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僕の世界  作者: 0u0
第一章
25/27

第19話 戻るより、近い

 目が覚めたのは、まだ夜のうちだった。


 窓のさんの向こうは、藍色あいいろにすらなっていない。通りの音もない。屋根の下で、宿だけが低く息をしている。

 寝直そうとして、失敗した。三度目で、諦めて起き上がった。


 蝋燭ろうそくに火を移す。

 それから、床のリュックを引き寄せて、中身を寝台へあけた。


 外套がいとう。火打石と火口ほくち。針と糸。布袋がふたつ。麻紐あさひも。水袋。止血布。包帯。におい袋。干し肉と、黒パンの残り。

 昨日買った鍋が、布に包まれたまま、いちばん下から出てきた。


 どれも、いつもの荷だった。数えるまでもない。

 それでも僕は、ひとつずつ手に取って、置き直した。


 最後に、腰の左前から、コンパスを抜いた。


 真鍮しんちゅうの、ふたつき。てのひらに収まる大きさで、表には細かい傷がいくつも走っている。どれがいつ付いたものかは、もう覚えていない。裏と、内側に、紋様もんようが彫ってある。何を意味しているのかは、知らない。


 蓋を開けた。


 針が、動いた。

 右へ。ゆっくり、左へ。それから、また右へ。


 止まらなかった。


 蝋燭を近づけて、もう一度見た。針は迷うように振れ続けて、どこにも落ち着かない。

 しばらく、それを見ていた。


 蓋を閉じる。かちり、と小さな音がした。


 ――受けるつもりなら、言え。


 昨夜のムンドさんの声が、まだ耳の奥にある。決まりごとを読み上げる声だった。

 僕は、まだ何も言っていない。


 蝋燭の火が、壁の上で小さく揺れた。

 次の街のことを、僕は何も知らない。名前も、遠さも、そこに何があるのかも。知っているのは、ここではない、ということだけだ。


 それでいい、と思った。


 決めるのは、僕だ。


 荷を袋へ戻して、蝋燭を吹き消した。

 寝直しはしなかった。窓の外が白むまで、寝台のふちに座っていた。



 ギルドは、人の匂いより、まだ紙とほこりの匂いのほうが濃かった。


 依頼板いらいばんの前に立った。草の買い取り。溝さらい。荷の積み下ろし。見慣れた紙が、見慣れた場所に貼ってある。


 荷運びの紙は、無かった。

 端から端まで、二度見た。無かった。


 カウンターの端で、大きな背中が判を受け取っていた。


 ムンドさんだった。その後ろに、オルヴァさん。やりの男。

 それから、見たことのない男が一人。


 僕が立っていた場所に、その男が立っていた。


「ムンドさん」


 背中は、動かなかった。判が、紙に落ちる音がした。


「……受けます。荷運びの口」


 ムンドさんは、受注証を受け取ってから、振り返った。

 それから、カウンターの奥へ声を投げた。


「メルナ。商会の荷だ。こいつでいい」


 羽ペンの音が、止まった。

 メルナさんが顔を上げて、僕と、ムンドさんを、順番に見た。


「……あんたが言うなら」


 ムンドさんは、それきり扉のほうへ歩き出した。

 行き先は、言わなかった。僕も、聞かなかった。


 扉のところで、一度だけ足が止まった。


「荷の数は、朝と晩に数えろ」

「はい」

「合わなかったら、その場で言え。黙って探すな」


 それだけ言って、彼は出ていった。



 メルナさんは、カウンターの引き出しから紙を一枚、抜いた。板からではなかった。


「商会の荷だ。塩と、干し肉と、麻の反物たんもの。荷馬車が三台。運び手が四人」

「はい」

「六日でリメンまで。宿場町だよ。街道が分かれるところで、荷はそこから別の隊が引き継ぐ」


 リメン。

 聞いたことのない名前だった。声には出さずに、口の中でもう一度、転がしてみる。


「報酬は一万二千レム。リメンで払われる。ここでは払わない」

「……はい」

「飯と寝床は隊が出す。六日ぶん、丸ごとだ」


 彼女は紙の端を、羽ペンの尻でたたいた。


「この商会は、依頼板には出さない。前に、荷を抜かれてね」

「……盗まれた、ってことですか」

「中から手引きされたのさ」


 メルナさんは、そこで一度、僕の顔を見た。


「それからは、名前の分かる者しか使わない」


 荷の数は、朝と晩に数えろ。合わなかったら、その場で言え。

 ――黙って探すな。


 扉のほうを、見た。もう、誰もいなかった。



 六日で、一万二千レム。

 一日ぶんに直せば、この街で草を採るのと、そう変わらない。


 でも。


 六日ぶんの宿代が、要らない。飯代も、要らない。

 そしてその六日で、僕は六日ぶんだけ、東へ行く。


 この街で六日待っても、増えるのは千レムで八枚か九枚だ。しかも、街から一歩も動かないまま。


 足りない。

 六万には、どう転んでも足りない。


「……お願いします」


 声が、思っていたより早く出た。


 メルナさんは何も言わずに、受注証の紙を引き寄せた。羽ペンが走る。インクの匂いと、紙を擦る音だけが、しばらく続いた。


 書き終えて、彼女はペンを置いた。それから、はじめてまっすぐ僕を見た。


「ひとつ言っておくよ」

「はい」

「リメンから先は、ここへ戻るより、次の街のほうが近い」


 カウンターの木目を、朝の光が斜めにでていた。


「……はい」

「分かってて受けるんだね」

「はい」


 メルナさんは、それきり何も言わなかった。判が、紙に落ちた。



 受注証を畳んで懐へ入れると、彼女がカウンターの下から、平たい木の箱を出した。


「金は、まとめとくかい」

「……いいんですか」

「その袋、鳴るだろう。街道で鳴る袋は、鳴るだけで値札だよ」


 僕は革袋を腰から外して、カウンターへ置いた。

 紐を解く指が、思うように動かなかった。


 台の上に、中身をあける。

 一万レムが二枚。千レムが二十三枚。五百レムが一枚と、百レムが三枚。


 メルナさんは指の腹で千レムを寄せて、数え始めた。僕より、ずっと速い。


「手元は、いくら残す」

「……千レムで、十三枚」


 宿代がひと晩。明日あしたの朝の飯。あとは、何が起きるか分からない分。

 彼女はうなずきもせずに、千レムを十枚、数えて脇へ寄せた。


 木の台の上で、山がひとつ消えて、かわりに、ひらたい銀の円がひとつ。

 先にあった二枚の隣へ並んで、三枚になった。


 同じ額のはずだった。

 なのに革袋は、掌の上で、ずいぶん静かになった。


「……ありがとうございます」

「仕事のうちだよ」


 彼女はもう帳簿に目を戻している。


「次は」


 カウンターの声は、もう僕に向いていなかった。



 薬屋の戸は、今日も半分だけ開いていた。奥から、薬研やげんの音がする。


クルサ(止血草)かい」


 顔も上げずに、老婆が言った。


「いえ。……街を、出るので」


 薬研の音が、止まった。


 しばらくして、ルタさんは薄暗い奥から出てきた。腰は少し曲がったままで、白髪をきっちり後ろでまとめている。はかりの前に立って、何も載っていない皿を、指で一度だけはじいた。


