第19話 戻るより、近い
目が覚めたのは、まだ夜のうちだった。
窓の桟の向こうは、藍色にすらなっていない。通りの音もない。屋根の下で、宿だけが低く息をしている。
寝直そうとして、失敗した。三度目で、諦めて起き上がった。
蝋燭に火を移す。
それから、床のリュックを引き寄せて、中身を寝台へあけた。
外套。火打石と火口。針と糸。布袋がふたつ。麻紐。水袋。止血布。包帯。匂い袋。干し肉と、黒パンの残り。
昨日買った鍋が、布に包まれたまま、いちばん下から出てきた。
どれも、いつもの荷だった。数えるまでもない。
それでも僕は、ひとつずつ手に取って、置き直した。
最後に、腰の左前から、コンパスを抜いた。
真鍮の、蓋つき。掌に収まる大きさで、表には細かい傷がいくつも走っている。どれがいつ付いたものかは、もう覚えていない。裏と、内側に、紋様が彫ってある。何を意味しているのかは、知らない。
蓋を開けた。
針が、動いた。
右へ。ゆっくり、左へ。それから、また右へ。
止まらなかった。
蝋燭を近づけて、もう一度見た。針は迷うように振れ続けて、どこにも落ち着かない。
しばらく、それを見ていた。
蓋を閉じる。かちり、と小さな音がした。
――受けるつもりなら、言え。
昨夜のムンドさんの声が、まだ耳の奥にある。決まりごとを読み上げる声だった。
僕は、まだ何も言っていない。
蝋燭の火が、壁の上で小さく揺れた。
次の街のことを、僕は何も知らない。名前も、遠さも、そこに何があるのかも。知っているのは、ここではない、ということだけだ。
それでいい、と思った。
決めるのは、僕だ。
荷を袋へ戻して、蝋燭を吹き消した。
寝直しはしなかった。窓の外が白むまで、寝台の縁に座っていた。
ギルドは、人の匂いより、まだ紙と埃の匂いのほうが濃かった。
依頼板の前に立った。草の買い取り。溝さらい。荷の積み下ろし。見慣れた紙が、見慣れた場所に貼ってある。
荷運びの紙は、無かった。
端から端まで、二度見た。無かった。
カウンターの端で、大きな背中が判を受け取っていた。
ムンドさんだった。その後ろに、オルヴァさん。槍の男。
それから、見たことのない男が一人。
僕が立っていた場所に、その男が立っていた。
「ムンドさん」
背中は、動かなかった。判が、紙に落ちる音がした。
「……受けます。荷運びの口」
ムンドさんは、受注証を受け取ってから、振り返った。
それから、カウンターの奥へ声を投げた。
「メルナ。商会の荷だ。こいつでいい」
羽ペンの音が、止まった。
メルナさんが顔を上げて、僕と、ムンドさんを、順番に見た。
「……あんたが言うなら」
ムンドさんは、それきり扉のほうへ歩き出した。
行き先は、言わなかった。僕も、聞かなかった。
扉のところで、一度だけ足が止まった。
「荷の数は、朝と晩に数えろ」
「はい」
「合わなかったら、その場で言え。黙って探すな」
それだけ言って、彼は出ていった。
メルナさんは、カウンターの引き出しから紙を一枚、抜いた。板からではなかった。
「商会の荷だ。塩と、干し肉と、麻の反物。荷馬車が三台。運び手が四人」
「はい」
「六日でリメンまで。宿場町だよ。街道が分かれるところで、荷はそこから別の隊が引き継ぐ」
リメン。
聞いたことのない名前だった。声には出さずに、口の中でもう一度、転がしてみる。
「報酬は一万二千レム。リメンで払われる。ここでは払わない」
「……はい」
「飯と寝床は隊が出す。六日ぶん、丸ごとだ」
彼女は紙の端を、羽ペンの尻で叩いた。
「この商会は、依頼板には出さない。前に、荷を抜かれてね」
「……盗まれた、ってことですか」
「中から手引きされたのさ」
メルナさんは、そこで一度、僕の顔を見た。
「それからは、名前の分かる者しか使わない」
荷の数は、朝と晩に数えろ。合わなかったら、その場で言え。
――黙って探すな。
扉のほうを、見た。もう、誰もいなかった。
六日で、一万二千レム。
一日ぶんに直せば、この街で草を採るのと、そう変わらない。
でも。
六日ぶんの宿代が、要らない。飯代も、要らない。
そしてその六日で、僕は六日ぶんだけ、東へ行く。
この街で六日待っても、増えるのは千レムで八枚か九枚だ。しかも、街から一歩も動かないまま。
足りない。
六万には、どう転んでも足りない。
「……お願いします」
