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僕の世界  作者: 0u0
第二章
39/63

第11話 虫食いの木の実

――???


 夜明け前の冷えが、魔物領《まものりょう》の外縁《がいえん》に薄く張っていた。


 数日かけて街道を離れ、人の住む土地の縁《ふち》のさらに先、丘がいくつも折り重なる痩《や》せた土地まで来ていた。ここから先は、地図に線が引かれていない。魔物領だ。ナヴィルの隊は、その縁に沿って敷かれ、夜明けを待っていた。季節ごとの、定期の間引《まび》き。魔物領の内で増えすぎた分が縁からあふれ、人の側へ滲《にじ》み出す前に、線の手前で断つ。


 霧の底が、動いた。


 白目まで黒く濁《にご》った目が、いくつも、闇より濃い塊《かたまり》になって湧《わ》いてくる。犬ほどの背丈《せたけ》に、不釣り合いに膨れた前肢。魔力を吸って歪《いびつ》に育った体は、獣の理《ことわり》を半分だけ残して、残り半分をどこかへ落としている。餌でも縄《なわ》張りでもない。ただ内から押し出されるように、斜面を這《は》い上がってくる。濡《ぬ》れた土と、饐《す》えた獣の匂《にお》いが、風より先に届いた。


 ナヴィルは、片膝(ひざ)をついたまま、息を一つ落とした。


 体の奥――胸から腕へ刻まれた回路が、魔力を通すと、脈を打つように目を覚ます。物心つく前に刻まれ、以来ずっとそこにある。彼はその筋道へ、静かに魔力を流し込んだ。回路が応え、指の印環《いんかん》――家に代々伝わる媒体《ばいたい》が、ひとりでに息を吹き返す。青白い炎を宿した結晶を、大ぶりの黒鉄が抱いている。彫《ほ》りの浅くなった家紋を、銀の象嵌《ぞうがん》が細く縁取る。革手袋の上から嵌《は》めても、指に隙間《すきま》はない。


 灯《とも》った炎が、指から掌《てのひら》へ下りて、集まる。炎はただ燃やすものではない。器を通し、詠唱《えいしょう》で形を与えて、初めて力になる。父の言葉が、いつも通り、この一拍に重なった。


 詠唱が、喉《のど》の奥で像を結んでいく。言葉が炎の輪郭を決め、出力を絞り、狙いを一点へ束ねる。


 ――放つ。


 青白い帯《おび》が、斜面を斜めに裂いた。先頭で駆け上がりかけた一体の、太い首を過《あやま》たず灼《や》く。歪んだ体が熱に耐えきれず、内側から爆《は》ぜるように崩れ、露に濡れた土へ沈んだ。焦《こ》げた匂いが、饐えた獣の匂いを一瞬、塗り替える。


 彼にとって、それは特別なことではなかった。回路に通し、器に流し、言葉で結ぶ。息をするのと、そう変わらない。


「左、数が濃い。三の位置、下げろ」


 隊長《たいちょう》の声が、感情を混ぜず、位置と密度だけを渡してくる。隊は、その一声で射線を組み替えた。攻撃魔法は、走りながらでは唱えられない。詠唱の一拍を守るには、距離が要る。撃つ者、次に構える者、退《ひ》いて間合いを作る者――順を違えず、誰も乱れない。距離を保ち、律することが、そのまま守りになる。ナヴィルは息を継ぎ、次の炎を組み上げた。


 湧きは、絶えなかった。


 一体落とすごとに、二体が霧を割る。斜面は焦げ痕《あと》と屍《しかばね》で足場を失い、後衛の詠唱が、湧きの速さに追われ始めた。ナヴィルは詠唱の尺《しゃく》を詰めた。出力を落とし、手数を上げる。器の炎が、続けざまの負荷に、掌の中でわずかに熱を上げる。正確さだけは、落とさない。狙って、束ねて、放つ。狙って、束ねて、放つ。額に汗が滲むより、動きの方が速かった。


