第10話 朝の匂い
――???
朝いちばんの光が、高い窓から斜めに落ちて、床の石を、ひやりと白く照らしていた。
長椅子には、順番を待つ人が、幾人も座っている。扉の脇の鉢に、誰かが小銭を落とす、乾いた音。奥は、ひんやりと暗い。
この街へ来て、まだ幾日。朝の並びも、石の匂いも、リジアにはまだ、少しよそよそしい。それでも、手のすることだけは、どこにいても、同じだった。
最初の年寄りは、長く続く咳と、節々《ふしぶし》の痛みを訴えていた。リジアは、その背にそっと手を添え、低く詠唱を落とす。杖の先の木と水晶が、ほのかに熱を持った。痛みそのものを消せるわけではない。ただ、和らげて、息を、少し楽にしてやる。
「ゆっくりで、大丈夫ですよ。慌てないで、吸って……そう」
年寄りの、強ばっていた肩から、力が抜けていく。それを見届けてから、リジアは次の人へ向かった。
次は、子どもだった。腕が、皮膚の下で、嫌な角度に浮いている。
奥の寝台には、年かさの聖療師がついたままだ。長椅子は、まだ埋まっている。
リジアは、その細い腕へ、そっと手を添えた。色と脈を確かめ、母親に肩を押さえてもらう。これからすることを一つずつ子へ告げてから、ずれた骨を、ゆっくりと正しい位置へ戻す。それから杖に持ち替え、その腕へ、そっと手のひらをかざした。
低く詠唱を落とす。木と水晶が、熱を持った。
皮膚の下で、骨の縁と縁が、寄っていくのが、手のひらに伝わってくる。浮いていた歪みが、ゆっくりと平らになった。
――ここまでだ。
それでも、痛みが引いて、小さな肩から力が抜けていくのを見ると、胸の奥が、ひとりでにほどけた。
「大丈夫。……大丈夫ですよ。少しだけ、あたたかいですからね」
腕を吊り、母親に添え木の使い方を教えていると、その母が、不意にリジアの手を両手で包んだ。何度も、頭を下げる。
「ありがとうございます。奇跡です、シスター。本当に……神様が、あなたを遣わしてくださった」
リジアは、その手を握り返して、微笑んだ。違います、とは言わなかった。言う必要も、ないのだろう。
ただ――祈りの言葉が、口から出るより先に、胸の奥で一度、静かにつかえる。それが何なのか、確かめようとして、
「次を」
年かさの聖療師の、低い声がした。奥の寝台。運び込まれたまま、動かない患者がいる。リジアの手が、迷わず、そちらへ伸びかけた。
「そっちはいい。魔力が惜しい」
声は、優しくなかった。ただ、正しかった。助かる者へ回せ。それが、この現場の理屈だ。分かっている。
「……もう少しだけ。まだ、息が、あります」
自分の声が、少し硬くなっているのが分かった。普段の柔らかさが、こういう時だけ、どこか奥へ引っ込んでしまう。
「一人にかければ、三人が待つ」
リジアは、答えなかった。代わりに、その寝台の傍らへ膝をつき、胸へ手のひらを当てる。いつもより、深く、長く、詠唱を落とした。木と水晶が、痛いほど熱を持つ。魔力が、指の先から吸われていくのが、分かる。
息が、かすかに、戻る。
傷は、とうに塞いである。塞いでも、失われたものは戻らない。
背後で、咳がひとつ、前より深く折れた。年かさの聖療師の足音が、そちらへ向かう。
立ち上がった時、指先が、細かく震えていた。視界の端が、少し、白い。それでもリジアは、すぐには次へ向かわなかった。まだ浅い息を繰り返す、その人の枕元で、もう一度だけ、両手を胸の前で合わせる。
「……少しだけ。少しだけ、祈らせてください」
誰に断ったのかは、自分でも分からなかった。次の寝台が待っているのは、分かっている。分かっていて、それでもリジアは、目を閉じた。口の中の祈りの言葉は、ちゃんと、出てくる。出てくるのに、以前ほど、胸の底までは、届かない。
それでも、やめなかった。
手が空いたのは、日が高くなってからだった。長椅子の列が、少しだけ短くなっている。リジアは、詰所の隅で、震えの引かない指を、もう片方の手で包んだ。
