第8話 空いた棚
枝道は、街道より、ずっと頼りなかった。
両側から草がせり出して、道の真ん中で触れ合っている。人が通らないから、道が細るのだ。荷の紐を握り直して、その草を分けて進んだ。街道を行き交う車の音は、もう、背中の後ろに遠い。虫の声と、自分の足音ばかりになった。
ゆうべは、道端の木の下で、一晩を明かした。枝道に入って、もう二日になる。
二日目の、日が傾きかけた頃、木立が切れて、村が見えた。
畑があった。畝の間を、細い水路が通っている。低い家が、身を寄せ合うように並んで、どの屋根からも、薄い煙が上がっていた。畑の端で、鍬を持った男が手を止めて、こちらを見ている。よそ者が珍しいのだろう。村の外れに、小さな建物があった。屋根に、簡素な印。教会の、分所らしい。
畑があって、煙があって、人がいる。慎ましいけれど、ちゃんと、暮らしがそこにあった。
畑の男に、荷の届け先を訊いた。男は、鍬の先で、村の奥の一軒を指した。
「薬師んとこだ。突き当たりの、薬草を干してある家さ」
言われた通りに行くと、その家の軒下には、束ねた薬草が、幾つも吊るしてあった。乾いた、青い匂いがする。戸は、開いていた。
「配達で、来ました。街のギルドから」
「ああ」
中で、薬研を挽いていた女が、手を止めて立ってきた。四十半ばくらいだろうか。荷を受け取ると、その場で紐を解いて、中を検める。晒。丸めた布。小さな包みが、幾つか。指が、一つ一つを迷わずに検めていく手つきは、ひどく慣れていた。
女が荷を検めているあいだ、僕は、その家の中を、見るともなしに見ていた。
壁という壁が、棚だった。素焼きの壺と、木の箱が、ずらりと並んでいる。苦いような、薬くさい匂いが、家じゅうに満ちていた。こんな辺鄙な村にも、こういう家が、ちゃんとある。
ただ、その棚の、ところどころが、がらんと空いていた。壺の口が、いくつも、開いたままになっている。街から少しずつ取り寄せている理由も、それで知れた。
「……足りてる。ご苦労さん」
受注証と引き換えに、女は、硬貨を数えて寄越した。千レムが、幾らか。派手な数ではない。それでも、街から枝道を、荷を負って歩いた分が、こうして手のひらに乗る。革袋の、いつもの場所へ落とした。
これで、用は済んだ。頭を下げて、戸口を出ようとした、その時だった。
子どもの泣き声が、近づいてきた。
母親らしい女が、男の子を抱えるようにして、駆け込んでくる。子は、片腕を押さえて、しゃくり上げていた。押さえた指の間から、赤いものが滲んでいる。頬が、上気して赤い。
「セラさん、この子が、鎌で」
「見せな」
セラ、と呼ばれた女は、もう子の腕を取っていた。傷を検める。深くはない。けれど子は、痛みと、これから何をされるかという怖さで、体を捩って泣いた。
「じっとしとき」
そう言いながら、セラさんは、片手で水を汲もうとする。もう片手は、子の腕を離せない。手が、二つでは、足りていなかった。
僕は、戸口で、足を止めていた。出て行くきっかけを、失っていた。
竈の脇に、湯の沸いた鍋があるのが、目についた。僕は、それをそっと桶の水に足して、ぬるくした。布を浸して、絞る。セラさんの手の届く所へ、置いた。頼まれる前に、体が動いていた。旅の間、怪我の手当ては、いつも自分一人でやってきた。手順は、体が覚えている。
セラさんは、ちらとこちらを見たが、何も言わずに、その布を取った。
子は、まだ暴れていた。傷に触れられるのが怖いのだ。このままでは、洗えない。
僕は、しゃがんで、子と目の高さを合わせた。
「――ほら、あっち。屋根の上に、鳥がいる」
低い声で、そう言う。子が、つられて、上を見た。指さした先には、本当は、何もいない。それでも、子の体から、ほんの少しだけ、力が抜けた。その隙に、セラさんの手が、傷を洗い終える。子が「あ」と気づいた時には、いちばん痛いところは、もう済んでいた。
馬を宥めた時と、同じだ。怖がっているものは、痛みそのものより、次に来る痛みを、怖がっている。だから、気を、そっちからよそへ、逸らしてやればいい。
子の額が、まだ、赤かった。傷の痛みと、走ってきたのとで、熱を持っている。セラさんの手は、傷のほうで塞がっている。僕は、別の布を水で冷やして、子の額に、そっと乗せた。頬の赤みが、少しずつ薄くなった。
子は、ひやりとした布に、少し驚いた顔をしてから、大人しくなった。
セラさんは、傷に薬を塗り、晒を巻いた。手際は、早い。巻き終える頃には、子はもう、泣き止んでいた。額の布も、いつのまにか、機嫌のいい顔で、自分から押さえていた。
「膿まないように、明日また来な」
母親が、何度も頭を下げて、子を連れて出て行った。戸口の向こうに、二人の足音が遠ざかる。
家の中に、二人が残った。セラさんは、使った道具を片付けながら、ようやく、僕をまともに見た。
「……あんた、手慣れてるね」
「旅を、してるので。自分の分は、自分でやるくせが、ついてて」
セラさんが、湯を椀に汲んで、一つ、僕のほうへ押し出した。
「飲みな。もう、日が暮れる」
愛想の欠片もない声だった。けれど、突き放しても、いなかった。
椀を受け取って、少し迷ってから、僕は訊いた。
「……この村では、深い怪我をした人は、どうするんですか」
セラさんの手が、一瞬、止まった。それから、壁の棚のほうへ、ちらと目をやった。あれだけの物の詰まった、棚のほうへ。
「街の教会まで、運ぶしかない。戸板で担いで、二日だ」
それきり、間があった。
「この棚にあるもんで治せるのは、ここまでさ。腹をやられたら、あたしの薬じゃ何ともならない。……教会まで、持つか持たないかだ。間に合った者もいる。間に合わなかった者も、いる」
窓の外で、日が落ちかけていた。畑も、水路も、影になっていく。教会の分所の、簡素な印が、その暮れ方の中に、小さく見えた。あの祠には、たぶん、聖療師はいない。
椀の湯を、飲み干した。ぬるくて、けれど、温かかった。
「今夜、この村で、泊めてもらえますか」
「納屋なら、貸すよ。藁はある」
礼を言って、荷を肩にかけ直した。納屋へ向かいかけて、足が止まった。
暮れかけた分所の印を、もう一度だけ見た。




