第6話 少しだけ、もらいます
朝の門は、来た日よりも、ずっと空いていた。
荷を検める列もない。門番は僕のカードを光に傾けて、それから、顎で外を示しただけだった。よそへ出るだけなら、壁の銭も要らないらしい。
「……ありがとうございます」
言うと、門番は少しだけ、こちらを見た。それから、また次の列へ、目を戻す。
門をくぐると、街の音が、背中で少しずつ遠くなっていった。
街道を、しばらく行く。それから、逸れた。門を入る時に見えた、あの低い森のほうへ。近づくほどに、道の土が湿って、足の裏が、柔らかく沈むようになる。木立の匂いが、風より先に届いた。青いような、湿ったような、土と葉の匂い。それを、胸いっぱいに吸い込む。
しばらくは、一人で、森だ。
そう思うと、足が、自分から前へ出た。
森の中は、外より、一段暗かった。葉が幾重にも重なって、日の光を、細かく漉している。その隙間から落ちる光が、地面のあちこちで、揺れていた。歩くたびに、枯れ葉が、乾いた音を立てる。鳥の声が、高いところで、二度、三度。
まず、水を探した。
低いほうへ、下りていく。土の湿り気を、足で確かめながら。しばらく行くと、木の根の間を、細い流れが伝っているのが見えた。手で掬って、匂いを嗅ぐ。澄んでいる。少し、口に含んで、すぐ吐き出す。冷たい。土の味はしなかった。
「……よし。沸かして使おう」
この近くに、寝床を作ろう。
流れから少し離れた、平らなところを選んだ。低すぎず、風の通り道でもない。木の根が、背中を預けるのに、ちょうどいい高さで張っている。ベッドロールを下ろして、毛布を広げる。荷を、一つずつ、手の届くところへ並べていった。自分ひとりのための、段取りだった。誰に合わせることもない。それが、少し、心地よかった。
日のあるうちに、火を熾しておきたかった。
右前の革ポーチから、火打石と火口を出す。乾いた枯れ葉を、掌で揉んで、細かくする。それを火口に添えて、小さく積んだ。火打石を、鉄の縁に、斜めに打つ。一度、二度。火花が散って、けれど、消える。息を止めて、もう一度。三度目で、火口の端が、赤く点った。
そこからは、ゆっくりだった。
顔を近づけて、細く、息を吹く。強すぎれば消える。弱すぎても育たない。赤い点が、じわりと広がって、細い煙が上がった。そこへ、小枝を、一本ずつ。焦らずに。やがて、ぱち、と小さな音を立てて、炎が枝に移った。
「……ついた」
誰にともなく、そう漏らしていた。
火が落ち着くまでの間に、食べられる物を探した。
流れのそばの、湿った土。日の当たる、木の根元。目が、勝手に、そういう場所を追っていく。硬い実を、いくつか拾った。掌に載せて、殻の色を確かめる。これは、渋いやつだ。こっちは、灰の中に埋めれば、甘くなる。熾きの端を掻いて、実を二つ埋めた。柔らかい野草の芽を、根を傷めないように、指で摘んだ。摘んだそばから、土の匂いがした。
「少しだけ、もらいます」
声に出して、そう言った。
平鍋を、火にかける。水を張って、拾った実と、野草の芽を落とす。湯気が上がるまで、しゃがんで、待った。火の熱が、膝の前で、揺れている。腹が、小さく鳴った。
煮えたものを、椀に移して、啜る。
「……うまい」
薄い味だった。塩は、惜しんで、ほんの少し。それでも、温かいものが、体の芯に落ちていくのが、分かった。半分ほど飲んで、残りに、拾った実を割り入れる。灰で甘くしたやつだ。ほくほくと、口の中で崩れた。
空が、木の間で、藍色になっていく。
火のそばに、毛布を引き寄せた。街の音も、宿の壁もない。聞こえるのは、火の爆ぜる音と、遠くの、名前も知らない鳥の声だけ。目を閉じると、瞼の裏で、火の色が、ちらちらと揺れた。
そうして、幾日か過ぎた。
朝、水を汲んで、火を起こす。日のあるうちに、木の実を拾い、野草を摘む。夜は、綯い直した縄で、掌が、少し赤くなった。同じことの繰り返しだった。けれど、飽きはしなかった。日ごとに、この森の骨組みが、少しずつ、分かってくる。どこに水があって、どこを獣が通るのか。それを覚えていくのは、街の路地を覚えるのと、どこか似ていた。
