第17話 暗い方へ
依頼板の前は、もう肩の触れ合う混みようだった。それでも、人より紙の匂いが先に立つ。
貼りたての紙の乾いた匂いの下に、湿って古くなった紙の匂いが折り重なっている。僕は列の後ろから、今日の一枚を探していた。
板の端に、寄りかかる男がいた。小柄で、肉の薄い体つき。歳は、古株のデュランさんと同じくらいか。日に焼けた手の甲に、細かい古傷が白く残っている。寄りかかるというより、板に体を預けて、腰を浮かせていた。
「ヤブだ」
声は後ろから来た。振り向くと、ムンドさんの盾が通路を半分塞いでいる。
「先日の、補助の」
紹介はそれで終わりだった。ムンドさんは受付のほうへ行ってしまい、残された男が、にっと笑う。よく通る、軽い声だった。
「あんたか。俺の穴、埋めてくれたってのは」
ヤブと呼ばれた男は、よく喋った。腰は板一枚の高さをしくじった、医者は歩けと言う、歩くと響く、響くから飲む――順番がおかしい気がしたが、口を挟む隙がなかった。
「で、礼がまだだ。今夜、一杯付き合え。奢る」
断る理由が、見つからなかった。
「……ごちそうになります」
「よし」
受付から戻ってきた隊とすれ違う。ムンドさんの隊の弓の男が、行きがけに言った。
「山鳩の羽、忘れんなよ」
「はい」
昼は、遠くへ行かなかった。北の裏斜面の手前で薬草を摘み、土の湿りが指先に残るうちに、日の傾く前の街へ戻った。
部屋で、革袋の中身をふたつに分ける。革の小袋へ百レムを数えて移し、千レムは一枚だけ。残りは布で包み直して、懐の奥へ入れた。
店は、東の通りの角にあった。先日、扉の外から笑い声だけを聞いた店だ。扉を押すと、油の灯りと煮込みの湯気と人の声が、まとめて顔に当たった。外より、空気が二枚ぶん厚い。
ヤブさんは飲みながらも、よく喋った。ムンドは頭が固い、けど仕事は硬い、俺の型をいまだに守ってやがる――そこで笑って、響いたのか、顔をしかめて腰を押さえた。
「そういや、聞いたぜ。妙な結びをする助っ人が居たって」
「……教わったのは、僕のほうです」
「そうかい」
煮込みは豆が多くて、肉は少なかった。うまかった。うまいです、と言うと、ヤブさんは「だろ」と、自分の手柄みたいに笑った。
果実酒は、薄いのを頼んだ。杯の縁が、手の中でぬるくなっていく。注がれれば口はつける。減るのは、話の切れ目だけでいい。
隅の卓から声が飛んだのは、二杯目の途中だった。
「ヤブ! 腰は駄目でも、賽なら振れんだろ」
「振れるとも」
立ち上がるのに、卓へ手をついていた。
骨の賽をふたつ振って、出目の高いほうが百レムを取る。それだけの単純な賭けだ。座らされて、僕も百レムから付き合った。
賽は使い込まれて、角が丸い。木の卓に落ちると、乾いた軽い音がする。小銭が寄せられ、擦れて、また散った。
負けて、負けて、時々勝った。
「兄ちゃん、今日はツイてるな」
「ありがとうございます」
誰かが笑い、卓が揺れて、賽が転がる。一度だけ、ヤブさんの目がこちらの手元で止まった。賽を置く、指の先で。すぐに、軽口が戻ってきた。
終わってみれば、手元の百レムは十枚と少し、増えていた。掌に、賽の粉っぽさが残っている。
厠に立ったついでに、それを親父の掌へ押し込んだ。親父は掌を見て、僕を見て、何も言わずに前掛けへ落とした。
外へ出ると、夜の風は、店の中より薄くて冷たかった。
どこかで閂の落ちる音がして、窓の灯りがひとつ消える。別の路地から、調子の外れた歌が渡ってきた。灯りより、声の多い夜だった。
「もう一軒」
ヤブさんの足は、迷いなくひとつの角へ向いていた。示された先――通りの向こうで、灯りの色が変わっている。油の橙ではない。赤みがかった、ぬるい色。灯りは石畳を舐めて、そこだけ夜が温く見えた。風に乗って、白粉と香油の匂いがする。女の笑い声。誰かを呼ぶ、歌うような声。昼の市場の笑いより、ずっとゆっくりした笑いだった。
何の通りかは、聞くまでもなかった。
「姐さんたちの顔を見て帰る。あんたも来るか」
「僕は、明日も早いので」
「なんだ、初心か」
ヤブさんは声を立てて笑い、それ以上は誘わなかった。
「妙な助っ人だ。ま、ムンドの言った通りか」
何と言われていたのか、聞く前に、ヤブさんは片手を上げて歩き出していた。ごちそうさまでした、と背中に言うと、上げた手だけが返事をした。
その背中は赤い灯りのほうへ溶けて、僕は、灯りの薄いほうへ歩き出した。
軒の灯りが、数えられるほどまばらになる。ひとつ過ぎるたび、自分の足音が大きくなった。石畳の冷えが、靴の底から上がってくる。赤い通りの声は、もう届かない。
怒鳴り声は、角の先からした。ふたつ、絡まっている。
冒険者だった。腰の剣はどちらも鞘の中で、掴み合い。千鳥足のぶつかり合いだから、見た目ほど拳は届いていない。人垣が薄く出来かけて、その後ろから、桶を抱えた婆さんが来る。
僕は、壁に立てかけてあった空き樽をふたつ、軒の下へ引いた。空いたほうに体を置いて、婆さんを先に通す。婆さんは、僕を見もしなかった。
組み合ったまま、片方が屋台の棚に突っ込んだ。板の割れる音が、路地の壁に跳ねる。
角の向こうで灯りが揺れて、衛兵の声がした。
僕は暗いほうへ折れた。名前を聞かれる並びに、立っていたくはなかった。
翌朝。
撒き水と朝の白い光で、通りは昨夜より広く見えた。
詰所の前を通ると、昨夜のふたりがいた。青い顔で、割れた板を運んでいる。戸口の衛兵が帳面を開いて、欠伸を噛み殺していた。
昨夜、赤く見えた通りの口は、ただの狭い通りだった。戸はどこも閉まって、石畳の水が乾きかけている。白粉の匂いは、もうしなかった。
ギルドの依頼板には、今日も新しい紙が上から貼られている。
僕は、いちばん地味な一枚に手を伸ばした。




