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僕の世界  作者: 0u0
第二章
28/62

第2話 一日ぶん

 四日目は、雨で明けた。


 夜のうちから続いていた雨が、朝になっても、やまなかった。細かい、糸のような雨だった。荷馬車《にばしゃ》の荷には油布が掛けられ、男たちは外套《がいとう》の頭巾《ずきん》を上げて、黙って歩いた。

 道は、すぐにぬかるんだ。車輪が土を噛《か》むたび、泥が撥《は》ねる。ぬかるみに嵌《はま》るほどではない。ただ、歩みは目に見えて、遅くなった。


 昼、川に出た。


 三日目に渡った瀬とは、別の流れだった。ここを渡れば、リメンまでは、あとひと息だという。

 その瀬が、濁《にご》っていた。

 水嵩《みずかさ》が上がって、流れの真ん中で、白い筋が立っている。頭《かしら》と御者《ぎょしゃ》が、岸に立って、しばらく水を見ていた。荷馬車の車軸まで水が来るかどうか、というところらしい。


「今日は、渡らん」


 頭は、それだけ言った。誰も、何も言わなかった。荷馬車は川岸から少し戻って、木立《こだち》の際に寄せられた。

 雨は、昼過ぎまで降《ふ》り続いた。


 火を熾《おこ》すのに、いつもの倍かかった。

 運び手の一人が、濡《ぬ》れた火口《ほくち》の上に指先を寄せて、小さな火を灯《とも》した。爪《つめ》の先ほどの、頼りない火だった。

「点けるとこまでは、楽できるがな」

 男はぼやいて、あとは息を吹いた。濡れた枝は、いくら火種を移しても、白い煙ばかり吐いた。育てるのは、結局、息と手間だった。

 ようやく立った火のそばで、飯袋の口が開けられた。

 黒パンが、残り少なかった。干し肉の箱も、底が見えていた。六日ぶんの飯に、予備はわずかだった。もう一日ぶんには、足りない。

 頭が、飯袋の中を一度だけ覗《のぞ》いて、口を閉じた。それから、火を囲む男たちを、順に見た。


「明日《あした》も水が引かなんだら、予備だけじゃ足りん」


 誰も、答えなかった。護衛は、荷のそばを離れられない。それが契約だった。運び手の男たちは、互いに顔を見合わせて、それきり黙った。

 頭の目が、最後に、僕のところで止まった。


「あんた、冒険者だったな。……獲れる者は、おるか」


 僕は、椀《わん》を置いた。


「多少、心得はあります」

「弓は」

「いえ。……石で」


 頭は、眉《まゆ》ひとつ動かさなかった。ただ、隣で聞いていた運び手が、汁を飲む手を止めて、こちらを見た。石で、と、口の中で繰り返したのが、分かった。


「暗くなる前に戻れ」


 頭は、それだけ言って、火のほうへ向き直った。


 僕は、川筋に沿って、上流の木立へ入った。


 雨あがりの森は、濡れた土と、腐りかけた葉の匂《にお》いがした。歩きながら、道の際で、石を拾う。ひとつ持って、重さを確かめて、捨てる。もうひとつ拾って、指の中で転がして、それは残す。角の取れた、掌《てのひら》に沈む重さの石を、四つ。

 獣道《けものみち》は、すぐに見つかった。雨の後は、土が柔らかい。

 道筋から風下に外れて、倒木の陰に腰を下ろした。あとは、待つだけだった。

 森は、うるさいくらいに鳴いていた。葉から落ちる雫《しずく》の音。土を叩《たた》く、その不揃《ふぞろ》いな拍子。鳥が、頭の上のどこかで、羽を震わせて水を払っている。

 急がない。森の時間に、こっちを合わせる。獲物が来ないのは、待ち方が悪いんじゃなくて、まだその時間になっていないだけだ。

 石を、掌の中で一度、握り直した。

 日が、木々の向こうで少しずつ低くなっていく。


 日が沈む前に、野営へ戻った。


 肩から提げた獲物袋は、濡れて、重かった。火のそばに下ろすと、中から、兎《うさぎ》が二羽と、山鳩《やまばと》が一羽、出てきた。兎はどちらも腹を抜いて、後ろ足を紐《ひも》で括《くく》ってある。山鳩も、血は抜いてあった。

