第3話 どこも同じだ
朝のギルドは、扉を開ける前から音が漏れていた。
押し開けると、外の冷えた空気と入れ替わりに、人いきれと、革と、灯したての油の匂いが、ひとまとまりになって顔に当たった。
依頼板の前のざわめき。紙を擦る音。誰かの欠伸。僕は列に並んで、順番を待った。リュックの中の青い光のことを思うと、掌の擦り傷が、昨日より少しだけ誇らしいような気がした。
カウンターの木は、何年分の袖に擦られたのか、角がすっかり丸くなって、飴色に光っていた。インクと、乾いた羊皮紙と、昨日の蝋燭の匂い。順番が来て、僕は台の前に立った。
カウンターの向こうには、メルナさんがいた。
僕の顔を見て、それから泥の跡が残るブーツに目を落として、片方の眉を上げる。
「朝から何だい」
「買取をお願いします。クルサと――あと、これを」
麻布の包みを開いて、僕はステリアを台に並べた。六株。葉脈の青い光は、昨日、宿の窓辺で見たときより、また少し弱くなっている気がした。
メルナさんの手が、止まった。
一株を摘み上げて、光に透かす。それから提出票の採取地の欄に目を落として、低い声で言った。
「北の裏斜面。……あんた、正気かい」
「門番さんには、気をつけろと言われました」
「言われて行くやつの台詞じゃないよ、それは」
呆れたように息を吐いて、それでもメルナさんの手は動き始めた。一株ずつ、光に透かしては、台の右と左に分けていく。右に二株。左に四株。
「ステリアってのは、光で値が決まる。で、この光は摘んだ時から落ち始める。――あんた、これ、袋に裸で突っ込んできたね」
「……はい」
「湿らせた苔で包むんだよ。薬師に卸すもんは、摘んでからの扱いで等級が変わる。覚えときな」
知らなかった――いや、正確には、ずれていた。何の草か、どこに生えるか、どんな効き目か。摘めば光が弱っていくことだって、知っている。
でも、ここでは効き目じゃなく、光に値がつく。売り場に届いたとき、どれだけ光っているか。それを保つためだけの苔なんて、僕の頭のどこにもなかった。
「それとね」
メルナさんは左に分けた四株を、指の先で軽く叩いた。
「裏斜面のは、しょせん浅場のステリアだ。あの草は、寒くて暗い奥で育ったやつほど強く光る。一万レムになるのはそういう代物で、街から半日の斜面に生えてるようなのは、元から中の下。命懸けで採ってくる場所じゃないよ」
右の二株で八千。左の四株で四千。クルサの束に八百。しめて一万二千八百レム。
メルナさんは硬貨を数えて、台に置いた。一万レムが一枚、千レムが二枚、五百レムが一枚と、百レムが三枚。木の台の上で、硬貨同士が触れて、短く硬い音を立てた。
一万レム硬貨を受け取るのは、初めてだった。他の硬貨よりひと回り大きくて、ずっしりと冷たい。掌に載せると、擦り傷の上に、その重さがちゃんと乗った。
「――ありがとうございます」
「礼を言う相手は草だろ。次」
メルナさんはもう、僕の後ろの冒険者を見ていた。
その日は遠出をせず、街の近くの草地でクルサを摘んで戻った。誰でも入れる浅い草地は、とっくに摘み荒らされていて、残っているのは汁の薄い痩せた株ばかり。それでも手ぶらで帰るよりはましだった。
宿に戻ると、帳場のエルマさんが顔を上げた。
「今日は早いね」
「近場だけにしたので」
「そりゃ結構」
それだけ言って、宿代を受け取り、また帳面に目を戻す。僕は部屋に上がって、革袋の底に一万レム硬貨を沈め、上から小銭を被せた。夕方の食堂は、煮込みの匂いと、汗と、安い酒の匂いがひとつに混ざっていた。
