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僕の世界  作者: 0u0
第二章
36/64

第9話 来る頃には

 藁《わら》の匂《にお》いで目が覚めた。


 納屋《なや》の板の隙間《すきま》から細い光が差し込んでいる。外ではもう、鶏の声と桶《おけ》を鳴らす音がしていた。村の朝は早い。


 起き上がって荷を検《あらた》めると、包帯の巻きが少し崩れていた。巻き直して、革袋の重さを確かめる。ゆうべ受け取った分だけ、いつもよりほんの少し重い。


 外に出ると、朝いちばんの空気は冷たかった。畑の畝《うね》の間を細い水路が流れている。その縁《ふち》の湿《しめ》った土のところに、見覚えのある葉が群れて生えていた。


 クルサ(止血草)だ。


 しゃがんで根元から摘《つま》むと、茎の切り口から赤い汁がにじんだ。日陰で土が湿っているほど、この汁は濃くなる。水路沿いのこれは上物だった。


 街に戻れば、これがいくらかの銭になる。旅のあいだ、僕の日銭はたいてい、こういう草むらから出てきた。手を動かしながら、いくつか摘んで腰の布袋へ落としていく。


 水路をたどって歩くうちに、村の外れまで来ていた。


 畑の切れた先に、あの小さな建物があった。屋根には簡素な印。教会の分所だ。ゆうべ村に入る時に目にした。


 戸は開いていた。中を覗《のぞ》いてみる。


 誰もいなかった。


 奥の一段高いところに、古い木像が一体あった。翼を大きく広げた人の姿で、空から舞い降《お》りる途中のように前へ身を傾《かたむ》け、こちらへ片手を差し伸べている。頭のうしろには丸い光の輪があった。彩色はすっかり剥《は》げ落ちて、粗末な木肌がむき出しになっている。教会が拝む相手なのだろう。


 けれど、その差し伸べた手の先には、誰もいなかった。足元で燃え尽きかけた蝋燭《ろうそく》が一本、細い煙を上げているだけだ。


 ――教会まで、持つか持たないかだ。


 ゆうべセラさんが言った言葉だ。この村には、聖療師《せいりょうし》はいない。


 僕は、その細い煙を、しばらく見ていた。


 分所を離れ、突き当たりの家へ戻った。ひと晩納屋を借りた礼を、言っておきたかった。


 軒下《のきした》の薬草は、朝の光の中でも青い匂《にお》いがした。戸口から声をかけると、中から「入んな」と短い返事があった。


 セラさんは薬研《やげん》の前にいた。ゆうべと同じ場所だ。


「納屋、ありがとうございました」


「藁が余ってるだけさ」


 セラさんは、もう薬研へ目を戻していた。


 その時、戸口の向こうから聞き覚えのある声がした。ゆうべのあの母親だ。男の子の手を引いている。


「セラさん、朝早くにすみません。ゆうべの、この子の傷が……」


「ああ。見せな」


 子が腕を差し出す。ゆうべ晒《さらし》を巻いたところだ。セラさんが巻きをほどいて、傷を検《あらた》める。


「膿《う》んじゃいないね。塞《ふさ》がりかけてる。もう、巻かなくていい」


 母親がほっとした顔で頭を下げた。子のほうは、もう痛くないと分かったのか、けろりとしている。ゆうべあんなに泣いていたのに。


 子が僕を見上げた。それから母親の袖《そで》を引いて、何か囁《ささや》く。母親が僕のほうへ、もう一度頭を下げた。


「ゆうべは、この人にも、お世話になって」


「いえ」


 手伝った、というほどのことはしていない。布を絞って置いただけだ。そう言おうとして、やめた。子がこっちを見て、少しだけ笑っていたからだ。


 家を辞して、村を出ることにした。


 帰り道の前に、水袋を満たしておきたい。村の真ん中に井戸があって、何人か、村の人が朝の水を汲《く》んでいた。


 釣瓶《つるべ》を借りて水を汲む。桶から水袋へ移していると、そばで年寄りの男が、誰にともなく話していた。


「また、先で焼けたらしいな」


「畑火かね」


「さあ。付け火だって言う奴も、いるがね」


 焼けた、という言葉には聞き覚えがあった。街道を来る途中でも、隊の男たちが同じような話をしていた。先の村で、焼けたのが出たらしい、と。


「どっちにしろさ」年寄りが、水を汲みながら言った。「何かあったって、街から人が来るのを待ってたら、間に合やしない。来る頃にゃ、片がついてる。いつも、そうさ」


 誰もそれに言い返さなかった。桶の縁《ふち》からこぼれた水が、足元の溝《みぞ》へ流れていった。


 水汲みの列の後ろに、若い男が一人いた。二十歳《はたち》そこそこだろうか。僕とそう歳は変わらない。


 年寄りが話すあいだ、その若者は桶を提げたまま黙っていた。目だけが、動かなかった。


 僕が水袋の口を締めると、若者が釣瓶に手を伸ばした。次は、彼の番らしい。


「どうぞ」


 釣瓶を渡すついでに、口をついた。


「よく冷えてて、いい水ですね」


「……ああ」


 低くて平らな声だった。それきり若者は、水のほうへ目を落とした。


 静かな人だな。そう思って、僕は水袋を肩にかけた。


 村を出た。


 枝道《えだみち》は、来た時と同じだった。両側から草がせり出して、道の真ん中で触れ合っている。荷を担ぎ直して、その草を分けて進む。


 配達は済んだ。あとは二日歩けば、街道に出る。


 村の物音が、背中でだんだん遠くなった。やがて、虫の声と自分の足音ばかりになった。

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