「そうかい」

「はい」

「いつ」

「明日の朝です」


 ルタさんは、棚へ手を伸ばした。小さなつぼを取って、僕の掌へ押しつける。

 押しつけるとき、彼女の目は、僕の掌にあった。


「持っていきな」

「……あの、いくら――」

「持っていきなと言ってる」


 言い方は柔らかいのに、断る余地はどこにもなかった。第一、この店で値切りが通ったことは一度もない。


 栓を、指で少しだけ緩めた。青くさい、覚えのある匂いがした。


「これ……」

「あんたが持ってきた草だよ」


 ルタさんは、もう薬研の前に戻っていた。草を刻む音が、また始まる。


「あんたの草はね」


 ごり、と薬研が鳴った。


「はじめは、ずいぶんはねたよ」


 ごり。ごり。


「秤は、どこでも同じだ。指が乗るのも、同じだよ」


 それきり、彼女は何も言わなかった。


 戸口をくぐる前に、僕はもう一度、頭を下げた。

 顔を上げると、ルタさんがこちらを見ていた。薬研のを握ったまま、動かさずに。


 目が合ったのは、たぶん、初めてだった。



 昼、宿の食堂の隅で、デュランさんが槍の穂先を布でぬぐっていた。

 僕が向かいの椅子を引くと、彼は目だけを寄越した。


「聞いたぞ。商会の荷、お前が持ってったって」

「はい」

「リメンまでか」

「はい」


 布が、穂先の上で一往復した。


「……で、戻るのか」

「……いえ」


 デュランさんは、それきり黙った。

 僕はわんに口をつけた。煮込みは、いつもの味だった。


「どこも同じだ、って言ったよな。俺は」

「……はい」

「取り消さねえよ」


 彼は布を置いて、指で卓を二度、叩いた。


「街道の東は、水が悪い。井戸のある村でめ。沢の水を、そのまま飲むな。腹を下したら、六日の荷なんざ運べねえ」

「はい」

「リメンの宿は高い。街道が分かれるところは、どこもそうだ。隊が寝床を出すなら、隊から離れるな」


 僕はうなずいた。返事をするより先に、身体が覚えようとしていた。


「……ありがとうございます」


 デュランさんは椀に手を伸ばした。一口すすって、また布を取る。

 僕は、自分の椀を見た。


「リメンの先は、どうなってるんですか」


 布が、止まった。


「……知らん」


 さじを持った僕の手が、宙で止まっていた。

 スープが、匙の縁から一滴、椀へ落ちた。


「若い頃に、この辺りは回った。北も、南も。どこも同じだった」


 デュランさんは、また穂先を拭き始めた。

 穂先は、もう十分に光っていた。


「リメンから先は、行ってねえ」


 布が、また止まる。


「……見てこい」


 それだけだった。

 彼はもう、こちらを見なかった。



 夜、宿の帳場で、エルマさんが帳面をつけていた。


明日あした、出ます」


 女将おかみは、帳面から顔を上げなかった。


「あいよ」


 僕は宿代を出した。千レムが六枚。彼女は数えもせずに引き寄せて、帳面をめくった。

 羽ペンの先が、ある行の上で止まる。


 僕の名前だった。


 エルマさんは、そこへ線を一本、引いた。定規も当てずに、まっすぐな線だった。


 それから、顔を上げた。

 僕の顔を、見た。目の下と、口の端と、外套の肩のあたりまで。帰りの遅かった日に、いつもされていたのと同じ見方だった。


 最後に、目が、僕の背中のリュックで止まった。

 止まって、しばらく動かなかった。


 彼女は帳面を閉じて、羽ペンをインク壺へ戻した。立ち上がる。

 厨房ちゅうぼうのほうへ、二歩。


 足が、止まった。


「……お世話になりました」

「あいよ」


