第18話 名前が字になる
朝飯は、依頼板を見てからにする。今日も、人の壁だった。
肩と肩の隙間から、紙の端だけが見える。採取、荷運び、害獣。いつもの並びだ。列の後ろで、僕は背伸びをして、字の読める一枚を探していた。
「おい、ノア」
人の壁の向こうから、声が飛んだ。
振り向くと、受付のメルナさんが帳簿から顔を上げていた。手招きの代わりに、羽ペンの尻で台をこつりと叩く。
人の間を横に抜けて、台へ行った。
「あんた宛だよ」
一枚の紙が、指の背で押し出される。
「宛……ですか」
「依頼主が、名前で寄越した。薬屋のルタさんだ」
紙を受け取る。
クルサ、十束。汁の濃いもの。三日以内。報酬、一万レム。
依頼主の欄に、たしかに僕の名前が書き添えてあった。字は、細くて古い形をしている。あの老婆が、自分の手で書いたのだろう。
「……いいんですか、僕で」
「あたしが決めたんじゃない。向こうが名指したんだ」
メルナさんは判を押し、受注証を寄越した。
「一般の枠だよ。急に偉くなったわけじゃない」
「はい」
紙を畳んで、懐へ入れる。革袋の紐を締め直す指が、いつもより少し早く動いていた。
板の前を通って出口へ向かうと、槍の穂先が人の頭の上に出ていた。デュランさんだ。古株の槍使いは、紙の並びを睨んだまま、僕の手元の受注証に目だけを寄越した。
「名指しか」
「はい」
髭の白いところが、前より増えたように見えた。この街で十年やっている男が、板の紙をもう一度見上げる。
「……十年やってても、来ねえ奴には来ねえ」
嫌味の声ではなかった。自嘲でもなかった。ただ、そうだと言っただけの声だった。
何かを返さなければと思って、口を開いて、何も出てこなかった。
デュランさんは、もう板のほうを見ていた。
東の門で、衛兵が受注証を覗き込んだ。
「また草刈りか」
「はい」
目が、紙の下のほうで止まった。
「……ほう」
それだけだった。判を確かめて、記録の帳面に何か書きつけて、顎で外を示す。
門を抜けると、街道が朝陽に光っていた。昨日の雨で地面が湿って、藁と土の匂いが濃い。歩きにくい道だ。
クルサには、いい。
川沿いの裾は水を含んでいたから、上へ登った。
汁の濃いクルサは、日の当たらない、湿った土に出る。木立の陰が一日じゅう落ちているところ。土手の張り出しの下。石の北側。
膝をついて、一株目の茎を折った。切り口から、赤いものが盛り上がってくる。指の腹で受けると、重い。
濃い。
布袋の口を開けた。
束にするには、根元を揃えて、同じ向きに寝かせる。ギルドの秤は束の数しか見ないが、あの老婆の秤は、そうではない。掌の上で三呼吸ころがして、傷んだ葉を容赦なくはねる。
だから、はねられない葉だけを摘む。
二束、三束。腰を伸ばすたび、川の音が近くなったり遠くなったりした。四束目の途中で、指の背が痒くなって、水際まで下りて汁を洗った。冷たい。手首まで浸けて、そのまま少し、流れを見ていた。
水を打つ音が、頭の上でした。
顔を上げる。
張り出した枝に、山鳩が一羽、下りたところだった。首を二度、前へ送っている。こちらを見ていない。
――山鳩の羽、いいのが出たら回してくれ。
火を挟んで、矢の羽を巻き直していた男の手つきが、浮かんだ。
足元の石を、見ずに拾った。角の丸い、掌に収まるやつ。
息を、合わせる。
投げた。
羽音より先に、落ちた。
拾い上げると、まだ温かい。首の骨に指を当ててから、羽を確かめる。風切羽の軸に、汚れも折れもない。
「……ごめん」
小さく言って、腰の紐へ提げた。
一羽ぶんの羽を、掌の上で数えてみる。矢羽になるのは、風切と尾羽の、それも軸の生きたものだけだ。矢は減る。減れば、また要る。
これでは、足りないだろう。
河原の石を、二つ拾った。血の匂いを水で流して、しゃがむ場所を川上へ移す。枝の風下だ。
クルサは、ここからでも摘める。
待つのは、苦じゃない。
二羽目は、日が高くなってから来た。三羽目は、その半刻あとだ。
三羽とも、石ひとつで済んだ。羽は、汚していない。
クルサは、日が傾く前に十束と、少し余った。
街へ戻ったのは、門が閉まる少し前だった。
薬屋の軒先には、いつものように干し草が吊るされている。奥で、薬研の擦れる音がしていた。
束を台に並べると、音が止まった。
ルタさんが出てくる。老いた指が、一束目に伸びた。
掌の上で、ころがす。三呼吸。次の束。三呼吸。
全部が終わるまで、老婆は一言も喋らなかった。僕も、黙って立っていた。
