第1話 余分な手
車輪の音が、ずっと低いままだった。
石畳を離れてから、どれだけ歩いたのか、もう分からない。土の道は、蹄と車輪の音を吸って、返さない。前を行く荷馬車の轍が、二本、まっすぐ先へ伸びている。僕はその片方を、踏まないように歩いていた。
隊は、止まらなかった。
荷馬車が三台。先頭に一台、真ん中に一台、しんがりに一台。あいだを、運び手が歩く。前と後ろを固めているのは、剣と槍と弓の護衛だった。街道で何かが出れば、あの人たちの領分だ。御者は手綱を握ったまま、馬の足に歩調を預けている。上り坂でも、道が荒れても、車輪はひと呼吸だけ間を置いて、また回りだす。その拍子に、脚を合わせる。合わせてしまえば、あとは考えなくてよかった。
肩の荷は、歩くうちに、背中の形へ馴染んでいった。荷紐の位置を、一度だけ直す。それきりだった。
朝、初めて顔を合わせたときから、この隊が、僕を値踏みしていることには気づいていた。
紹介で回してもらっただけの、素性の知れない荷運びだ。荷を抜かれたことのある商会が、名前の分かる者しか使わないのは、そういう理由だ。ムンドさんの口利きがあっても、この六日で信用できるかどうかは、また別の話なのだろう。歩きながら、御者の一人が、ちらとこちらを振り返る。荷の縄が緩んでいないか、僕の手元を確かめるような目だった。
だから僕は、荷から目を離さないようにした。隠すことでも、気負うことでもなく、ただ、任された荷だから。
「暑ィな、今日は」
しんがりの荷馬車のそばで、誰かが言った。
「……秋口だぞ」
「秋口だろうが、歩きゃ暑い」
それで、少し笑い声がした。僕も、つられて口の端が緩んだ。
道の両側は、刈り取りの済んだ畑だった。ときどき、まだ穂の残る一角があって、風が通ると、乾いた音を立てる。遠くの低い丘は、朝からずっと、同じ距離にあるように見えた。歩いても、歩いても、近づかない。
車輪が土を巻き上げて、細かい埃が、口の中に薄く積もる。水袋に手をかけて、やめた。まだ、飲むには早い。舌で、乾いた唇を湿らせるだけにした。
昼を少し回ったころ、道が湿った。
前の晩に、この辺りだけ雨が降ったらしい。土が飴色にぬかるんで、真ん中の荷馬車の後輪が、ずぶりと沈んだ。馬が前へ引く。輪は、鳴くような音を立てて、その場で回った。
「押せ」
頭の声だった。四十絡みの、日に焼けた男。もう荷台の縁から降りて、車輪の泥に手をかけている。理由も、段取りも言わない。ただ、押せ、と。
僕は、真っ先に荷台の後ろへ回った。濡れた木の縁に、手を添える。隣に、運び手がもう一人ついた。御者が舌を鳴らして馬を励ますのに合わせて、押す。
肩と、腿の付け根に、力を込める。泥が、脛まで跳ねた。輪が一度、空回りして、それから、土を噛んだ。荷馬車が、ぬかるみを抜けていく。
「……ほう」
隣にいた男が、泥を払いながら、短く言った。値踏みの目は、まだそこにあった。ただ、その色が、少しだけ変わった気もした。
「雨のあとは、これだ。先の道も、こうかもな」
「井戸のある村までは、乾いてるといいですね」
「……あんた、そういうのも聞いてんのか」
男は、それだけ言って、また前を向いた。
僕は、荷を背負い直した。列は、もう動きはじめている。
日が傾くと、街道の脇に、馬車を寄せた。
井戸のある村までは、まだ半日あるという。今夜は、野宿だった。六日のうちの、一日目が終わろうとしていた。
火を組むのに、僕は言われる前に、乾いた枝を集めに行った。石を組んでいたのは、昼間、荷の縄を確かめていた、あの目の御者だった。その隣にしゃがんで、風の来るほうへ、火の口を空ける。細い枝から順に組んでいくと、御者が、ちらとこちらを見た。
「……手際、いいな」
「昔、よく外で寝てたので」
御者は、それきり何も言わなかった。組み上がった焚きつけに、別の運び手が指先で火を落として、火は、すぐに立った。
荷を数える。塩の袋。干し肉の箱。麻の反物。朝と、同じ数だった。頭のほうを見ると、こちらを見もせずに、頷きをひとつ寄越した。それで、済んだ。
日が落ちると、気温が、思ったより早く下がった。昼のあいだ背中を焼いていた熱が、嘘みたいに引いていく。火のそばにいないと、じきに寒くなりそうだった。
飯は、隊が出した。黒パンと、干し肉を煮た汁。椀は、掌に温かい。
口をつけると、塩気が、疲れた身体に、じんと染みた。ふと、デュランさんの声を思い出す。――沢の水を、そのまま飲むな。腹を下したら、六日の荷なんざ運べねえ。井戸のある村で汲め、とも言っていた。水袋の口は、閉じたままにしておいた。
夜の見張りは、交代だという。最初の番は、僕ではなかった。
火のそばで、男たちの声が、途切れ途切れに流れてくる。仕事の話。宿場の女の話。値の下がった反物の話。そのあいだに、ひとつ、混じった。
「――先の村で、焼けたのが出たらしいぜ」
誰の声かは、分からなかった。
「焼けた?」
「さあな。畑だか、小屋だか」