さっきの子が、母親に手を引かれて、帰っていく。吊った腕を、大事そうにかばいながら。
……ずっと昔、リジアを拾って育ててくれたのも、教会だった。熱を出して寝込んだ幼い夜、シスターの手が、そっと額に触れてくれた。その手の温かさだけは、今も、体のどこかが、覚えている。だから、リジアも、シスターになった。
救えた。今日も、幾人かは、確かに救えた。
それなのに、胸の奥の、あのつかえだけが、消えずに残っている。あの寝台の、一拍。自分は、正しかったのか。正しくても、あれで、よかったのか。――問いの形になる前に、リジアは、小さく頭を振った。考えても、答えの出ないことだ。
日が傾く頃には、長椅子の列も、いつしか途切れていた。それでも、リジアの一日は、まだ終わらない。支部の勤めが引けても、行く先が、ひとつ残っている。街の外れの、ひとり暮らしの年寄りの家へ、薬を届けに寄る。
リジアは一人、蜜色に染まりはじめた路地を歩いていく。腕にかけた籠には、膝に塗る薬と、晒がひと巻き。ついでに、支部で分けてもらった塩も、少し。
奥まった一軒の、低い戸を、指の背で軽く叩いた。
「セドさん。シスターのリジアです。お薬、持ってきましたよ。……入っても、いいですか」
中から、しわがれた、けれど張りのある声が返ってきた。
「おう。叩き方で分かるさ。そんな遠慮がちなのは、あんただけだ」
戸を押すと、乾いた薬草と、火の落ちた竈の匂いがした。窓の小さな奥は、もう夜のように暗い。それでも老人は、迷いなく手を伸ばして、土間の椅子をリジアに勧めた。その指は、椅子の背を、正しくつかんでいる。目は、とうに光を映さない。ずっと昔に、そうなったのだと、前に一度だけ聞いた。
リジアは、節くれだった手を取って、脈を確かめた。今日は、悪くない。それから、こわばった膝に手のひらを添え、低く詠唱を落とす。杖の木と水晶が、ほのかに温まった。ほどけるのは、こわばりと、痛みだけだ。――閉じた目を、開くことは、できない。それは、この杖にも、この祈りにも、できはしない。分かっている。ずっと、分かっている。
「お茶を淹れましょうか。手は、あたためたほうが、楽ですから」
「あんたが淹れると、いつも濃いんだ」
言いながら、老人は少し笑った。リジアも、つられて笑う。
湯が沸くまでの間、老人は、若い頃に船へ乗っていた話をした。海の色を覚えているかと問うと、色はもう忘れた、と言う。だが、朝の海の匂いなら、今も忘れない。
「困ることは、そう多くない。壁の触り心地で、家のどこにいるか分かる。井戸までの歩数も、体が覚えてる」
「見えなくなって、初めて分かることも、あってな。……足音で、人の機嫌が分かる。今日のあんたは、少し、疲れているだろう」
リジアの手が、湯呑みの上で、止まった。
昼の現場のことは、何も言っていない。あの寝台の、一拍のことも。それなのに、この老人には、届いてしまうらしい。
「……少しだけ。でも、もう、大丈夫です」
「そうか」
老人は、それ以上は訊かなかった。ただ、濃いお茶を、旨そうに啜った。
帰り際、老人は、棚の奥を探って、貝殻を一つ、掌に載せてよこした。白い、小さな巻貝。
「昔、海で拾ったやつだ。耳に当てると、波の音がする。……持っておけ」
「こんな、大事なものを」
「波の音なら、もう覚えてる。――あんたには、まだ、色が見えるだろう」
リジアは、その貝殻を、両手で受け取った。冷たくて、なめらかで、思ったより、少し重い。
戸の外は、もう藍色になりかけていた。リジアは、閉じた戸へ向き直り、手を合わせた。
目が開きますように、とは祈らなかった。
「……どうか、この人の朝が、いい匂いでありますように」
口の中だけで、そう祈った。
*
幕間 神様の順番
神様が遣わしたシスターだと拝まれるがな、その神様は、誰を後回しにするかまでは教えちゃくれなかったよ。
――ある聖療師




