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僕の世界  作者: 0u0
第一章
20/27

第15話 紙の下

 朝いちばんに、わなを回った。

 夜露よつゆで下草が重く、踏むたびに、ブーツの先が冷たく湿しめっていく。息が、白く残る朝だった。

 一つ目は、空。仕掛けたときのまま、落ち葉をかぶって澄ましている。

 二つ目に、若いおす鹿がかかっていた。

 押さえて、短く終わらせる。いただきます、と手を合わせるかわりに、首筋を一度だけでた。前腰の小刀が、久しぶりに本来の仕事をした。血を抜き、腹の始末をする。きもだけ切り分けて、あとは土に埋める。刃を入れる場所も、力の要らない角度も、手が覚えている。枝にるして皮の内の熱を逃がすあいだに、水場で手と刃を洗った。

 三つ目の罠は、鳴っていた。

 低いうなり。ロープのきしむ音。

 焦げ茶の、硬い毛のかたまりがいた。穴熊あなぐま――にしては、大きい。前脚の爪が、指の長さほどもある。

 目が合った。

 白目まで、黒い。

 魔物だ。

 僕は半歩下がって、耳を澄ました。

 鳥は、鳴いている。こずえの上で、朝の続きをしている。

 それを確かめてから、あらためて、罠の中を見た。

 毛につやがない。腹の線が薄くて、あばらの形が、動くたびに浮く。倉をいくつも空にしてきた食い方の体じゃない。爪ばかりが立派で、それが余計に、せて見えた。

 風下に回って、周りの土を読んだ。足跡は、罠のやつを入れて――二匹。多くて、三匹。食い跡もふんも、それ以上の数を言っていない。この林にいるのは、それで全部だ。

 暴れて消耗しきったそれを、僕は短く終わらせた。

 静かになった林に、鳥の声だけが残る。

 爪だけを、布に包んで取る。今度は、最初から。

 それから、周りの踏み跡を辿たどった。連中の通り道は二本。どちらも、北の畑のほうへ抜けている。

 一本は、倒木を転がしてふさいだ。獣は、またぐより回り道を選ぶ。もう一本には、腰の後ろの袋から粉を出して、道なりに薄くいた。鼻のいい連中には、それで十分だ。においの変わった道と、餌場のそばで一匹消えた事実。残りは、この林に見切りをつける。

 岩陰いわかげの寝床へ戻って、灰をかき分けた。赤が、まだ残っている。

 細枝を足して、肝を串に刺す。あぶると、縁が縮んで、脂が落ちて、火が短く鳴った。熱いままかじって、指をめた。

 ベッドロールを巻き、罠を三つとも畳んで、鹿を担ぎ直して、僕は林を出た。


 帰りの街道は、行きより長かった。鹿の重みのぶんだ。

 肩を替え、腰で受け直し、白い石のところでひと休みして、また歩く。二つ目の村では、畑の農夫がこちらを見た。鹿と、僕と、鹿。それだけ確かめると、もうくわに戻っていた。

 東の門が見えてきた頃には、日が傾きかけていた。


 ギルドの前に、荷が積まれていた。

 討伐帰りの一団らしい。大の男二人がかりでも重そうな、角のある獲物を、先頭の男がひとりで引いて、石段を上がっていく。息も乱していない。積み荷の脇では、若いのが自分の頭より大きい袋を、片手で担ぎ直していた。

 ずいぶん、景気のいい狩りだ。

 僕は鹿を担ぎ直して、納品台のほうへ回った。


 納品台の職員は、鹿の腹の始末と、山鳩やまばとの羽の付け根を確かめて、小さくうなずいた。満額。受注証に判が落ちる。

 それから僕は、布包みをメルナさんの台に置いた。

 爪を見た彼女の手が、一拍、止まる。

「ザグルの爪かい」

「はい。南の林で、罠に」

「……例の騒ぎの、って顔をしてるね」

 例の騒ぎ。

 言われて、依頼板いらいばんの一枚が、頭の中で像を結んだ。群れ、推定二十以上。

 あの林に、二十。

 ……いなかった。それは、確かだ。でも。

 メルナさんは爪をつまんで光にかざし、それから僕を見た。短い、値踏みの間があった。

「言っとくけど、爪一匹ぶんじゃ群れの証明にはならないよ。討伐依頼とは別口だ。これは――」

「買い取り、ですよね」

 今度は、先に言えた。

 メルナさんは片(まゆ)を上げて、ふん、と鼻から息を抜いた。

「分かってるじゃないか。八百レム。文句は」

「ないです。ありがとうございます」

 革袋の中で、硬貨が鳴る。一万二千レムの隣だと、ずいぶん軽い音だった。

 それでも彼女は、足跡が二、三匹ぶんだったことを、伝票の端に書きえてくれたらしい。ペン先が小さく走るのを、僕は見ていた。上まで届くかどうかは、また別の話だ。


 宿の帳場ちょうばでは、エルマさんが帳面をつけていた。

「戻りました」

「あいよ。飯は」

「お願いします」

 それだけだった。階段を上がる僕の背中に、遅れて、湯は沸いてるよ、と声が届いた。

 夜、寝台しんだいに腰を下ろして、革袋の口を開けた。千レムが十五枚と、五百レムが一枚、百レムが三枚。宿を空けたぶん、いつもより減りが浅い。並べて数えて、しまって、それからあかりを消した。体の芯に、まだ歩いた日の火照ほてりが残っていた。


 数日後の朝、市場の野菜台で、ばあさんが隣の客と話していた。

「そういえば倉の話、ぱったり聞かなくなったねえ」

「犬も夜に鳴かなくなったって。荷運びの兄さんが言ってたよ、昼間っから腹出して寝てるって」

「さあねえ、何だったんだろうねえ。飽きて、よそへ行ったんじゃないかい」

 僕は芋を二つ買って、礼を言って、その場を離れた。

 帰りに、ギルドの依頼板の前を通る。

 あの討伐依頼は、まだそこにいた。

 ただし、新しい護衛募集の紙が上から貼られて、見えているのは右下の角だけだ。少し、日に焼け始めている。

 誰も、がさない。

 残りの一匹か二匹は、いまごろ別の林で、わらの中の虫でもあさっているんだろう。

 依頼板の紙が風にめくれて、角の下の古い文字を一瞬だけ見せて、また戻った。

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