 エルマさんは、振り返らずに、厨房の奥へ消えた。



 部屋で、一万レムを三枚、寝台に並べた。


 一枚を、ブーツの中敷きの下へ滑り込ませる。かかとで踏んで、位置を確かめた。歩いても、当たらない。


 一枚を、外套の裾へ。い目を短く解いて、布の間へ落とし込む。針に糸を通して、縫い直した。糸は、外套と同じ色を選んだ。

 縫い終えて、裾を指でつまむ。硬いものが、布の厚みの中にある。探らなければ、分からない。

 これは、すぐには出せない。


 最後の一枚だけを、革袋の底に沈めて、上から百レムをかぶせた。


 灯りを消して、寝台に横になった。

 窓の隙間すきまから、いつもの夜気が入ってくる。隣のいびきも、通りの喧騒けんそうも、明日からは無い。


 目を閉じると、メルナさんの声がした。


 ――リメンから先は、ここへ戻るより、次の街のほうが近い。


 分かっている。

 分かって、受けた。



 朝いちばん。


 東の街門の前に、荷馬車が三台。鼻息の白い馬が、ほろの油布の匂いの中で、足踏みをしている。


 塩の袋は、乾いて重い。麻の反物は思ったより固くて、抱えると角が肩に当たった。積むたびに、荷台がわずかに沈む。


「お前が、紹介のか」


 荷台の縁に腰かけた男が、僕を見下ろして言った。四十絡よんじゅうがらみの、日に焼けた男だ。隊の頭らしい。手は、荷を締める縄の結び目を、順に確かめている。


「はい。ノアです」

「六日だ。飯は出る。夜は交代で見張る。手ぶらで歩けると思うな」

「はい」


 男は僕の背中の荷を一瞥いちべつして、それから、御者ぎょしゃのほうへあごをしゃくった。


「今回は、運び手を一人多く取った」


 縄を締め直す手は、止まらなかった。


「……そうなんですか」

「そうだ」


 それだけだった。理由は言わなかったし、僕も聞かなかった。



 先頭の荷馬車で、あらためが始まっていた。

 衛兵が書き付けを片手に幌をめくり、塩の袋の口をこぶしで二度、叩く。乾いた音がした。


 僕は、列の中に立っていた。


 順番が来て、受注証を出す。

 いつもの衛兵が、それをのぞき込んだ。


「また草刈りか」


 目が、紙の行を追って下りていく。

 止まった。


「……リメンまで」

「はい」


 衛兵は書き付けの束を開いた。出た者の数を数えている。いつもの動きだった。


「戻りは」

「……戻りません」


 ペンが、紙の上で止まった。


 衛兵は、書き付けを閉じた。

 何も、書かなかった。


 受注証を返す手が、僕の掌に触れた。それだけだった。

 彼は、次の男へ顎をしゃくった。



 荷馬車が動き出す。

 わだちが石畳を離れて土の道に乗ると、車輪の音が急に低く、柔らかくなった。


 僕は一度だけ振り返った。


 ハルヴェンの街門が、朝の光の中で四角く立っている。その向こうに、ギルドの屋根と、宿の煙突と、この通りでいちばん背の高い建物の白い壁が、重なって見えた。


 街道は、まっすぐ東へ伸びていた。

 いつか、外套の一団が消えていった方角だ。


 どこも同じだ、とデュランさんは言った。取り消さない、とも言った。

 同じかどうかは、この目で見てから決める。


 六万には、届かなかった。

 僕が、決めた数字だ。


 外套の下で、縫い込んだ銀が、脇腹に硬く当たった。


 僕はコンパスを抜いて、蓋を開けた。


 針は、まだ揺れていた。

 右へ。左へ。


 蓋を閉じて、腰の左前へ戻す。


 荷馬車の轍を追って、僕は東へ歩き出した。

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