はねられた葉は、なかった。
「まあ、こんなもんだろうね」
「あの」
言ってから、聞くべきかどうか、少し迷った。
「どうして、僕に」
ルタさんは秤の皿を布で拭きながら、こちらを見もしなかった。
「傷んだ葉を持ってこないからだよ」
皿を裏返して、もう一度拭く。
「それだけさ。他に、何があるんだい」
何もなかった。
秤に小指がかかっていないか、つい見てしまう。今日は、かかっていなかった。
「クルサは、また持っておいで」
前と同じ台詞を置いて、老婆は奥へ引っ込んだ。薬研の音が、また鳴りはじめる。
外に出ると、通りの灯りが、もう点いていた。
ギルドの納品台で、職員は山鳩の胸の張りだけを見て、五百レムを三枚寄越した。羽のことは、何も言われなかった。
台の隅で、羽を自分で抜いた。風切と、尾羽。軸の根元から、順番に。布に包む。
「弓の人は」
職員は、顎で通りの向こうを示した。あの隊が使う酒場の方角だった。
扉の外まで、笑い声が来ていた。
中には入らずに、戸口の脇で待った。しばらくして、桶を提げた弓の男が出てきた。僕を見て、足が止まる。
「約束の、羽です」
布を開いて、差し出した。
男は桶を地面に置いて、束の上から一枚、抜き取った。
軒の灯りに、透かす。
――それきり、動かなくなった。
指が、軸の根元をなぞる。裏返す。もう一枚抜いて、同じことをする。三枚目で、透かすのをやめた。
「どうやって獲った」
「石を、投げました」
「石」
「はい」
男は、僕の顔を見た。いつもの、何も言わない目ではなかった。
何か言われるのだろうと思って、待った。
男は布ごと羽を受け取り、腰の革袋を探って、五百レムを二枚、僕の掌に落とした。
「銭は出すと言った」
「はい。ありがとうございます」
男は羽を脇に挟み、桶を持ち上げた。行きかけて、足が止まる。
「オルヴァだ」
それだけだった。名を置いて、井戸のほうへ歩いていく。
扉が開いて、店の湯気と声が路地へこぼれた。ムンドさんの盾が、戸口の枠をほとんど塞いでいる。
「ノア」
名前を、呼ばれた。
「はい」
「荷運びの口がある。ギルドに、紹介の要るやつが」
決まりごとを読み上げる声だった。
「受けるつもりなら、言え」
「……ありがとうございます」
ムンドさんは頷きもせずに、中へ戻った。
扉が閉まって、また、笑い声だけになった。
金物屋は、板戸を一枚下ろしたところだった。
棚は、前と同じ列だ。小鎌の並びの、隣。
新しい鍋は、二千レム。表の光が均していて、綺麗だ。
その隣に、古いのが積んである。千五百レム。
一枚ずつ、持ち上げた。
鋳掛けの跡があるやつは、置く。底の中央が薄くなっているやつも、置く。三枚目の縁を指で弾くと、音が詰まって短かった。置く。
四枚目は、澄んだ音がした。
底の厚みが均しい。錆は表面だけだ。焦げは深いが、それは前の持ち主が毎日使った跡で、鉄の話ではない。
「それにするのか」
店主が、板戸を抱えたまま言った。
「はい。これで」
「いちばん見場の悪いのを選ぶな」
「……音が、良かったので」
店主は、僕の手の中の鍋をしばらく見ていた。
「ほう」
それだけ言って、五百レムを三枚、受け取った。
鍋を布に包んで、リュックの外へ縛りつける。歩くと、腰のあたりで硬い重さが揺れた。今までの荷より、たしかに重い。
宿の帳場で、エルマさんが顔を上げた。
「遅いよ」
「すみません。納品が長くて」
女将は帳面に何か書きつけて、それきり顔を上げない。僕がリュックの鍋を下ろした音で、目だけが一度、こちらへ来た。何も言われなかった。
部屋で、革袋の中身を寝台へあけた。
一万レムが二枚。千レムが二十三枚。五百レムが一枚と、百レムが三枚。
数える。もう一度、数える。
六万には、まだ遠い。宿代にすれば、二つか三つぶんが、まだ足りない。
今日はよく稼いだ日だ。それでも、足りないぶんのほうが、ずっと大きい。
硬貨を革袋へ戻して、口の紐を締めた。
窓の下を、酔った足音が通り過ぎていく。
誰かが、僕の名前を書いた。誰かが、僕の名前を呼んだ。
嬉しくなかったと言えば、嘘になる。腹の底が、まだ少し温かい。街に来てから、こんな日は、なかった。
窓の桟に肘をついて、しばらく、通りの灯りを見ていた。
――荷運びの口。
ギルドの紹介が要る仕事だ。板には出ない。言いに行かなければ、無いのと同じだ。
行き先は、聞いていない。
……明日。
部屋の隅で、布に包んだ鍋が、荷の形をして黒く光っていた。




