第15話 紙の下
朝いちばんに、罠を回った。
夜露で下草が重く、踏むたびに、ブーツの先が冷たく湿っていく。息が、白く残る朝だった。
一つ目は、空。仕掛けたときのまま、落ち葉をかぶって澄ましている。
二つ目に、若い牡鹿がかかっていた。
押さえて、短く終わらせる。いただきます、と手を合わせるかわりに、首筋を一度だけ撫でた。前腰の小刀が、久しぶりに本来の仕事をした。血を抜き、腹の始末をする。肝だけ切り分けて、あとは土に埋める。刃を入れる場所も、力の要らない角度も、手が覚えている。枝に吊るして皮の内の熱を逃がすあいだに、水場で手と刃を洗った。
三つ目の罠は、鳴っていた。
低い唸り。ロープの軋む音。
焦げ茶の、硬い毛の塊がいた。穴熊――にしては、大きい。前脚の爪が、指の長さほどもある。
目が合った。
白目まで、黒い。
魔物だ。
僕は半歩下がって、耳を澄ました。
鳥は、鳴いている。梢の上で、朝の続きをしている。
それを確かめてから、あらためて、罠の中を見た。
毛に艶がない。腹の線が薄くて、あばらの形が、動くたびに浮く。倉をいくつも空にしてきた食い方の体じゃない。爪ばかりが立派で、それが余計に、痩せて見えた。
風下に回って、周りの土を読んだ。足跡は、罠のやつを入れて――二匹。多くて、三匹。食い跡も糞も、それ以上の数を言っていない。この林にいるのは、それで全部だ。
暴れて消耗しきったそれを、僕は短く終わらせた。
静かになった林に、鳥の声だけが残る。
爪だけを、布に包んで取る。今度は、最初から。
それから、周りの踏み跡を辿った。連中の通り道は二本。どちらも、北の畑のほうへ抜けている。
一本は、倒木を転がして塞いだ。獣は、跨ぐより回り道を選ぶ。もう一本には、腰の後ろの袋から粉を出して、道なりに薄く撒いた。鼻のいい連中には、それで十分だ。匂いの変わった道と、餌場のそばで一匹消えた事実。残りは、この林に見切りをつける。
岩陰の寝床へ戻って、灰をかき分けた。赤が、まだ残っている。
細枝を足して、肝を串に刺す。炙ると、縁が縮んで、脂が落ちて、火が短く鳴った。熱いまま齧って、指を舐めた。
ベッドロールを巻き、罠を三つとも畳んで、鹿を担ぎ直して、僕は林を出た。
帰りの街道は、行きより長かった。鹿の重みのぶんだ。
肩を替え、腰で受け直し、白い石のところでひと休みして、また歩く。二つ目の村では、畑の農夫がこちらを見た。鹿と、僕と、鹿。それだけ確かめると、もう鍬に戻っていた。
東の門が見えてきた頃には、日が傾きかけていた。
ギルドの前に、荷が積まれていた。
討伐帰りの一団らしい。大の男二人がかりでも重そうな、角のある獲物を、先頭の男がひとりで引いて、石段を上がっていく。息も乱していない。積み荷の脇では、若いのが自分の頭より大きい袋を、片手で担ぎ直していた。
ずいぶん、景気のいい狩りだ。
僕は鹿を担ぎ直して、納品台のほうへ回った。
納品台の職員は、鹿の腹の始末と、山鳩の羽の付け根を確かめて、小さく頷いた。満額。受注証に判が落ちる。
それから僕は、布包みをメルナさんの台に置いた。
爪を見た彼女の手が、一拍、止まる。
「ザグルの爪かい」
「はい。南の林で、罠に」
「……例の騒ぎの、って顔をしてるね」
例の騒ぎ。
言われて、依頼板の一枚が、頭の中で像を結んだ。群れ、推定二十以上。
あの林に、二十。
……いなかった。それは、確かだ。でも。
メルナさんは爪をつまんで光にかざし、それから僕を見た。短い、値踏みの間があった。
「言っとくけど、爪一匹ぶんじゃ群れの証明にはならないよ。討伐依頼とは別口だ。これは――」
「買い取り、ですよね」
今度は、先に言えた。
メルナさんは片眉を上げて、ふん、と鼻から息を抜いた。
「分かってるじゃないか。八百レム。文句は」
「ないです。ありがとうございます」
革袋の中で、硬貨が鳴る。一万二千レムの隣だと、ずいぶん軽い音だった。
それでも彼女は、足跡が二、三匹ぶんだったことを、伝票の端に書き添えてくれたらしい。ペン先が小さく走るのを、僕は見ていた。上まで届くかどうかは、また別の話だ。
宿の帳場では、エルマさんが帳面をつけていた。
「戻りました」
「あいよ。飯は」
「お願いします」
それだけだった。階段を上がる僕の背中に、遅れて、湯は沸いてるよ、と声が届いた。
夜、寝台に腰を下ろして、革袋の口を開けた。千レムが十五枚と、五百レムが一枚、百レムが三枚。宿を空けたぶん、いつもより減りが浅い。並べて数えて、しまって、それから灯りを消した。体の芯に、まだ歩いた日の火照りが残っていた。
数日後の朝、市場の野菜台で、婆さんが隣の客と話していた。
「そういえば倉の話、ぱったり聞かなくなったねえ」
「犬も夜に鳴かなくなったって。荷運びの兄さんが言ってたよ、昼間っから腹出して寝てるって」
「さあねえ、何だったんだろうねえ。飽きて、よそへ行ったんじゃないかい」
僕は芋を二つ買って、礼を言って、その場を離れた。
帰りに、ギルドの依頼板の前を通る。
あの討伐依頼は、まだそこにいた。
ただし、新しい護衛募集の紙が上から貼られて、見えているのは右下の角だけだ。少し、日に焼け始めている。
誰も、剥がさない。
残りの一匹か二匹は、いまごろ別の林で、藁の中の虫でも漁っているんだろう。
依頼板の紙が風にめくれて、角の下の古い文字を一瞬だけ見せて、また戻った。