今日くらいは、と思って、僕は煮込みを一杯だけ頼んだ。千レム。欠けた木の椀の中で、骨付きの肉と豆が湯気を立てている。顔を近づけると、湯気が頬に触れた。ひと口すすると、脂と塩気が、冷えた体の芯まで届いた。二口目を運ぶ手が、勝手に早くなっていた。周りでは、木の長椅子が軋み、賽子の転がる音と、誰かの笑い声が、煙のように天井へ昇っていく。稼いだ日の飯は、同じはずのものが、少しだけ違う味がする。
底に残った汁まで匙ですくって、椀を空にしてから、僕は隅の席で、泥の染みたブーツの手入れを始めた。革紐を抜いて、布で泥を落として、油を薄く伸ばす。
「――北の裏で採ってきたって?」
隣の席から、声がした。
見ると、年かさの冒険者が、槍の穂先を布で拭いながら、こちらを見ていた。四十絡み。日に焼けて、髭に白いものが混じっている。革の胸当ては色が抜けるほど使い込まれていたが、留め具はどれも新しく、槍の柄には、握りの位置にだけ布が固く巻いてあった。長いこと、大事に使われてきた道具だ。いいな、と思った。
「ギルドで聞いた。ゴブリンの出る斜面に、新入りが一人で入ったって」
「……薬草を採りに、少しだけ」
「少しだけ、ね」
男は笑わなかったが、責める調子でもなかった。穂先を布でもうひと拭きして、それを窓の光に透かす。
「デュランだ。この街で冒険者をやってる」
「ノアです」
それだけ言って、しばらくお互い、手元の仕事に戻った。革に油の染みる音と、布が金属を擦る音だけが、隣り合っていた。こういう間合いは、嫌いじゃなかった。
「それで」と、先に口を開いたのはデュランさんだった。「命懸けで稼いで、何に使うんだ」
「金を貯めてるんです。次の街へ行きたくて」
デュランさんの手が、少しだけ止まった。
「次の街?」
それから、彼は初めて笑った。苦いものを噛んだような、短い笑いだった。
「やめとけ。どこも同じだ」
「……同じ、ですか」
「ギルドがあって、依頼板があって、安宿があって、俺たちみたいなのが飯を食ってる。看板の名前が変わるだけだ」
言い切ってから、デュランさんは僕のブーツに目をやった。
「手入れは悪くないな。……だが、この街の泥は油と相性が悪い。白い粉が混じってるのが見えるか。北の土は石灰気だ。水気で拭って落とさずに油をかけると、粉ごと革に塗り込めることになる。ひと冬で硬くなって、割れるぞ」
言われて布を見ると、泥の跡に、たしかに白っぽい粉が残っていた。卓の水差しが、僕のほうへ滑ってきた。押した手は、もう槍に戻っていた。僕はその水で布を湿らせて、拭き直した。
「知りませんでした。……ありがとうございます」
デュランさんは頷きもせず、もう自分の槍に目を戻していた。
部屋に戻ると、階下のざわめきが、床板越しに低くくぐもって届いた。窓の隙間から入る夜気が、昼の汗の残る首筋を撫でていく。僕は寝台の上で革袋を開けた。
一万レムを一枚、指でなぞる。冷たかった硬貨が、掌の熱で、ゆっくりぬるくなっていく。誰も見ていないのをいいことに、窓の明かりにもう一度だけ透かして、僕は少しだけ、にやけた。路銀と、道中の食料と、次の街で仕事が見つかるまでの当座の宿代。全部を足した目標の、今日でやっと一割半。この調子なら、あと、ひと月半――いや、雨で出られない日を数えれば、ふた月か。
どこも同じだ、とデュランさんは言った。十年選手の言葉だ。きっと、嘘じゃない。
でも、と僕は思う。同じかどうかは、この目で見てから決めたい。ギルドと依頼板と安宿の向こうに、こことはまるで違う景色が、きっとあるはずだ。あると、信じたい。それを確かめたくて、僕は育った街を出てきたのだから。そう思ったら、口元が緩んだ。
革袋の口を縛って、枕の下に押し込む。目を閉じると、メルナさんの声がした。寒くて暗い奥で育ったやつほど、強く光る。
草の話だ。分かっている。
それでもその言葉は、なぜだか少しだけ、胸の奥に残った。




