第1話 やっと半人前
リーベル王国の、街道沿いの町ハルヴェン。
王都へ延びる幹線に張りついたこの町は、荷を運ぶ商人や、旅の途中の者や、一山当てようという冒険者で、昼も夜も人の流れが絶えない。ただ、その誰もが自分の用事で頭がいっぱいで、擦れ違う相手の顔なんて見ちゃいない。日が傾いても、石畳に溜まった昼の熱はなかなか引かなかった。荷馬車の車輪が石を噛んでゴロゴロと鳴り、路地の奥では、値切りの声が刺々しく張り上げられている。
冒険者ギルドの、分厚い樫の扉を押した。
途端、熱気が塊になって顔にぶつかってくる。酸っぱいエールと、脂の焦げる匂い、なめし革と、うっすら鉄錆のような血の匂い。それが何十人分もの汗と混じって、胸の奥までねっとり重い。誰かの馬鹿笑いが、鼓膜の裏をビリビリと震わせた。
肩がぶつかった。鎧の男が、僕を一瞥もせずに通り過ぎていく。「どけ」の一言もない。僕は半歩下がって、その背中を見送った。
ささくれた床板を踏んで、人の隙間を縫うように進む。喧騒の奥、無垢の木を削っただけの長いカウンター。受付のメルナさんが、退屈そうに羽ペンを走らせていた。カリカリ、と依頼紙を擦る乾いた音。僕は正面に立って、リュックから麻布の包みを取り出し、台の上にそっと置いた。
包みを開くと、青くて湿った匂いが立つ。中身は、今日一日、斜面を這って集めてきたクルサの束だ。茎を折れば切り口に赤い汁がにじんで、それを傷に擦り込めば血が止まる。街道沿いにいくらでも生えている、いちばん安い薬草だ。
メルナさんは顔も上げずに、覗いた緑をちらりと見て、大きな溜め息をついた。
「……またクルサ? あんた、ほんとにそればっかりね」
「はい。切り口も新しいし、汁もよく出ます」
「出ます、じゃないよ。値をつけるのはこっちだ」
そう言いながらも、手だけは慣れていて、傷んだ葉を弾き、根の泥を小刀で払っていく。査定用の天秤に束を乗せると、ギッ、と鳴って皿が傾いた。帳簿に何か書きつけ、引き出しから硬貨を取り出して、木目の上を滑らせてくる。
チャリン、と鈍い音。千レム硬貨が八枚、並んだ。
メルナさんの目が、ふと、僕の膝のあたりに落ちる。乾いた泥がこびりついて、袖口には、棘に引っかけたらしい小さな鉤裂きが開いていた。
「……その汚れよう。また、足場の悪いところにでも潜り込んでたんでしょ。クルサなんて、街道沿いを歩いてりゃ籠いっぱい採れるってのに」
「そっちのほうが、汁の濃いのが採れるので」
「ふうん」
興味なさそうに鼻を鳴らして、それきり――と思ったら、メルナさんはふと手を止めた。
「でもまあ、昔みたいに毒草ばっかり掴まされなくなっただけ、マシかね」
初めて、ちらりと目が合う。呆れたような、でもほんの少しだけ和らいだ声で、彼女は言った。
「やっと半人前ってとこよ」
半人前。
その言葉が、思いがけないほどまっすぐ、胸の真ん中に落ちてきた。
「えっ……ほんとですか」
声が弾んでしまって、僕は少し恥ずかしくなる。メルナさんは「なによ、その顔」と眉を上げただけで、もう帳簿に目を戻していた。それでも、耳の後ろが熱くなっていくのは、どうしようもなかった。
硬貨を手のひらに集めて、腰の革袋に落とす。ぶつかり合う小さな重みが、自分の足で稼いだ八千レムだった。
カウンターを離れかけたとき、円卓のほうから、昼間からエールを呷る中堅たちの濁った笑いが飛んできた。
「おい、またあの半人前が草刈りだとよ」
「いつまで小銭拾いしてんだか。こっちは明日から護衛だ。金貨が一枚、十万レム。見たこともねえだろ」
聞こえよがしの声。でも、不思議と腹は立たなかった。半人前。ついさっき、同じ言葉を、僕は誇らしくもらったばかりだ。同じ言葉なのに、もらい方で、こんなに違う。僕は彼らのほうを見ないまま、纏わりつく喧騒の外へ出た。
重い扉が背中で閉まると、音の世界が切り替わる。夜の帳が下りかけた通りは静かで、冷たい風が、火照った頬を撫でていった。
角を曲がると、串焼きの屋台が湯気を上げていた。網の上で、脂の滴る肉がジュッと音を立てている。香ばしい匂いが、まっすぐ胃袋に届いた。腹が、小さく鳴る。
僕は革袋に手をかけて――そこで、指が止まった。
一本、五百レム。腹が減っているのは、本当だ。でも、その五百レムがあれば、次の街への路銀に、ほんの少しだけ近づく。今日の稼ぎから宿代を引けば、どうせほとんど残らないのに、それでも僕は、いつもここで少し迷う。
……今日は、朝から斜面を這い回った。それくらいは、いいことにしよう。
