幕間 ドブさらい
あいつの名前は、ドブだった。
溝で拾われたら、ドブだ。おれが拾われたときは、もうドブがいた。だから、コドブになった。
ドブは、字が読めた。
どこで覚えたのかは知らない。貼り紙の前で足を止めて、模様の並びを目でなぞるやつだった。おれたちは、そんなもの見ない。見たって、模様だ。
ある朝、いなくなった。
出ていったんだろう、と誰かが言った。
ここでは、いなくなったやつのことを、そう言う。
うまくやったらしい、と聞いたのは、ずっとあとだ。
どこかの店に入って、まっとうな仕事について、名前を買ったんだと。
金を出して、紙に書いてもらうんだと。
誰から聞いたのかは、覚えていない。
この前、市場の向こうにいた。
いい上着を着て、荷の帳面を持って、人としゃべっていた。顔は、ドブだった。おれは間違えない。あの顎の形だ。
だから、呼んだ。
ドブ、と。
隣にいた小さいガキが、振り向いた。
おれは、口を閉じた。
もう一度呼ぼうとして、あいつを呼ぶ名前が、おれにはないと気づいた。
あいつはこっちを見なかった。人混みの向こうへ歩いていって、それきりだ。
聞こえなかったのかもしれない。人違いだったのかもしれない。
確かめる方法は、ない。
春に、溝から一人、引き上げられた。
顔は分からなかった。誰かが名前を言って、誰かが違うと言って、それきりだ。
その名前は、次の日には空いていた。
出ていったやつは、帰ってこない。
おれも、いつか出たい。
――スラムの、ある子どもの声