 受け取った運び手が、兎を持ち上げて、手を止めた。


「……もう、抜いてあんのか」

「山で済ませたほうが、早いので」


 男は、それ以上聞かなかった。

 火のそばで、僕は兎を捌《さば》いた。

 腹は山で抜いてある。あとは皮だ。後ろ足の紐を解いて、足首に小刀《こがたな》を一周させる。皮と肉のあいだに指を入れ、剥《は》がしながら、頭のほうへ引く。力は要らない。要るのは、順番だけだ。

 皮が裏返って抜けると、湯気《ゆげ》の立つ身が残った。関節に刃を当てて、音もなく外す。骨は断たない。継ぎ目を切る。

 山鳩は、羽をむしってから、熾きた火の上にかざして、残った産毛を炙《あぶ》った。焦げる匂いが、短く立って、消えた。

 鍋の湯が鳴りはじめたころには、獲物は全部、部位ごとに分かれていた。

 兎の肉は、雨の夜の腹に、よく入った。骨まで、しゃぶる音がした。誰も、礼は言わなかった。ただ、僕の椀にも、肉は、ちゃんと入っていた。


 五日目の朝、雨は上がっていた。


 水嵩は、まだ高かった。頭は昼まで待って、それから、渡ると決めた。

 荷馬車が、一台ずつ瀬へ入る。白い筋の残る流れの中で、車輪が石を噛んで、荷台が斜めに揺れた。僕は膝《ひざ》まで水に入って、荷台の縁《ふち》に手を添《そ》えた。水は、脛《すね》を殴るように流れていく。冷たさは、すぐに痛さに変わった。

 真ん中の一台が、流れの芯で、一度止まった。御者が舌を鳴らす。馬が、首を低くして、引く。車輪が、石の段をひとつ乗り越えて――渡った。

 全部の車輪が対岸に上がったとき、誰かが、短く息を吐いた。昨日《きのう》、渡らなかった川だった。


 その日の昼過ぎ、川を離れて少し行ったところで、隊は短い休みを取った。


 浅瀬のあとも、雨の夜のあとも、御者は、僕に話しかけてこなかった。ほかの男たちも、変わらない。僕は、荷運びのよそ者のまま、隊の少し外を歩いていた。

 その御者が、干し肉を齧《かじ》る僕の隣に、腰を下ろした。そして、袋を差し出してきた。


「食うか」

 乾かした木の実だった。塩の利いた、固いやつ。

「いいんですか! ありがとうございます!」

 ひとつ摘《つま》んで、口に入れる。奥歯で割ると、脂《あぶら》の味がした。思わず、もうひとつ欲しくなる顔をしてしまったらしい。

「そんなに旨いか、それが」

 男は、笑って、袋ごと寄越した。

「兄ちゃん、食えるうちに食っとけ。荷運びは、腹が減ったら終《しま》いだ」

 僕は、少し首をすくめた。

「……ありがとうございます」


 その晩、飯のとき、その御者が、僕の椀に、汁を少し多めに寄越した。

「明日にはリメンだ。着いたら、宿は高いぞ。兄ちゃん、金は持ってんのか」

「……あまり」

「だろうな」

 男は、それきり何も言わなかったが、僕の椀は、いつもより温かかった。


 六日目、日が傾《かたむ》きはじめたころ。前を行く御者が、鞭《むち》の先で、遠くを指した。

「あれがリメンだ」

 畑の向こうに、低い屋根がいくつも、重なって見えた。荷を継ぐ町だ。六日歩いてきた道の、いったんの終わりだった。

「着いたら荷を降ろして、それで終いだ。……達者でな、ノア」

 僕は、この隊に入ったわけじゃない。ただの、六日雇いの荷運びだ。それでも、着けば離れると思うと、少し、名残《なごり》惜しかった。

 屋根の上には、細い煙が何本も立っていた。夕餉《ゆうげ》の支度の、竈《かまど》の煙だ。どこの村にもある、あたりまえの煙だった。

 ――先の村で、焼けたのが出たらしい。

 火のそばで聞いた切れ端が、ふと、頭の隅をよぎる。僕は、目を戻した。

 腰の左前で、コンパスの針は、まだ、どこも指していなかった。

 荷馬車は、そのままリメンへと進んでいく。僕も、その後を歩いた。

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