第14話 隣の一枚
日の低いうちに来たのに、依頼板の前は、いつもより空いていた。
理由は、板の真ん中に貼られた一枚だ。
ザグル討伐。群れ、推定二十以上。等級は下位。数日前から貼られたままで、紙の端が少し浮いている。
「二十だか三十だか知らねえがよ」
革鎧の男が、連れに顎をしゃくった。
「群れ相手に駆けずり回って、この報酬かよ。割に合わねえ」
「畑の番なんざ、犬にやらせとけ」
二人は笑って、護衛募集の紙の前へ移っていった。
僕は、その討伐依頼の隣の一枚を取った。
森鳥と鹿肉の納品。宿と食堂の、合同の依頼だ。期限は三日後の夕方まで。報酬は、一万二千レム。
地味な仕事にしては、いい値だった。街道の先へ行きたがる者が、いまは少ないからだろう。
それに、林で寝れば、宿代がひと晩ぶん浮く。
受付に出すと、メルナさんは紙と僕の顔を見比べた。
「罠は使えるのかい」
「はい。仕掛けたことは、あります」
「なら、いい。鳥は羽を汚すんじゃないよ。値が落ちる」
「気をつけます。ありがとうございます」
いったん宿に戻って、帳場のエルマさんに声をかけた。
「依頼で、ひと晩空けます」
「あいよ」
それだけだった。帳面に何か書きつけて、それきり顔も上げない。
部屋で、荷を整え直した。ロープの束、罠用の細縄、腰の後ろの粉袋。ひとつずつ指で触って確かめて、毛布とベッドロールの紐を締め直す。門前の井戸で水袋を満たしたら、支度は終わりだった。
東の門を抜けると、街道が朝陽に向かって延びていた。
最初のうちは、荷馬車と何度も擦れ違った。畑が続き、人の声があり、道の空気に土と藁の匂いが混ざっている。
昼は、街道脇の白い石に腰を下ろして、硬いパンを水で流し込んだ。長く歩く日は、休めるときに足を休める。陽は高く、道の先は、まだ遠い。
一つ目の村は、にぎやかだった。鶏が道を横切り、子どもが荷車の陰を追いかけ、井戸端で女たちの笑い声がしている。通り抜けるだけで、少し腹が空くような村だった。
二つ目の村を過ぎたあたりから、擦れ違うものが減っていった。
畑はまだ続いているのに、道に人が少ない。
その村はずれの畑の隅で、倉の戸板に、白い筋が三本走っているのが見えた。
爪の痕、だろうか。筋は白いが、縁のささくれはもう乾いて、灰色に古びかけている。昨日今日のものじゃない。
倉の脇には、座り古した切り株がひとつ据えてあって、その上に、鉈が置きっぱなしになっていた。刃が、朝の光を薄く返している。研いだばかりの光り方だった。
倉の前には犬が繋がれていて、僕が通り過ぎるあいだ、吠えもせず、低く唸り続けていた。夜通し何かを見張っていたような、掠れた声だった。
日が傾き始めた頃、街道を南へ逸れた。
下草を分けて雑木林に入ると、道の音が消えて、代わりに葉擦れと、遠い水音が立った。木漏れ日が斜めに長い。じきに、踏み跡が見つかった。人のものじゃない。土の抉れが浅くて、間隔が細かい。
しゃがんで、匂いを確かめる。糞は乾きかけ。齧られた樹皮は、まだ白い。
鹿は、いる。そう遠くもない。
陽のあるうちに、と手を動かした。
一つ目は、水場への降り口。土手の傾きで、獣が足を置く場所がひとつに決まるところだ。二つ目は、獣道の分かれ目。三つ目は、糞がいちばん多い、通い慣れた道筋の途中に。
くくり罠は、輪の高さで獲物が決まる。枝のしなりを確かめ、輪を蹄の運びに合わせ、落ち葉をかぶせ、風下に回って自分の匂いを消す。ロープを結ぶ手は、考えるより先に順番を進めていく。仕掛け終わる頃には、手のひらが土と樹皮の匂いになっていた。
水場の張り出した枝に、山鳩が一羽下りてきたのは、その帰りだった。石をひとつ拾って、息を合わせて、投げる。羽音より先に、落ちた。羽は汚していない。拾い上げると、まだ温かかった。ごめん、と小さく言って、腰の紐に提げた。
獣道から離れた岩の陰に、寝床を決めた。
風が獣道へ抜けない側だ。地面の石をどけて、乾いた枯れ葉を厚めに掻き集めて敷き、その上にベッドロールを広げる。リュックは頭側に、肩紐をこちらへ向けて置く。夜中に何かあれば、掴んで背負うまでが一動作で済む向きだ。
それから、枯れ枝を集めた。太いのと細いのを分けて、いちばん細いのは、さらに手で裂いて毛羽立たせる。右前のポーチから火打石と火口を出して、膝の間で構えた。
打つ。火花が散って、消える。二度目も、消える。三度目の火花が火口の端に赤く残って、僕はそこへ、細く長く、息を送った。赤が育つ。毛羽立てた枝に移して、囲いの中へ。細い枝から太い枝へ、火が順番に太っていく。
石を三つ並べて風を切り、炎は低く、煙は細く。
干し肉を串に刺して、炙る。薪の爆ぜる音と、梢の擦れる音のほかは、何もない。
炙った肉を、火の世話をしながら齧る。水袋の水で流し込むと、塩が、歩き通した体に染みた。
食べ終えると、火明かりの届く手元で、罠用の細縄を綯い足した。使った分の輪の替えだ。指先だけが働いて、頭は空いている。肩の力が、いつのまにか抜けていた。
夜が深くなると、林の音が入れ替わった。昼の鳥が黙り、代わりに、羽音の重い何かが一度だけ頭上を渡っていく。遠くで、枝の折れる音。どれも、覚えのある種類の音だった。
森の夜は、静かで、嫌いじゃなかった。
火を熾まで落として、毛布を肩に、木の根元へ背を預ける。眠りは浅くていい。浅いくらいで、ちょうどいい。
――どれくらい経った頃か。
罠の方角で、短い音がひとつ、鳴った。
枝の跳ねる音と、ロープの張る音。それきり、静かになる。
僕は目だけ開けて、熾の赤を挟んだ暗がりを、しばらく見ていた。夜の林で、かかったばかりの獲物に近づくことはしない。暴れている最中がいちばん危ないし、血や汗の匂いに、別の何かが寄ってくることもある。
確かめるのは、朝だ。
毛布を引き上げて、僕は目を閉じた。