 ――右が、抜けた。


 味方の射線が届きにくい斜面の襞《ひだ》を、一体が低く、速く、回り込んでいた。すでに間合いの内だ。攻撃魔法の速さは、距離を詰められた瞬間に裏返る。この距離では、詠唱が像を結ぶより、牙の方が早い。ナヴィルの喉は、もう次の言葉を組み始めていた。だが、間に合わない――そう体が判じた時には、隣の魔導官が自分の詠唱を途中で捨て、組み直しの利く短い一撃に切り替えていた。青白くない、別の色の炎が、掠《かす》めるように獣を横倒しにする。


 一拍、遅れて、ナヴィルの詠唱が像を結んだ。結んでしまった。放つ相手は、もう転がっている。


 彼は、その炎を静かに解いた。顔には、出さなかった。ただ、行き場をなくした熱が、掌の中で一度だけ、脈のように揺れた。


 やがて、湧きが絶えた。斜面を白く覆っていた霧が、朝の光の中でほどけ、数えきれない屍と焦げ痕を露わにしていく。損害なし。予定通り。隊長が撤収を告げ、ナヴィルは膝を上げ、回路を流れる魔力を、静かに絞って鎮《しず》めた。器の青白い炎が、眠るように色を薄める。


 予定通りだった。なのに、右の襞の一拍が、まだ胸の底に残っていた。あの一拍が、もう半分だけ短ければ、隣の者が自分の詠唱を捨てる必要はなかった。


 帰路は、外縁からいくつもの丘を越える。魔物領の匂いが背から遠ざかり、やがて、土の匂いが人のものに変わっていく。日が傾《かたむ》く頃、街道の脇《わき》に、守りの内側の小さな集落が見えてきた。畑と、低い垣根《かきね》と、煙を上げる竈《かまど》がいくつか。辺境の、名もない村だった。


 隊が近づくと、畑の縁に人が出てきた。鍬《くわ》を握ったままの男。子を抱いた女。老人が、道の端で腰を折り、深く頭を下げる。魔導官《まどうかん》の隊列が、この辺境を通ることは滅多にない。悪いものが来ても、あの人たちが片づけてくれる――見上げる目の底には、そういう安心が、当たり前のように沈んでいた。彼らは、外縁で何が起きたかを知らない。知らなくていいように、隊はある。


 垣根の切れ目から、子どもが一人、駆け出してきた。五つか、六つか。隊の足並みも構わず、ナヴィルの馬の脇まで来て、見上げてくる。


「まほうつかいさま」


 息を切らして、その子は、握りしめていた手を開いた。掌の上に、乾いた木の実がひとつ、転がっている。道端で拾ったのだろう、片側が虫に食われた、なんの価値もない実だった。


「これ、あげる」


 ナヴィルは、馬を止めた。隊列が、彼の脇をゆっくりと流れていく。彼は身を屈《かが》め、その実を、両手で受け取った。片手ではなく、両手で。相手が差し出したものの重さに、そうするのが、自然だった。


「――ありがとう」


 子の顔が、ぱっと明るくなる。それだけで、来たことのすべてが報われたという顔だった。「まほうつかいさまは、わるいのを、ぜんぶやっつけられる?」と、その子は続けた。まっすぐで、疑いのない目だった。全部やっつけられる。そう信じて、少しも揺らがない目。


 ナヴィルは、すぐには答えられなかった。


 朝の、右の襞の一拍が、その目の中でよみがえった。全部では、なかった。あの一体は、抜けた。埋めたのは、隣の者の炎だ。もし、埋める者が隣にいなかったら。この村のような場所が、線のもっと外にあって、そこに届く手が、足りなかったら。


 疑いのない目に、いつか、半拍の遅れもなく応えられるように。彼は木の実を懐へ丁寧にしまい、子の頭に、そっと手を置いた。「――ああ」とだけ、答えた。嘘《うそ》には、したくなかった。だから、いつかは、という顔で。


 隣に、隊長が馬を寄せてきた。子は、手を振りながら、垣根の方へ駆け戻っていく。


「よくやった。今日は危なげなかった」


 ナヴィルは頭を下げ、「はい」と答えた。


 集落が、後ろへ流れていく。垣根の上で、小さな手がまだ振られていた。懐で、木の実が、かさりと鳴った。


 ――もっと、強くなければ。


*


幕間 守れる分だけ


守れる分だけ守って、それで守ったことになる。


――ある監察官

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