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僕の世界  作者: 0u0
第一章
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第2話 日の当たらない岩陰

 空には、まだ夜の色が残っていた。


 人気のない大通りを、北へ歩く。石畳の目地《めじ》に溜《た》まった夜露《よつゆ》が、靴底《くつぞこ》で薄く鳴った。吐く息が白い。外套《がいとう》のフードを浅く被って、襟元を留める。左腰の長剣が、歩みに合わせて小さく揺れた。屋台はどれも板戸《いたど》を下ろして、昨日の炭の匂《にお》いだけが、冷えた空気の底に沈んでいる。


 リュックの脇には水袋を提げ、外付けの食料袋には硬いパンの残り。前腰の薄い鞘《さや》には解体用の小刀、腰の後ろと右前のポーチには、火打石や手当ての布といった細々した物が収まっている。左前に下げた古びたコンパスも、リュック脇に吊《つ》った油のランタンも、日のあるうちに帰る今日は、出番がない。採った薬草を入れるリュックの主室だけが、まだ軽い。帰る頃には、これが重くなっているはずだった。


 北の街門《がいもん》には、火鉢《ひばち》を抱え込むようにして、年かさの門番が立っていた。昨日と同じ顔だ。


 ギルドカードと受注証《じゅちゅうしょう》を差し出すと、門番は火の明かりでそれを確かめ、薬草採りには不釣り合いな左腰の長剣に、ちらりと目をやってから、僕の顔を見た。


「北か」

「はい。薬草の採取で」

「昨日も言ったがな。裏の斜面は、近頃ゴブリンが出てる。物盗(ものと)りみたいなもんだが、数で来られたら新人にゃ荷が重い。手前の草地までにしとけ」

「気をつけます」


 門番は鼻から息を吐いて、受注証を返してよこした。止められはしなかった。忠告はした、あとはお前の首だ――そういう返し方だった。


 門を抜けると、道はすぐに細くなる。


 街の気配《けはい》が背中から遠のいて、代わりに、草と土の匂いが濃くなった。空の端が、ようやく灰色に緩み始める。街道を外れて、獣道《けものみち》ともつかない踏み跡を、北の斜面へ向かって登った。


 足場は、聞いていた通り悪い。浮いた石。崩れる土。雨を吸って黒くなった落ち葉の下に、濡《ぬ》れた岩が隠れている。僕は爪先《つまさき》で一度ずつ確かめながら、体を斜面へ低く倒して登った。


 途中、沢筋《さわすじ》の日陰に、クルサの群れを見つけた。


 街道沿いならどこにでも生える、いちばん安い薬草のクルサ(止血草)だ。茎《くき》を折ると赤い汁が滲《にじ》んで、それを傷に擦り込めば血が止まる。安いといっても、日陰の湿《しめ》った土で育ったものは汁が濃くて、買取の銭が少しだけ増える。僕は根を残して茎だけを刈り、リュックの口へ落としていった。指先が、赤い汁でうっすらと染まる。


 陽《ひ》が稜線《りょうせん》を越える頃、登ってきた斜面の裏へ回り込んだ。足の下で、沢が鳴っている。


 ここから先は、街からは見えない。日も差さない。岩と岩の間を冷たく湿った空気が川のように流れていて、汗ばんだ首筋から熱が引いた。苔《こけ》の匂いが濃い。


 目当ての場所は、大岩がひさしのように張り出した、その根元だった。


 ――あった。


 膝《ひざ》をついて、僕は息を詰めた。


 暗がりの中で、細い葉が群れている。その一枚一枚の葉脈《ようみゃく》が、ほのかに青く光っていた。魔法の光じゃない。夜光虫《やこうちゅう》や光苔と同じ、生き物が自分で灯(とも)す光だ。


 ステリアだ。上等な傷薬《きずぐすり》の材料になる高級な薬草で、摘めば葉脈の光は落ちていくけれど、すぐに乾かせば薬としての力は残る。昔、そう教わった。教わっただけの青が、いま、指の先にある。


「……すごい」


 誰もいない岩陰で、声がひとりでに漏れた。


 僕はリュックを下ろして、岩の根に立てかけた。


「……少しだけ、もらいます」


 誰にともなくそう言ってから、僕は小刀を置いて、まず手で土を確かめた。根が浅い。乱暴に引けば千切(ちぎ)れる。一株ずつ、根の周りの土ごと緩めて、葉を潰さないように抜いていく。リュックの中のクルサの上に、そっと寝かせた。安い草を褥《しとね》にするみたいで、少しだけ、クルサに申し訳なかった。