それきり、話は別のほうへ流れていった。焼けたものが何なのかは、どうやら、誰も知らないようだった。
僕は、椀の底を見ていた。
朝、頭は言った。今回は、運び手を一人多く取った、と。理由は言わなかったし、僕も聞かなかった。荷馬車が三台に、運び手が四人。積んで下ろすだけなら、三人でも足りる数だった。護衛は、別についている。それでも頭は、運ぶ手を、ひとつ余分に取っていた。
――物騒なときは、手が一組でも、多いほうがいい。
たぶん、そういうことだ。頭が、荷のために用心するのは、当然のことだった。
ただ、椀の底で、汁が冷えていくのが、分かった。
二日目からは、道が、少しずつ似てきた。
朝、荷を数える。歩く。日が傾けば、火を組み、また、荷を数える。同じことの繰り返しが、少しずつ、足の裏に馴染んでいった。
二日目の昼過ぎ、隊が、急に止まった。
先頭にいた弓の護衛が、片手を挙げていた。声は、なかった。ただ、その手ひとつで、荷馬車が三台とも、順に止まった。
僕は、荷馬車の脇に寄って、腰の剣に手を掛けた。何が見えたのかは、分からない。ただ、隊が止まったら、そうするものだ。
弓の護衛は、道のずっと先を見ていた。畑の切れた先、丈の高い草の茂みが、風とは違う順で、揺れていた。
護衛が、矢を一本つがえて、茂みのだいぶ手前の地面へ、射た。
乾いた音がして、土が、小さく跳ねた。
茂みの揺れが、止まった。それから、遠ざかるように、草の穂が、順に傾いで、戻った。
護衛は、しばらくそのまま見ていた。やがて、挙げていた手を、前へ振った。車輪が、また回りはじめた。
「何だったんだ」
運び手の誰かが、聞いた。
弓の護衛は、答えなかった。矢筒に手をやって、数を確かめただけだった。
僕は、剣から手を離して、荷を背負い直した。
二日目の晩は、街道沿いの小さな村で、隊は宿を借りず、村外れの納屋を借りた。頭が、そのほうが安いと言った。藁の匂いの中で、僕は、屋根の下で眠った。
二日、一緒に歩いても、隊が僕に打ち解けた気配は、なかった。飯は分けてくれる。だが、それは仕事のうちだ。夜になれば、男たちは自分らだけで火を囲み、僕は少し外れたところで、荷にもたれて目を閉じた。
目を閉じると、昼の、あの茂みの揺れが戻ってきた。頭が言った「一人多く」を、僕は、もう一度だけ思い出した。
番が回ってきた、ある夜のことだった。
火を落とすと、闇が、思ったより濃かった。虫の声も、風もない。ただ静かで、その静けさが、かえって落ち着かなかった。
護衛のひとりが、槍を抱えたまま、街道の奥を見ていた。何かを警戒しているというより、長年の癖のようだった。
結局、その夜も、何も起きなかった。ただ、あの焼けたという村が、この先のどこかにあると思うと、僕は、火のほうへ薪を一本、足した。
三日目の、夕暮れ近く。
道が、細い川を渡るところだった。浅い瀬で、馬が脚を入れるのを、いやがった。先頭の一頭が、急に首を振り上げて、後ろへ跳ねる。
水の中で、何かが動いたのかもしれない。蛇だったのか、光の加減だったのか、分からない。ただ、馬は耳を伏せて、荷ごと横へ振れた。荷台が、大きく傾く。
「おい――」
「押さえろ、綱を!」
御者が手綱に体重をかける。運び手の一人が、馬の口へ手を伸ばして、弾かれた。馬は白目を剥いて、脚を掻く。荷台の縁が、水面すれすれまで沈んだ。
僕は、荷を下ろしていた。
いつ下ろしたのかは、覚えていない。気づくと、馬の首のほうへ回り込んでいた。走らず、正面にも立たず、斜め前から、ゆっくり。汗と、川の匂いがした。
首の、汗ばんだ毛の上に、手を置く。押さえるのでも、撫でるのでもなく、置いた。もう片方の手で、たてがみの生え際を、軽く握る。馬の目が、僕を見た。
低く、短く、喉の奥だけで音を出す。言葉ではなかった。
馬が、一度、大きく鼻を鳴らした。
それから、脚を、瀬の底へ下ろした。
荷台が、ゆっくりと戻る。水が、車輪の下で跳ねた。
しばらく、誰も、何も言わなかった。
「……おい」
声をかけてきたのは、火のそばで手際を認めた、あの御者だった。
「あんた、何もんだ」
「昔、馬の世話をしていたので」
僕は、そう答えた。
御者は、しばらく僕を見ていた。それ以上は聞かなかったが、その目が、すぐに逸れることもなかった。
頭が、少し離れたところで、縄の結び目に手をかけたまま、こちらを見ていた。目が合う。頭は、何も言わなかった。ただ、視線を、荷のほうへ戻しただけだった。
僕は、下ろした荷を、拾いに戻った。
その晩の火のそばで、また、あの話が出た。
「焼けたっていう村な。二つ先だとよ」
「畑火だろ。この時期、乾いてるからな」
「畑火が、家まで行くかよ」
「じゃあ何だ。付け火か」
「……さあな」
誰も、続けなかった。火の粉が、短く昇って、消えた。
畑火だと言う者と、そうじゃないと言う者がいて、どちらも、それ以上は知らなかった。知らないまま、荷は、その村のほうへ、まっすぐ進んでいる。




