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僕の世界  作者: 0u0
第二章
38/64

第10話 朝の匂い

――???


 朝いちばんの光が、高い窓から斜めに落ちて、床の石を、ひやりと白く照らしていた。


 長椅子には、順番を待つ人が、幾人も座っている。扉の脇《わき》の鉢に、誰かが小銭を落とす、乾いた音。奥は、ひんやりと暗い。

 この街へ来て、まだ幾日。朝の並びも、石の匂《にお》いも、リジアにはまだ、少しよそよそしい。それでも、手のすることだけは、どこにいても、同じだった。


 最初の年寄りは、長く続く咳《せき》と、節々《ふしぶし》の痛みを訴えていた。リジアは、その背にそっと手を添《そ》え、低く詠唱《えいしょう》を落とす。杖《つえ》の先の木と水晶が、ほのかに熱を持った。痛みそのものを消せるわけではない。ただ、和らげて、息を、少し楽にしてやる。

「ゆっくりで、大丈夫ですよ。慌てないで、吸って……そう」

 年寄りの、強ばっていた肩から、力が抜けていく。それを見届けてから、リジアは次の人へ向かった。


 次は、子どもだった。腕が、皮膚の下で、嫌な角度に浮いている。

 奥の寝台《しんだい》には、年かさの聖療師《せいりょうし》がついたままだ。長椅子は、まだ埋まっている。

 リジアは、その細い腕へ、そっと手を添えた。色と脈を確かめ、母親に肩を押さえてもらう。これからすることを一つずつ子へ告げてから、ずれた骨を、ゆっくりと正しい位置へ戻す。それから杖に持ち替え、その腕へ、そっと手のひらをかざした。

 低く詠唱を落とす。木と水晶が、熱を持った。

 皮膚の下で、骨の縁《ふち》と縁が、寄っていくのが、手のひらに伝わってくる。浮いていた歪《ゆが》みが、ゆっくりと平らになった。

 ――ここまでだ。

 それでも、痛みが引いて、小さな肩から力が抜けていくのを見ると、胸の奥が、ひとりでにほどけた。

「大丈夫。……大丈夫ですよ。少しだけ、あたたかいですからね」


 腕を吊《つ》り、母親に添え木の使い方を教えていると、その母が、不意にリジアの手を両手で包んだ。何度も、頭を下げる。

「ありがとうございます。奇跡です、シスター。本当に……神様が、あなたを遣わしてくださった」


 リジアは、その手を握り返して、微笑《ほほえ》んだ。違います、とは言わなかった。言う必要も、ないのだろう。

 ただ――祈りの言葉が、口から出るより先に、胸の奥で一度、静かにつかえる。それが何なのか、確かめようとして、

「次を」


 年かさの聖療師の、低い声がした。奥の寝台。運び込まれたまま、動かない患者がいる。リジアの手が、迷わず、そちらへ伸びかけた。

「そっちはいい。魔力が惜しい」


 声は、優しくなかった。ただ、正しかった。助かる者へ回せ。それが、この現場の理屈だ。分かっている。

「……もう少しだけ。まだ、息が、あります」


 自分の声が、少し硬くなっているのが分かった。普段の柔らかさが、こういう時だけ、どこか奥へ引っ込んでしまう。

「一人にかければ、三人が待つ」


 リジアは、答えなかった。代わりに、その寝台《しんだい》の傍《かたわ》らへ膝《ひざ》をつき、胸へ手のひらを当てる。いつもより、深く、長く、詠唱《えいしょう》を落とした。木と水晶が、痛いほど熱を持つ。魔力が、指の先から吸われていくのが、分かる。

 息が、かすかに、戻る。

 傷は、とうに塞《ふさ》いである。塞いでも、失われたものは戻らない。

 背後で、咳がひとつ、前より深く折れた。年かさの聖療師の足音が、そちらへ向かう。


 立ち上がった時、指先が、細かく震えていた。視界の端が、少し、白い。それでもリジアは、すぐには次へ向かわなかった。まだ浅い息を繰り返す、その人の枕元で、もう一度だけ、両手を胸の前で合わせる。

「……少しだけ。少しだけ、祈らせてください」


 誰に断ったのかは、自分でも分からなかった。次の寝台が待っているのは、分かっている。分かっていて、それでもリジアは、目を閉じた。口の中の祈りの言葉は、ちゃんと、出てくる。出てくるのに、以前ほど、胸の底までは、届かない。