声が、思っていたより早く出た。
メルナさんは何も言わずに、受注証の紙を引き寄せた。羽ペンが走る。インクの匂いと、紙を擦る音だけが、しばらく続いた。
書き終えて、彼女はペンを置いた。それから、はじめてまっすぐ僕を見た。
「ひとつ言っておくよ」
「はい」
「リメンから先は、ここへ戻るより、次の街のほうが近い」
カウンターの木目を、朝の光が斜めに撫でていた。
「……はい」
「分かってて受けるんだね」
「はい」
メルナさんは、それきり何も言わなかった。判が、紙に落ちた。
受注証を畳んで懐へ入れると、彼女がカウンターの下から、平たい木の箱を出した。
「金は、まとめとくかい」
「……いいんですか」
「その袋、鳴るだろう。街道で鳴る袋は、鳴るだけで値札だよ」
僕は革袋を腰から外して、カウンターへ置いた。
紐を解く指が、思うように動かなかった。
台の上に、中身をあける。
一万レムが二枚。千レムが二十三枚。五百レムが一枚と、百レムが三枚。
メルナさんは指の腹で千レムを寄せて、数え始めた。僕より、ずっと速い。
「手元は、いくら残す」
「……千レムで、十三枚」
宿代がひと晩。明日の朝の飯。あとは、何が起きるか分からない分。
彼女は頷きもせずに、千レムを十枚、数えて脇へ寄せた。
木の台の上で、山がひとつ消えて、かわりに、ひらたい銀の円がひとつ。
先にあった二枚の隣へ並んで、三枚になった。
同じ額のはずだった。
なのに革袋は、掌の上で、ずいぶん静かになった。
「……ありがとうございます」
「仕事のうちだよ」
彼女はもう帳簿に目を戻している。
「次は」
カウンターの声は、もう僕に向いていなかった。
薬屋の戸は、今日も半分だけ開いていた。奥から、薬研の音がする。
「クルサかい」
顔も上げずに、老婆が言った。
「いえ。……街を、出るので」
薬研の音が、止まった。
しばらくして、ルタさんは薄暗い奥から出てきた。腰は少し曲がったままで、白髪をきっちり後ろでまとめている。秤の前に立って、何も載っていない皿を、指で一度だけ弾いた。
「そうかい」
「はい」
「いつ」
「明日の朝です」
ルタさんは、棚へ手を伸ばした。小さな壺を取って、僕の掌へ押しつける。
押しつけるとき、彼女の目は、僕の掌にあった。
「持っていきな」
「……あの、いくら――」
「持っていきなと言ってる」
言い方は柔らかいのに、断る余地はどこにもなかった。第一、この店で値切りが通ったことは一度もない。
栓を、指で少しだけ緩めた。青くさい、覚えのある匂いがした。
「これ……」
「あんたが持ってきた草だよ」
ルタさんは、もう薬研の前に戻っていた。草を刻む音が、また始まる。
「あんたの草はね」
ごり、と薬研が鳴った。
「はじめは、ずいぶんはねたよ」
ごり。ごり。
「秤は、どこでも同じだ。指が乗るのも、同じだよ」
それきり、彼女は何も言わなかった。
戸口をくぐる前に、僕はもう一度、頭を下げた。
顔を上げると、ルタさんがこちらを見ていた。薬研の柄を握ったまま、動かさずに。
目が合ったのは、たぶん、初めてだった。
昼、宿の食堂の隅で、デュランさんが槍の穂先を布で拭っていた。
僕が向かいの椅子を引くと、彼は目だけを寄越した。
「聞いたぞ。商会の荷、お前が持ってったって」
「はい」
「リメンまでか」
「はい」
布が、穂先の上で一往復した。
「……で、戻るのか」
「……いえ」
デュランさんは、それきり黙った。
僕は椀に口をつけた。煮込みは、いつもの味だった。
「どこも同じだ、って言ったよな。俺は」
「……はい」
「取り消さねえよ」
彼は布を置いて、指で卓を二度、叩いた。
「街道の東は、水が悪い。井戸のある村で汲め。沢の水を、そのまま飲むな。腹を下したら、六日の荷なんざ運べねえ」
「はい」
「リメンの宿は高い。街道が分かれるところは、どこもそうだ。隊が寝床を出すなら、隊から離れるな」
僕は頷いた。返事をするより先に、身体が覚えようとしていた。
「……ありがとうございます」
デュランさんは椀に手を伸ばした。一口すすって、また布を取る。
僕は、自分の椀を見た。
「リメンの先は、どうなってるんですか」
布が、止まった。
「……知らん」
匙を持った僕の手が、宙で止まっていた。
スープが、匙の縁から一滴、椀へ落ちた。