 六株目を土から起こしたとき、風が変わった。


 湿った苔の匂いに、別の匂いが混ざる。獣脂《じゅうし》の焦げたような、饐《す》えた匂い。


 続いて、斜面の上のほうで、下生え(したばえ)の折れる音がした。一つじゃない。ガサ、ガサ、と間を置いて、いくつも。低く潰れた声が、短く何かをやり取りしている。人の言葉じゃなかった。


 ゴブリンだ。


 心臓がひとつ、大きく打った。僕はリュックの口を縛(しば)り、小刀を鞘に戻して、岩の陰に体を沈めた。


 音は、上から斜めに降りてくる。足音の重なりからして、四つか、五つ。声の調子に、何かを見つけた昂《たか》ぶりはない。ここはただの通り道だ。それなら、やり過ごせばいい。


 けれど、岩陰の脇の土だけが、踏み固まっていた。連中の道筋は、ここを通っている。


 僕は息を細くして、足元を見た。岩伝(いわづた)いに下れば、沢筋まで降りられる。ただし最初のひと跨《また》ぎは、濡れた岩の上だ。


 声が近づく。獣脂の匂いが濃くなる。


 僕はリュックを胸の前に抱え直し、ひさしの下へ潜って、岩の裂け目に足を差しながら下りた。


 爪先が下の岩を捉える。膝で衝撃を吸って、音を殺す。次の岩へ。その次へ。体は勝手に動いた。浮いた石は踏まない。乾いた岩の、ざらついた面だけを選ぶ。呼吸は浅く、吐く息は口の中で潰す。


 途中、岩と岩の間が開いた。跨げない幅だ。飛べば、着地の音が出る。


 僕は岩の陰で足を止めて、待った。斜面の上を、風が渡ってくる。梢《こずえ》が鳴り、下生えが一斉に擦れて、山側の音が厚くなる――その音に合わせて、跳んだ。爪先から着いて、膝を折る。風の音の底に、僕の着地は沈んだ。


 頭の上で、ガサッ、と大きく茂みが鳴った。


 声が、すぐそこにあった。岩のひさしの下――僕がさっきまで膝をついていた場所を、何かが通っていく。土を擦る足音。鼻を鳴らす音。抜いたステリアの跡に、気づくだろうか。


 足音が、止まった。


 鼻を鳴らす音が、二度、三度。掘り返したばかりの土の匂いを嗅(か)いでいる。僕は岩の面に頬《ほほ》を寄せたまま、動きを止めた。汗がひと筋、こめかみから顎《あご》へ伝って、落ちる寸前で顎の先に溜まる。喉が渇く。唾《つば》を飲む音さえ、いまは大きすぎる気がした。


 低い声が短く何かを言って、別の声が応えた。それきり、興味は続かなかったらしい。


 足音が、また動き出す。


 通り過ぎていく。一つ、二つ、三つ、四つ。僕は岩に張りついたまま、それを数えた。五つ目の足音が遠のいてから、なお、たっぷりと待った。それから沢筋へ降りた。


 最後のひと跨ぎで、濡れた岩に掌《てのひら》が滑った。


 咄嗟《とっさ》に体をひねって、落ちる代わりに膝から着く。泥が膝に冷たく染みた。掌のつけ根が石の角で擦れて、薄く血が滲む。僕はそれを口に含み、沢の水で洗った。切り傷というほどでもない。クルサを使うまでもなかった。


 そこまでやって、ようやく、膝が小さく震え出した。遅れてきた震えだった。なんだかおかしくなって、僕は声を殺して、少しだけ笑った。生きている。リュックの中のステリアも、無事だ。


 沢に沿って、来た道とは別の筋で斜面を下りた。振り返っても、もう音はしない。膝の泥だけが、さっきまでのことを覚えている。


 街門に戻ったのは、昼を回った頃だった。門番は僕の泥だらけの膝を一瞥《いちべつ》して、「生きてたか」とだけ言った。「はい、なんとか」と返すと、鼻で短く笑われた。


 宿に戻って、部屋の寝台に腰を下ろして、僕はようやくリュックの口を開けた。


 窓から差す午後の光の中でも、それは分かった。クルサの上に横たわった細い葉の、葉脈の青。露《つゆ》に洗われた星を、そのまま摘んできたみたいだった。


 これが、いくらになるのか。


 質のいいものなら一万レムに届く、という話は知っている。でもそれは本の中の、よその話だ。この街のギルドが、名前も知られていない新人が持ち込んだこのステリアに、実際いくらの値をつけるのか――僕はまだ、それを知らない。


 掌の擦り傷が、脈に合わせて小さく疼《うず》いた。


 明日《あした》の朝いちばんに、ギルドへ行こう。

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「第2話 日の当たらない岩陰」まで拝読しました。 とても丁寧な、その上押し付けがましくないちょうどいい説明にセンスが光っておりました。 その場にいるような臨場感を体験できます。 更に、ルビがここまで…
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