。犬ほどの背丈に、不釣り合いに膨れた前肢。魔力を吸って歪に育った体は、獣の理を半分だけ残して、残り半分をどこかへ落としている。餌でも縄張りでもない。ただ内から押し出されるように、斜面を這い上がってくる。濡れた土と、饐えた獣の匂いが、風より先に届いた。
ナヴィルは、片膝をついたまま、息を一つ落とした。
体の奥――胸から腕へ刻まれた回路が、魔力を通すと、脈を打つように目を覚ます。物心つく前に刻まれ、以来ずっとそこにある。彼はその筋道へ、静かに魔力を流し込んだ。回路が応え、指の印環――家に代々伝わる媒体が、ひとりでに息を吹き返す。青白い炎を宿した結晶を、大ぶりの黒鉄が抱いている。彫りの浅くなった家紋を、銀の象嵌が細く縁取る。革手袋の上から嵌めても、指に隙間はない。
灯った炎が、指から掌へ下りて、集まる。炎はただ燃やすものではない。器を通し、詠唱で形を与えて、初めて力になる。父の言葉が、いつも通り、この一拍に重なった。
詠唱が、喉の奥で像を結んでいく。言葉が炎の輪郭を決め、出力を絞り、狙いを一点へ束ねる。
――放つ。
青白い帯が、斜面を斜めに裂いた。先頭で駆け上がりかけた一体の、太い首を過たず灼く。歪んだ体が熱に耐えきれず、内側から爆ぜるように崩れ、露に濡れた土へ沈んだ。焦げた匂いが、饐えた獣の匂いを一瞬、塗り替える。
彼にとって、それは特別なことではなかった。回路に通し、器に流し、言葉で結ぶ。息をするのと、そう変わらない。
「左、数が濃い。三の位置、下げろ」
隊長の声が、感情を混ぜず、位置と密度だけを渡してくる。隊は、その一声で射線を組み替えた。攻撃魔法は、走りながらでは唱えられない。詠唱の一拍を守るには、距離が要る。撃つ者、次に構える者、退いて間合いを作る者――順を違えず、誰も乱れない。距離を保ち、律することが、そのまま守りになる。ナヴィルは息を継ぎ、次の炎を組み上げた。
湧きは、絶えなかった。
一体落とすごとに、二体が霧を割る。斜面は焦げ痕と屍で足場を失い、後衛の詠唱が、湧きの速さに追われ始めた。ナヴィルは詠唱の尺を詰めた。出力を落とし、手数を上げる。器の炎が、続けざまの負荷に、掌の中でわずかに熱を上げる。正確さだけは、落とさない。狙って、束ねて、放つ。狙って、束ねて、放つ。額に汗が滲むより、動きの方が速かった。
――右が、抜けた。
味方の射線が届きにくい斜面の襞を、一体が低く、速く、回り込んでいた。すでに間合いの内だ。攻撃魔法の速さは、距離を詰められた瞬間に裏返る。この距離では、詠唱が像を結ぶより、牙の方が早い。ナヴィルの喉は、もう次の言葉を組み始めていた。だが、間に合わない――そう体が判じた時には、隣の魔導官が自分の詠唱を途中で捨て、組み直しの利く短い一撃に切り替えていた。青白くない、別の色の炎が、掠めるように獣を横倒しにする。
一拍、遅れて、ナヴィルの詠唱が像を結んだ。結んでしまった。放つ相手は、もう転がっている。
彼は、その炎を静かに解いた。顔には、出さなかった。ただ、行き場をなくした熱が、掌の中で一度だけ、脈のように揺れた。
やがて、湧きが絶えた。斜面を白く覆っていた霧が、朝の光の中でほどけ、数えきれない屍と焦げ痕を露わにしていく。損害なし。予定通り。隊長が撤収を告げ、ナヴィルは膝を上げ、回路を流れる魔力を、静かに絞って鎮めた。器の青白い炎が、眠るように色を薄める。
予定通りだった。なのに、右の襞の一拍が、まだ胸の底に残っていた。あの一拍が、もう半分だけ短ければ、隣の者が自分の詠唱を捨てる必要はなかった。
帰路は、外縁からいくつもの丘を越える。魔物領の匂いが背から遠ざかり、やがて、土の匂いが人のものに変わっていく。日が傾く頃、街道の脇に、守りの内側の小さな集落が見えてきた。畑と、低い垣根と、煙を上げる竈がいくつか。辺境の、名もない村だった。
隊が近づくと、畑の縁に人が出てきた。鍬を握ったままの男。子を抱いた女。老人が、道の端で腰を折り、深く頭を下げる。魔導官の隊列が、この辺境を通ることは滅多にない。悪いものが来ても、あの人たちが片づけてくれる――見上げる目の底には、そういう安心が、当たり前のように沈んでいた。彼らは、外縁で何が起きたかを知らない。知らなくていいように、隊はある。
垣根の切れ目から、子どもが一人、駆け出してきた。五つか、六つか。隊の足並みも構わず、ナヴィルの馬の脇まで来て、見上げてくる。
「まほうつかいさま」
息を切らして、その子は、握りしめていた手を開いた。掌の上に、乾いた木の実がひとつ、転がっている。道端で拾ったのだろう、片側が虫に食われた、なんの価値もない実だった。
「これ、あげる」
ナヴィルは、馬を止めた。隊列が、彼の脇をゆっくりと流れていく。彼は身を屈め、その実を、両手で受け取った。片手ではなく、両手で。相手が差し出したものの重さに、そうするのが、自然だった。
「――ありがとう」
子の顔が、ぱっと明るくなる。それだけで、来たことのすべてが報われたという顔だった。「まほうつかいさまは、わるいのを、ぜんぶやっつけられる?」と、その子は続けた。まっすぐで、疑いのない目だった。全部やっつけられる。そう信じて、少しも揺らがない目。
ナヴィルは、すぐには答えられなかった。
朝の、右の襞の一拍が、その目の中でよみがえった。全部では、なかった。あの一体は、抜けた。埋めたのは、隣の者の炎だ。もし、埋める者が隣にいなかったら。この村のような場所が、線のもっと外にあって、そこに届く手が、足りなかったら。
疑いのない目に、いつか、半拍の遅れもなく応えられるように。彼は木の実を懐へ丁寧にしまい、子の頭に、そっと手を置いた。「――ああ」とだけ、答えた。嘘には、したくなかった。だから、いつかは、という顔で。
隣に、隊長が馬を寄せてきた。子は、手を振りながら、垣根の方へ駆け戻っていく。
「よくやった。今日は危なげなかった」
ナヴィルは頭を下げ、「はい」と答えた。
集落が、後ろへ流れていく。垣根の上で、小さな手がまだ振られていた。懐で、木の実が、かさりと鳴った。
――もっと、強くなければ。
*
幕間 守れる分だけ
守れる分だけ守って、それで守ったことになる。
――ある監察官




