第2話 一日ぶん
四日目は、雨で明けた。
夜のうちから続いていた雨が、朝になっても、やまなかった。細かい、糸のような雨だった。荷馬車の荷には油布が掛けられ、男たちは外套の頭巾を上げて、黙って歩いた。
道は、すぐにぬかるんだ。車輪が土を噛むたび、泥が撥ねる。ぬかるみに嵌るほどではない。ただ、歩みは目に見えて、遅くなった。
昼、川に出た。
三日目に渡った瀬とは、別の流れだった。ここを渡れば、リメンまでは、あとひと息だという。
その瀬が、濁っていた。
水嵩が上がって、流れの真ん中で、白い筋が立っている。頭と御者が、岸に立って、しばらく水を見ていた。荷馬車の車軸まで水が来るかどうか、というところらしい。
「今日は、渡らん」
頭は、それだけ言った。誰も、何も言わなかった。荷馬車は川岸から少し戻って、木立の際に寄せられた。
雨は、昼過ぎまで降り続いた。
火を熾すのに、いつもの倍かかった。
運び手の一人が、濡れた火口の上に指先を寄せて、小さな火を灯した。爪の先ほどの、頼りない火だった。
「点けるとこまでは、楽できるがな」
男はぼやいて、あとは息を吹いた。濡れた枝は、いくら火種を移しても、白い煙ばかり吐いた。育てるのは、結局、息と手間だった。
ようやく立った火のそばで、飯袋の口が開けられた。
黒パンが、残り少なかった。干し肉の箱も、底が見えていた。六日ぶんの飯に、予備はわずかだった。もう一日ぶんには、足りない。
頭が、飯袋の中を一度だけ覗いて、口を閉じた。それから、火を囲む男たちを、順に見た。
「明日も水が引かなんだら、予備だけじゃ足りん」
誰も、答えなかった。護衛は、荷のそばを離れられない。それが契約だった。運び手の男たちは、互いに顔を見合わせて、それきり黙った。
頭の目が、最後に、僕のところで止まった。
「あんた、冒険者だったな。……獲れる者は、おるか」
僕は、椀を置いた。
「多少、心得はあります」
「弓は」
「いえ。……石で」
頭は、眉ひとつ動かさなかった。ただ、隣で聞いていた運び手が、汁を飲む手を止めて、こちらを見た。石で、と、口の中で繰り返したのが、分かった。
「暗くなる前に戻れ」
頭は、それだけ言って、火のほうへ向き直った。
僕は、川筋に沿って、上流の木立へ入った。
雨あがりの森は、濡れた土と、腐りかけた葉の匂いがした。歩きながら、道の際で、石を拾う。ひとつ持って、重さを確かめて、捨てる。もうひとつ拾って、指の中で転がして、それは残す。角の取れた、掌に沈む重さの石を、四つ。
獣道は、すぐに見つかった。雨の後は、土が柔らかい。
道筋から風下に外れて、倒木の陰に腰を下ろした。あとは、待つだけだった。
森は、うるさいくらいに鳴いていた。葉から落ちる雫の音。土を叩く、その不揃いな拍子。鳥が、頭の上のどこかで、羽を震わせて水を払っている。
急がない。森の時間に、こっちを合わせる。獲物が来ないのは、待ち方が悪いんじゃなくて、まだその時間になっていないだけだ。
石を、掌の中で一度、握り直した。
日が、木々の向こうで少しずつ低くなっていく。
日が沈む前に、野営へ戻った。
肩から提げた獲物袋は、濡れて、重かった。火のそばに下ろすと、中から、兎が二羽と、山鳩が一羽、出てきた。兎はどちらも腹を抜いて、後ろ足を紐で括ってある。山鳩も、血は抜いてあった。
受け取った運び手が、兎を持ち上げて、手を止めた。
「……もう、抜いてあんのか」
「山で済ませたほうが、早いので」
男は、それ以上聞かなかった。
火のそばで、僕は兎を捌いた。
腹は山で抜いてある。あとは皮だ。後ろ足の紐を解いて、足首に小刀を一周させる。皮と肉のあいだに指を入れ、剥がしながら、頭のほうへ引く。力は要らない。要るのは、順番だけだ。
皮が裏返って抜けると、湯気の立つ身が残った。関節に刃を当てて、音もなく外す。骨は断たない。継ぎ目を切る。
山鳩は、羽をむしってから、熾きた火の上にかざして、残った産毛を炙った。焦げる匂いが、短く立って、消えた。
鍋の湯が鳴りはじめたころには、獲物は全部、部位ごとに分かれていた。
兎の肉は、雨の夜の腹に、よく入った。骨まで、しゃぶる音がした。誰も、礼は言わなかった。ただ、僕の椀にも、肉は、ちゃんと入っていた。
五日目の朝、雨は上がっていた。
水嵩は、まだ高かった。頭は昼まで待って、それから、渡ると決めた。
荷馬車が、一台ずつ瀬へ入る。白い筋の残る流れの中で、車輪が石を噛んで、荷台が斜めに揺れた。僕は膝まで水に入って、荷台の縁に手を添えた。水は、脛を殴るように流れていく。冷たさは、すぐに痛さに変わった。
真ん中の一台が、流れの芯で、一度止まった。御者が舌を鳴らす。馬が、首を低くして、引く。車輪が、石の段をひとつ乗り越えて――渡った。
全部の車輪が対岸に上がったとき、誰かが、短く息を吐いた。昨日、渡らなかった川だった。
その日の昼過ぎ、川を離れて少し行ったところで、隊は短い休みを取った。
浅瀬のあとも、雨の夜のあとも、御者は、僕に話しかけてこなかった。ほかの男たちも、変わらない。僕は、荷運びのよそ者のまま、隊の少し外を歩いていた。
その御者が、干し肉を齧る僕の隣に、腰を下ろした。そして、袋を差し出してきた。
「食うか」
乾かした木の実だった。塩の利いた、固いやつ。
「いいんですか! ありがとうございます!」
ひとつ摘んで、口に入れる。奥歯で割ると、脂の味がした。思わず、もうひとつ欲しくなる顔をしてしまったらしい。
「そんなに旨いか、それが」
男は、笑って、袋ごと寄越した。
「兄ちゃん、食えるうちに食っとけ。荷運びは、腹が減ったら終いだ」
僕は、少し首をすくめた。
「……ありがとうございます」
その晩、飯のとき、その御者が、僕の椀に、汁を少し多めに寄越した。
「明日にはリメンだ。着いたら、宿は高いぞ。兄ちゃん、金は持ってんのか」
「……あまり」
「だろうな」
男は、それきり何も言わなかったが、僕の椀は、いつもより温かかった。
六日目、日が傾きはじめたころ。前を行く御者が、鞭の先で、遠くを指した。
「あれがリメンだ」
畑の向こうに、低い屋根がいくつも、重なって見えた。荷を継ぐ町だ。六日歩いてきた道の、いったんの終わりだった。
「着いたら荷を降ろして、それで終いだ。……達者でな、ノア」
僕は、この隊に入ったわけじゃない。ただの、六日雇いの荷運びだ。それでも、着けば離れると思うと、少し、名残惜しかった。
屋根の上には、細い煙が何本も立っていた。夕餉の支度の、竈の煙だ。どこの村にもある、あたりまえの煙だった。
――先の村で、焼けたのが出たらしい。
火のそばで聞いた切れ端が、ふと、頭の隅をよぎる。僕は、目を戻した。
腰の左前で、コンパスの針は、まだ、どこも指していなかった。
荷馬車は、そのままリメンへと進んでいく。僕も、その後を歩いた。




