第2話 日の当たらない岩陰
空には、まだ夜の色が残っていた。
人気のない大通りを、北へ歩く。石畳の目地に溜まった夜露が、靴底で薄く鳴った。吐く息が白い。外套のフードを浅く被って、襟元を留める。左腰の長剣が、歩みに合わせて小さく揺れた。屋台はどれも板戸を下ろして、昨日の炭の匂いだけが、冷えた空気の底に沈んでいる。
リュックの脇には水袋を提げ、外付けの食料袋には硬いパンの残り。前腰の薄い鞘には解体用の小刀、腰の後ろと右前のポーチには、火打石や手当ての布といった細々した物が収まっている。左前に下げた古びたコンパスも、リュック脇に吊った油のランタンも、日のあるうちに帰る今日は、出番がない。採った草を入れるリュックの主室だけが、まだ軽い。帰る頃には、これが重くなっているはずだった。
北の街門には、火鉢を抱え込むようにして、年かさの門番が立っていた。昨日と同じ顔だ。
ギルドカードと受注証を差し出すと、門番は火の明かりでそれを確かめ、薬草採りには不釣り合いな左腰の長剣に、ちらりと目をやってから、僕の顔を見た。
「北か」
「はい。薬草の採取で」
「昨日も言ったがな。裏の斜面は、近頃ゴブリンが出てる。物盗りみたいなもんだが、数で来られたら新人にゃ荷が重い。手前の草地までにしとけ」
「気をつけます」
門番は鼻から息を吐いて、受注証を返してよこした。行くな、とは言われなかった。忠告はした、あとはお前の首だ――そういう返し方だった。
門を抜けると、道はすぐに細くなる。
街の気配が背中から遠のいて、代わりに、草と土の匂いが濃くなった。空の端が、ようやく灰色に緩み始める。街道を外れて、獣道ともつかない踏み跡を、北の斜面へ向かって登った。
足場は、聞いていた通り悪い。浮いた石。崩れる土。雨を吸って黒くなった落ち葉の下に、濡れた岩が隠れている。僕は爪先で一度ずつ確かめながら、体を斜面へ低く倒して登った。
途中、沢筋の日陰に、クルサの群れを見つけた。
街道沿いならどこにでも生える、いちばん安い薬草のクルサだ。茎を折ると赤い汁が滲んで、それを傷に擦り込めば血が止まる。安いといっても、日陰の湿った土で育ったものは汁が濃くて、買取の銭が少しだけ増える。僕は根を残して茎だけを刈り、リュックの口へ落としていった。指先が、赤い汁でうっすらと染まる。
陽が稜線を越える頃、斜面の裏側へ回り込んだ。
ここから先は、街からは見えない。日も差さない。岩と岩の間を冷たく湿った空気が川のように流れていて、汗ばんだ首筋から熱が引いた。苔の匂いが濃い。
目当ての岩陰は、大岩がひさしのように張り出した、その根元にあった。
――あった。
膝をついて、僕は息を詰めた。
暗がりの中で、細い葉が群れている。その一枚一枚の葉脈が、ほのかに青く光っていた。魔法の光じゃない。夜光虫や光苔と同じ、生き物が自分で灯す光だ。
ステリアだ。上等な傷薬の材料になる高級草で、摘めば葉脈の光は落ちていくけれど、すぐに乾かせば薬としての力は残る。昔、そう教わった。教わっただけの青が、いま、指の先にある。
「……すごい」
誰もいない岩陰で、声がひとりでに漏れた。
僕はリュックを下ろして、岩の根に立てかけた。
「……少しだけ、もらいます」
誰にともなくそう言ってから、僕は小刀を置いて、まず手で土を確かめた。根が浅い。乱暴に引けば千切れる。一株ずつ、根の周りの土ごと緩めて、葉を潰さないように抜いていく。リュックの中のクルサの上に、そっと寝かせた。安い草を褥にするみたいで、少しだけ、クルサに申し訳なかった。
六株目を土から起こしたとき、風が変わった。
湿った苔の匂いに、別の匂いが混ざる。獣脂の焦げたような、饐えた匂い。