自分にそう言い訳をして、千レムを一枚、つまみ出した。
「一本、ください」
恰幅のいい親父は、こちらの顔も見ずに、串を一本、突き出してくる。「熱いぞ」。五百レムが一枚、串と一緒に返ってきた。「ありがとうございます」と言って、それを受け取った。
薄暗い路地に入って、ひとくち齧る。焼きたての熱と、脂の甘い旨味が、口いっぱいに広がった。舌が痺れるほど熱くて、僕は思わず口をすぼめる。「……うまい」。声が、勝手に漏れた。一日中強張っていた身体の芯に、その熱が染みていくのが分かった。
残りは七千五百レム。宿代を払えば、手元に残るのは千レムが一枚と、五百レムが一枚きりだ。相変わらず、カツカツ。それでも、冷たい夜風の中で齧るこの一本は、たった五百レムの、ちゃんとした贅沢だった。
大通りを外れて、いつもの古びた宿にたどり着く。扉を押すと、煮込みと、薪の煙と、湿った木の匂いが、ぬるい空気に混じって流れてきた。帳場の脇では、蝋燭が一本、頼りなく揺れている。僕は千レムを六枚、その灯りの下に並べて置いた。
女将のエルマさんは、千レムを一枚ずつ数えながら、ちらとも笑わずに言う。
「近ごろ、帰りが遅いじゃないか。今日もまた、そんなくたびれた顔してさ」
「……そうですか?」
「そうだよ。無茶だけはするんじゃないよ。怪我したって、面倒をみてくれる身内がいるわけでもなし。野垂れ死にたくなきゃ、身の丈で稼ぎな」
「はい。気をつけます」
軋む階段を上りながら、ふと思った。この街で僕に何か言ってくるのは、メルナさんの小言と、エルマさんのこの一言くらいのものだ。優しさとは、少し違う。ただ、突き放すみたいな声の底に、それでも死ぬなよ、という響きが混じっているのを、僕は勝手に、少しだけありがたく思っていた。
二階の隅にある僕の部屋は、両手を広げれば壁に届いてしまうくらいの狭さだ。扉を開けると、湿った木と、古い蝋の煤の匂いが、こもったまま鼻を突いた。窓の隙間から夜気が忍び込んで、部屋の中はもう、外とたいして変わらないくらいに冷えている。
フードを下ろして、胸元の留め金を外す。上下のベルトがほどけて、リュックの重みが肩から消えた。それを床に下ろし、外套を脱いで壁の釘に掛ける。左腰の長剣は帯ごと外して、寝台の頭側に立てかけた。手を伸ばせば届く場所。短刀と小刀は、ベルトごとまとめて枕元へ。
一つずつ身体が軽くなって、最後に寝台へ腰を落とすと、藁を詰めただけの寝床が、ガサッと乾いた音を立てた。擦り切れた布の下から、硬い藁の先が尻を刺す。薄い毛布を引き寄せてみても、粗い繊維が肌に擦れるばかりで、ちっとも暖かくはならない。それでも、雨風をしのげる屋根と、身体を横たえる場所があるだけで、僕には十分だった。
薄い壁の向こうから、隣の部屋の誰かの、くぐもった鼾が聞こえてくる。その下では、通りを行く酔っ払いの笑い声が、遠ざかっては、また近づいた。
窓の桟にもたれて外を見ると、ひしめく屋根の向こうに、藍色に暮れた空がのぞいていた。革袋の底で、残った硬貨がひとつ、ふたつ、頼りない音を立てる。リュックの底の蓄えも、このぶんだと、そう長くはもたない。この稼ぎのままじゃ、路銀なんていつまで経っても貯まらない。この街道の先には、まだ見たことのない町が、いくつもあるはずだ。いや、町だけじゃない。噂にだけ聞く禁忌の地、地図の端の誰も踏み込まない場所、見たこともない獣や、息を呑むような絶景――そのぜんぶを、いつかこの目で見て回りたい。そのためには、まず、ここを出るための金がいる。
ふと、昼間に足を止めた斜面のことを思い出した。北の、もっと奥。街の連中が誰も寄りつかない、足場の悪い裏側。あそこの、日の当たらない岩陰なら、汁の濃い上等な草が、きっとまだ手つかずで残っている。
門番が言っていた。あの一帯は最近ゴブリンが出るから、近づくな、と。
危ないのは、分かっている。手が滑れば、今夜の宿代も、明日の飯も、簡単に消えてしまう。それでも――革袋の軽さと、あの岩陰の草を思い浮かべて、僕は決めた。明日は、あそこへ行ってみよう。
「……よし」
口に出すと、決めたことが、少しだけ本当になった気がした。
僕は手を伸ばして、床のリュックを寝台の脇へ引き寄せる。冷たい寝床に身を横たえ、薄い毛布を肩まで引き上げた。目を閉じると、隣の鼾も、通りの喧騒も、少しずつ遠のいていった。かわりに、まだ見ぬ斜面の、湿った土と、青い草の匂いが、なぜだか鼻の奥に立った気がした。