獣の通り道は、三日目には、見当がついていた。
草の倒れ方。土に残った、蹄の痕。糞の乾き具合。それを辿って、細い道が、藪の間を抜けているのを見つけた。そこに、括り罠を仕掛ける。
持ち歩きの罠は、持っていない。だから、その場で作る。しなる若木を選んで、たわめて、留める。縄で輪を作り、獣が踏めば、若木の力で締まる仕掛けだ。輪の高さを、蹄の痕から見当をつけて、調えた。結び目を、二度、指で確かめる。縄は、ほどけていない。
「……こんなものか」
翌朝、罠を見に行くと、若木が、跳ね上がっていた。
かかっている。藪の陰で、何かが、暴れる音がした。近づくと、それは、僕の見たことのない獣だった。
カモシカに、少し似ている。中くらいの背丈で、脚は太く、重心が低い。灰褐色の、硬そうな毛。頭には、短く太い角が、後ろへ反って、二本。その角を振り立てて、縄に、体重をかけていた。
輪は、後ろ脚に、かかっていた。締まっている。結び目も、正しい。
だが、獣の力が、僕の思っていたより、ずっと強かった。
踏ん張った脚が、土を掻く。太い首が、ぐいと引く。縄が、みしりと鳴って――それから、切れた。
あ、と思う間もなかった。
自由になった獣が、こちらへ、突っ込んでくる。角の先が、まっすぐ、僕を向いていた。
体が、勝手にびくりとした。
考えるより先に、足が、横へ流れる。角が、脇腹のすぐ横を、風を巻いて通り過ぎた。かわした――けれど、踏み込んだ足が、濡れた枯れ葉に、滑った。体勢が、崩れる。地面に、肩から落ちた。傍らに置いた縄の束が、散らばる。
息を、一つ、詰めた。
獣は、行き過ぎて、向きを変えようとしている。その一瞬に、僕は、身を起こした。腰の長剣に、手をかける。鞘を払う乾いた音が、木立へ走った。
向き直った獣が、また、角を低くする。僕は、待った。踏み込んでくる、その頭の動きを、目で追う。来る。半歩、体をひらいて、角をいなした。流れた首の、その付け根へ、剣を、通す。派手な音は、しなかった。獣が、前脚から、崩れる。土の上で、二度、脚が跳ねて、それきり、動かなくなった。
しばらく、息を整えた。
それから、獣のそばに、膝をつく。開いたままの、目を覗き込んだ。黒い瞳の周りに、ちゃんと、白目がある。濁ってもいない。……ただの獣だ。魔物では、ない。
そう確かめて、僕は、小さく息を吐いた。
角に、手を触れる。硬い。毛も、密で、厚い。これは、いい革になる。売れば、いくらかにはなるだろう。金は、いくらあっても、足りないのだから。
小刀を出して、その場で、血を抜いた。
肉は、その日のうちに食べられるだけ、火で焼いた。脂の落ちる音が、じゅう、と鳴る。余った分は、薄く切って、火のそばに吊るす。数日、干せば、保つ。皮は、丁寧に剥いで、塩をすり込み、枝に広げた。火からは離し、風だけを当てる。捨てるところは、なるべく、少なくした。
手を、流れで洗いながら、僕は、ふと思った。
そういえば、剣を握るのも、ずいぶん、久しぶりだった。さっきの、あの一振り。体は、思ったより、覚えていた。
――そういえば、あれも、しばらく、巡らせていない。
火のそばに戻って、一息ついてから、僕は、ゆっくりと、立った。肩を回す。膝を、軽く沈める。体の芯から、指の先へ、ゆっくりと、通していった。温かいものが、末端まで、行き渡っていくのが、分かる。
「……ちゃんと、巡るな」
誰にともなく、そう呟いて、僕は、また、腰を下ろした。
干し肉の吊るされた、その下で、火が、静かに爆ぜている。
空を、木の間から見上げた。ここに来て、もう、幾日になるだろう。指を折って、数えてみる。
……そろそろ、照会が、終わる頃か。
森は、悪くなかった。革袋は、減らずに済んだし、腹も、満ちた。けれど、あの受付の男に、返事を、聞きに行かなければならない。
明日、朝のうちに、街へ戻ろう。
そう決めて、僕は、幾日か風に当てておいた皮の乾きを、指で確かめた。よく乾いている。街へ戻る朝に丸めれば、いい。それから、干し肉の乾き具合も、もう一度、確かめた。