続いて、斜面の上のほうで、下生えの折れる音がした。一つじゃない。ガサ、ガサ、と間を置いて、いくつも。低く潰れた声が、短く何かをやり取りしている。人の言葉じゃなかった。
ゴブリンだ。
心臓がひとつ、大きく打った。僕はリュックの口を縛り、小刀を鞘に戻して、岩の陰に体を沈めた。
音は、上から斜めに降りてくる。足音の重なりからして、四つか、五つ。声の調子に、何かを見つけた昂ぶりはない。ここはただの通り道だ。それなら、やり過ごせばいい。
けれど、連中の道筋は、この岩陰のすぐ脇を通っていた。
僕は息を細くして、足元を見た。岩伝いに下れば、沢筋まで降りられる。ただし最初のひと跨ぎは、濡れた岩の上だ。
声が近づく。獣脂の匂いが濃くなる。
僕はリュックを胸の前に抱え直し、岩のへりに手をかけて、体を滑らせた。
爪先が下の岩を捉える。膝で衝撃を吸って、音を殺す。次の岩へ。その次へ。体は勝手に動いた。浮いた石は踏まない。乾いた岩の、ざらついた面だけを選ぶ。呼吸は浅く、吐く息は口の中で潰す。
途中、岩と岩の間が開いた。跨げない幅だ。飛べば、着地の音が出る。
僕は岩の陰で足を止めて、待った。斜面の上を、風が渡ってくる。梢が鳴り、下生えが一斉に擦れて、山側の音が厚くなる――その音に合わせて、跳んだ。爪先から着いて、膝を折る。風の音の底に、僕の着地は沈んだ。
頭の上で、ガサッ、と大きく茂みが鳴った。
声が、すぐそこにあった。岩のひさしの上――僕がさっきまで膝をついていた場所を、何かが通っていく。土を擦る足音。鼻を鳴らす音。抜いたステリアの跡に、気づくだろうか。
足音が、止まった。
鼻を鳴らす音が、二度、三度。掘り返したばかりの土の匂いを嗅いでいる。僕は岩の面に頬を寄せたまま、動きを止めた。汗がひと筋、こめかみから顎へ伝って、落ちる寸前で顎の先に溜まる。喉が渇く。唾を飲む音さえ、いまは大きすぎる気がした。
低い声が短く何かを言って、別の声が応えた。それきり、興味は続かなかったらしい。
足音が、また動き出す。
通り過ぎていく。一つ、二つ、三つ。僕は岩に張りついたまま、それを数えた。五つ目の足音が遠のいてから、なお、たっぷりと待った。それから沢筋へ降りた。
最後のひと跨ぎで、濡れた岩に掌が滑った。
咄嗟に体をひねって、落ちる代わりに膝から着く。泥が膝に冷たく染みた。掌のつけ根が石の角で擦れて、薄く血が滲む。僕はそれを口に含み、沢の水で洗った。切り傷というほどでもない。クルサを使うまでもなかった。
そこまでやって、ようやく、膝が小さく震え出した。遅れてきた震えだった。なんだかおかしくなって、僕は声を殺して、少しだけ笑った。生きている。リュックの中の青い草も、無事だ。
沢に沿って、来た道とは別の筋で斜面を下りた。振り返っても、もう音はしない。膝の泥だけが、さっきまでのことを覚えている。
街門に戻ったのは、昼を回った頃だった。門番は僕の泥だらけの膝を一瞥して、「生きてたか」とだけ言った。「はい、なんとか」と返すと、鼻で短く笑われた。
宿に戻って、部屋の寝台に腰を下ろして、僕はようやくリュックの口を開けた。
窓から差す午後の光の中でも、それは分かった。クルサの上に横たわった細い葉の、葉脈の青。露に洗われた星を、そのまま摘んできたみたいだった。
これが、いくらになるのか。
質のいいものなら一万レムに届く、という話は知っている。でもそれは本の中の、よその話だ。この街のギルドが、名前も知られていない新人が持ち込んだこの草に、実際いくらの値をつけるのか――僕はまだ、それを知らない。
掌の擦り傷が、脈に合わせて小さく疼いた。
明日の朝いちばんに、ギルドへ行こう。




