第9話 来る頃には
藁の匂いで目が覚めた。
納屋の板の隙間から細い光が差し込んでいる。外ではもう、鶏の声と桶を鳴らす音がしていた。村の朝は早い。
起き上がって荷を検めると、包帯の巻きが少し崩れていた。巻き直して、革袋の重さを確かめる。ゆうべ受け取った分だけ、いつもよりほんの少し重い。
外に出ると、朝いちばんの空気は冷たかった。畑の畝の間を細い水路が流れている。その縁の湿った土のところに、見覚えのある葉が群れて生えていた。
クルサだ。
しゃがんで根元から摘むと、茎の切り口から赤い汁がにじんだ。日陰で土が湿っているほど、この汁は濃くなる。水路沿いのこれは上物だった。
街に戻れば、これがいくらかの銭になる。旅のあいだ、僕の日銭はたいてい、こういう草むらから出てきた。手を動かしながら、いくつか摘んで腰の布袋へ落としていく。
水路をたどって歩くうちに、村の外れまで来ていた。
畑の切れた先に、あの小さな建物があった。屋根には簡素な印。教会の分所だ。ゆうべ村に入る時に目にした。
戸は開いていた。中を覗いてみる。
誰もいなかった。
奥の一段高いところに、古い木像が一体あった。翼を大きく広げた人の姿で、空から舞い降りる途中のように前へ身を傾け、こちらへ片手を差し伸べている。頭のうしろには丸い光の輪があった。彩色はすっかり剥げ落ちて、粗末な木肌がむき出しになっている。教会が拝む相手なのだろう。
けれど、その差し伸べた手の先には、誰もいなかった。足元で燃え尽きかけた蝋燭が一本、細い煙を上げているだけだ。
――教会まで、持つか持たないかだ。
ゆうべセラさんが言った言葉だ。この村には、聖療師はいない。
僕は、その細い煙を、しばらく見ていた。
分所を離れ、突き当たりの家へ戻った。ひと晩納屋を借りた礼を、言っておきたかった。
軒下の薬草は、朝の光の中でも青い匂いがした。戸口から声をかけると、中から「入んな」と短い返事があった。
セラさんは薬研の前にいた。ゆうべと同じ場所だ。
「納屋、ありがとうございました」
「藁が余ってるだけさ」
セラさんは、もう薬研へ目を戻していた。
その時、戸口の向こうから聞き覚えのある声がした。ゆうべのあの母親だ。男の子の手を引いている。
「セラさん、朝早くにすみません。ゆうべの、この子の傷が……」
「ああ。見せな」
子が腕を差し出す。ゆうべ晒を巻いたところだ。セラさんが巻きをほどいて、傷を検める。
「膿んじゃいないね。塞がりかけてる。もう、巻かなくていい」
母親がほっとした顔で頭を下げた。子のほうは、もう痛くないと分かったのか、けろりとしている。ゆうべあんなに泣いていたのに。
子が僕を見上げた。それから母親の袖を引いて、何か囁く。母親が僕のほうへ、もう一度頭を下げた。
「ゆうべは、この人にも、お世話になって」
「いえ」
手伝った、というほどのことはしていない。布を絞って置いただけだ。そう言おうとして、やめた。子がこっちを見て、少しだけ笑っていたからだ。
家を辞して、村を出ることにした。
帰り道の前に、水袋を満たしておきたい。村の真ん中に井戸があって、何人か、村の人が朝の水を汲んでいた。
釣瓶を借りて水を汲む。桶から水袋へ移していると、そばで年寄りの男が、誰にともなく話していた。
「また、先で焼けたらしいな」
「畑火かね」
「さあ。付け火だって言う奴も、いるがね」
焼けた、という言葉には聞き覚えがあった。街道を来る途中でも、隊の男たちが同じような話をしていた。先の村で、焼けたのが出たらしい、と。
「どっちにしろさ」年寄りが、水を汲みながら言った。「何かあったって、街から人が来るのを待ってたら、間に合やしない。来る頃にゃ、片がついてる。いつも、そうさ」
誰もそれに言い返さなかった。桶の縁からこぼれた水が、足元の溝へ流れていった。
水汲みの列の後ろに、若い男が一人いた。二十歳そこそこだろうか。僕とそう歳は変わらない。
年寄りが話すあいだ、その若者は桶を提げたまま黙っていた。目だけが、動かなかった。
僕が水袋の口を締めると、若者が釣瓶に手を伸ばした。次は、彼の番らしい。
「どうぞ」
釣瓶を渡すついでに、口をついた。
「よく冷えてて、いい水ですね」
「……ああ」
低くて平らな声だった。それきり若者は、水のほうへ目を落とした。
静かな人だな。そう思って、僕は水袋を肩にかけた。
村を出た。
枝道は、来た時と同じだった。両側から草がせり出して、道の真ん中で触れ合っている。荷を担ぎ直して、その草を分けて進む。
配達は済んだ。あとは二日歩けば、街道に出る。
村の物音が、背中でだんだん遠くなった。やがて、虫の声と自分の足音ばかりになった。