「若い頃に、この辺りは回った。北も、南も。どこも同じだった」
デュランさんは、また穂先を拭き始めた。
穂先は、もう十分に光っていた。
「リメンから先は、行ってねえ」
布が、また止まる。
「……見てこい」
それだけだった。
彼はもう、こちらを見なかった。
夜、宿の帳場で、エルマさんが帳面をつけていた。
「明日、出ます」
女将は、帳面から顔を上げなかった。
「あいよ」
僕は宿代を出した。千レムが六枚。彼女は数えもせずに引き寄せて、帳面をめくった。
羽ペンの先が、ある行の上で止まる。
僕の名前だった。
エルマさんは、そこへ線を一本、引いた。定規も当てずに、まっすぐな線だった。
それから、顔を上げた。
僕の顔を、見た。目の下と、口の端と、外套の肩のあたりまで。帰りの遅かった日に、いつもされていたのと同じ見方だった。
最後に、目が、僕の背中のリュックで止まった。
止まって、しばらく動かなかった。
彼女は帳面を閉じて、羽ペンをインク壺へ戻した。立ち上がる。
厨房のほうへ、二歩。
足が、止まった。
「……お世話になりました」
「あいよ」
エルマさんは、振り返らずに、厨房の奥へ消えた。
部屋で、一万レムを三枚、寝台に並べた。
一枚を、ブーツの中敷きの下へ滑り込ませる。踵で踏んで、位置を確かめた。歩いても、当たらない。
一枚を、外套の裾へ。縫い目を短く解いて、布の間へ落とし込む。針に糸を通して、縫い直した。糸は、外套と同じ色を選んだ。
縫い終えて、裾を指で摘む。硬いものが、布の厚みの中にある。探らなければ、分からない。
これは、すぐには出せない。
最後の一枚だけを、革袋の底に沈めて、上から百レムを被せた。
灯りを消して、寝台に横になった。
窓の隙間から、いつもの夜気が入ってくる。隣の鼾も、通りの喧騒も、明日からは無い。
目を閉じると、メルナさんの声がした。
――リメンから先は、ここへ戻るより、次の街のほうが近い。
分かっている。
分かって、受けた。
朝いちばん。
東の街門の前に、荷馬車が三台。鼻息の白い馬が、幌の油布の匂いの中で、足踏みをしている。
塩の袋は、乾いて重い。麻の反物は思ったより固くて、抱えると角が肩に当たった。積むたびに、荷台がわずかに沈む。
「お前が、紹介のか」
荷台の縁に腰かけた男が、僕を見下ろして言った。四十絡みの、日に焼けた男だ。隊の頭らしい。手は、荷を締める縄の結び目を、順に確かめている。
「はい。ノアです」
「六日だ。飯は出る。夜は交代で見張る。手ぶらで歩けると思うな」
「はい」
男は僕の背中の荷を一瞥して、それから、御者のほうへ顎をしゃくった。
「今回は、運び手を一人多く取った」
縄を締め直す手は、止まらなかった。
「……そうなんですか」
「そうだ」
それだけだった。理由は言わなかったし、僕も聞かなかった。
先頭の荷馬車で、検めが始まっていた。
衛兵が書き付けを片手に幌をめくり、塩の袋の口を拳で二度、叩く。乾いた音がした。
僕は、列の中に立っていた。
順番が来て、受注証を出す。
いつもの衛兵が、それを覗き込んだ。
「また草刈りか」
目が、紙の行を追って下りていく。
止まった。
「……リメンまで」
「はい」
衛兵は書き付けの束を開いた。出た者の数を数えている。いつもの動きだった。
「戻りは」
「……戻りません」
ペンが、紙の上で止まった。
衛兵は、書き付けを閉じた。
何も、書かなかった。
受注証を返す手が、僕の掌に触れた。それだけだった。
彼は、次の男へ顎をしゃくった。
荷馬車が動き出す。
轍が石畳を離れて土の道に乗ると、車輪の音が急に低く、柔らかくなった。
僕は一度だけ振り返った。
ハルヴェンの街門が、朝の光の中で四角く立っている。その向こうに、ギルドの屋根と、宿の煙突と、この通りでいちばん背の高い建物の白い壁が、重なって見えた。
街道は、まっすぐ東へ伸びていた。
いつか、外套の一団が消えていった方角だ。
どこも同じだ、とデュランさんは言った。取り消さない、とも言った。
同じかどうかは、この目で見てから決める。
六万には、届かなかった。
僕が、決めた数字だ。
外套の下で、縫い込んだ銀が、脇腹に硬く当たった。
僕はコンパスを抜いて、蓋を開けた。
針は、まだ揺れていた。
右へ。左へ。
蓋を閉じて、腰の左前へ戻す。
荷馬車の轍を追って、僕は東へ歩き出した。




