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僕の世界  作者: 0u0
第一章
22/27

第17話 暗い方へ

 依頼板いらいばんの前は、もう肩の触れ合う混みようだった。それでも、人より紙のにおいが先に立つ。

 貼りたての紙の乾いた匂いの下に、湿しめって古くなった紙の匂いが折り重なっている。僕は列の後ろから、今日の一枚を探していた。

 板の端に、寄りかかる男がいた。小柄で、肉の薄い体つき。歳は、古株のデュランさんと同じくらいか。日に焼けた手の甲に、細かい古傷が白く残っている。寄りかかるというより、板に体を預けて、腰を浮かせていた。

「ヤブだ」

 声は後ろから来た。振り向くと、ムンドさんの盾が通路を半分(ふさ)いでいる。

「先日の、補助の」

 紹介はそれで終わりだった。ムンドさんは受付のほうへ行ってしまい、残された男が、にっと笑う。よく通る、軽い声だった。

「あんたか。俺の穴、埋めてくれたってのは」

 ヤブと呼ばれた男は、よくしゃべった。腰は板一枚の高さをしくじった、医者は歩けと言う、歩くと響く、響くから飲む――順番がおかしい気がしたが、口を挟む隙がなかった。

「で、礼がまだだ。今夜、一杯付き合え。おごる」

 断る理由が、見つからなかった。

「……ごちそうになります」

「よし」

 受付から戻ってきた隊とすれ違う。ムンドさんの隊の弓の男が、行きがけに言った。

山鳩やまばとの羽、忘れんなよ」

「はい」


 昼は、遠くへ行かなかった。北の裏斜面の手前で薬草をつまみ、土の湿りが指先に残るうちに、日の傾く前の街へ戻った。

 部屋で、革袋の中身をふたつに分ける。革の小袋へ百レムを数えて移し、千レムは一枚だけ。残りは布で包み直して、懐の奥へ入れた。


 店は、東の通りの角にあった。先日、扉の外から笑い声だけを聞いた店だ。扉を押すと、油の灯りと煮込にこみの湯気ゆげと人の声が、まとめて顔に当たった。外より、空気が二枚ぶん厚い。

 ヤブさんは飲みながらも、よく喋った。ムンドは頭が固い、けど仕事は硬い、俺の型をいまだに守ってやがる――そこで笑って、響いたのか、顔をしかめて腰を押さえた。

「そういや、聞いたぜ。妙な結びをする助っ人が居たって」

「……教わったのは、僕のほうです」

「そうかい」

 煮込みは豆が多くて、肉は少なかった。うまかった。うまいです、と言うと、ヤブさんは「だろ」と、自分の手柄みたいに笑った。

 果実酒は、薄いのを頼んだ。杯のふちが、手の中でぬるくなっていく。注がれれば口はつける。減るのは、話の切れ目だけでいい。

 隅の卓から声が飛んだのは、二杯目の途中だった。

「ヤブ! 腰は駄目でも、さいなら振れんだろ」

「振れるとも」

 立ち上がるのに、卓へ手をついていた。

 骨の賽をふたつ振って、出目の高いほうが百レムを取る。それだけの単純な賭けだ。座らされて、僕も百レムから付き合った。

 賽は使い込まれて、角が丸い。木の卓に落ちると、乾いた軽い音がする。小銭が寄せられ、擦れて、また散った。

 負けて、負けて、時々勝った。

「兄ちゃん、今日はツイてるな」

「ありがとうございます」

 誰かが笑い、卓が揺れて、賽が転がる。一度だけ、ヤブさんの目がこちらの手元で止まった。賽を置く、指の先で。すぐに、軽口が戻ってきた。

 終わってみれば、手元の百レムは十枚と少し、増えていた。てのひらに、賽の粉っぽさが残っている。

 かわやに立ったついでに、それを親父(おやじ)の掌へ押し込んだ。親父は掌を見て、僕を見て、何も言わずに前掛けへ落とした。


 外へ出ると、夜の風は、店の中より薄くて冷たかった。

 どこかでかんぬきの落ちる音がして、窓のあかりがひとつ消える。別の路地から、調子の外れた歌が渡ってきた。灯りより、声の多い夜だった。

「もう一軒」

 ヤブさんの足は、迷いなくひとつの角へ向いていた。示された先――通りの向こうで、灯りの色が変わっている。油のだいだいではない。赤みがかった、ぬるい色。灯りは石畳いしだたみめて、そこだけ夜が温く見えた。風に乗って、白粉おしろいと香油の匂いがする。女の笑い声。誰かを呼ぶ、歌うような声。昼の市場の笑いより、ずっとゆっくりした笑いだった。

 何の通りかは、聞くまでもなかった。

ねえさんたちの顔を見て帰る。あんたも来るか」

「僕は、明日あしたも早いので」

「なんだ、初心うぶか」

 ヤブさんは声を立てて笑い、それ以上は誘わなかった。

「妙な助っ人だ。ま、ムンドの言った通りか」

 何と言われていたのか、聞く前に、ヤブさんは片手を上げて歩き出していた。ごちそうさまでした、と背中に言うと、上げた手だけが返事をした。

 その背中は赤い灯りのほうへ溶けて、僕は、灯りの薄いほうへ歩き出した。


 軒の灯りが、数えられるほどまばらになる。ひとつ過ぎるたび、自分の足音が大きくなった。石畳の冷えが、靴の底から上がってくる。赤い通りの声は、もう届かない。

 怒鳴り声は、角の先からした。ふたつ、絡まっている。

 冒険者だった。腰の剣はどちらもさやの中で、つかみ合い。千鳥足のぶつかり合いだから、見た目ほどこぶしは届いていない。人垣が薄く出来かけて、その後ろから、おけを抱えたばあさんが来る。

 僕は、壁に立てかけてあった空きたるをふたつ、軒の下へ引いた。空いたほうに体を置いて、婆さんを先に通す。婆さんは、僕を見もしなかった。

 組み合ったまま、片方が屋台の棚に突っ込んだ。板の割れる音が、路地の壁に跳ねる。

 角の向こうで灯りが揺れて、衛兵の声がした。

 僕は暗いほうへ折れた。名前を聞かれる並びに、立っていたくはなかった。


 翌朝。

 き水と朝の白い光で、通りは昨夜より広く見えた。

 詰所の前を通ると、昨夜のふたりがいた。青い顔で、割れた板を運んでいる。戸口の衛兵が帳面ちょうめんを開いて、欠伸あくびみ殺していた。

 昨夜、赤く見えた通りの口は、ただの狭い通りだった。戸はどこも閉まって、石畳の水が乾きかけている。白粉おしろいの匂いは、もうしなかった。

 ギルドの依頼板には、今日も新しい紙が上から貼られている。

 僕は、いちばん地味な一枚に手を伸ばした。

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