 それでも、やめなかった。


 手が空いたのは、日が高くなってからだった。長椅子の列が、少しだけ短くなっている。リジアは、詰所の隅で、震えの引かない指を、もう片方の手で包んだ。

 さっきの子が、母親に手を引かれて、帰っていく。吊った腕を、大事そうにかばいながら。

 ……ずっと昔、リジアを拾って育ててくれたのも、教会だった。熱を出して寝込んだ幼い夜、シスターの手が、そっと額に触れてくれた。その手の温かさだけは、今も、体のどこかが、覚えている。だから、リジアも、シスターになった。


 救えた。今日も、幾人かは、確かに救えた。

 それなのに、胸の奥の、あのつかえだけが、消えずに残っている。あの寝台の、一拍。自分は、正しかったのか。正しくても、あれで、よかったのか。――問いの形になる前に、リジアは、小さく頭を振った。考えても、答えの出ないことだ。


 日が傾《かたむ》く頃には、長椅子の列も、いつしか途切れていた。それでも、リジアの一日は、まだ終わらない。支部の勤めが引けても、行く先が、ひとつ残っている。街の外れの、ひとり暮らしの年寄りの家へ、薬を届けに寄る。


 リジアは一人、蜜《みつ》色に染まりはじめた路地を歩いていく。腕にかけた籠《かご》には、膝《ひざ》に塗る薬と、晒《さらし》がひと巻き。ついでに、支部で分けてもらった塩も、少し。

 奥まった一軒の、低い戸を、指の背で軽く叩《たた》いた。

「セドさん。シスターのリジアです。お薬、持ってきましたよ。……入っても、いいですか」

 中から、しわがれた、けれど張りのある声が返ってきた。

「おう。叩き方で分かるさ。そんな遠慮がちなのは、あんただけだ」


 戸を押すと、乾いた薬草と、火の落ちた竈《かまど》の匂《にお》いがした。窓の小さな奥は、もう夜のように暗い。それでも老人は、迷いなく手を伸ばして、土間《どま》の椅子をリジアに勧めた。その指は、椅子の背を、正しくつかんでいる。目は、とうに光を映さない。ずっと昔に、そうなったのだと、前に一度だけ聞いた。


 リジアは、節くれだった手を取って、脈を確かめた。今日は、悪くない。それから、こわばった膝に手のひらを添え、低く詠唱を落とす。杖の木と水晶が、ほのかに温まった。ほどけるのは、こわばりと、痛みだけだ。――閉じた目を、開くことは、できない。それは、この杖にも、この祈りにも、できはしない。分かっている。ずっと、分かっている。

「お茶を淹《い》れましょうか。手は、あたためたほうが、楽ですから」

「あんたが淹れると、いつも濃いんだ」

 言いながら、老人は少し笑った。リジアも、つられて笑う。


 湯が沸くまでの間、老人は、若い頃に船へ乗っていた話をした。海の色を覚えているかと問うと、色はもう忘れた、と言う。だが、朝の海の匂いなら、今も忘れない。

「困ることは、そう多くない。壁の触り心地で、家のどこにいるか分かる。井戸までの歩数も、体が覚えてる」

「見えなくなって、初めて分かることも、あってな。……足音で、人の機嫌が分かる。今日のあんたは、少し、疲れているだろう」

 リジアの手が、湯呑(の)みの上で、止まった。

 昼の現場のことは、何も言っていない。あの寝台の、一拍のことも。それなのに、この老人には、届いてしまうらしい。

「……少しだけ。でも、もう、大丈夫です」

「そうか」

 老人は、それ以上は訊《き》かなかった。ただ、濃いお茶を、旨そうに啜《すす》った。


 帰り際、老人は、棚の奥を探って、貝殻を一つ、掌《てのひら》に載せてよこした。白い、小さな巻貝。

「昔、海で拾ったやつだ。耳に当てると、波の音がする。……持っておけ」

「こんな、大事なものを」

「波の音なら、もう覚えてる。――あんたには、まだ、色が見えるだろう」

 リジアは、その貝殻を、両手で受け取った。冷たくて、なめらかで、思ったより、少し重い。


 戸の外は、もう藍色《あいいろ》になりかけていた。リジアは、閉じた戸へ向き直り、手を合わせた。

 目が開きますように、とは祈らなかった。

「……どうか、この人の朝が、いい匂いでありますように」

 口の中だけで、そう祈った。


*


幕間 神様の順番


神様が遣わしたシスターだと拝まれるがな、その神様は、誰を後回しにするかまでは教えちゃくれなかったよ。


――ある聖療師

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