第13話 持ちこたえる
ギルドの扉を開けると、まだ人はまばらだった。床板が夜のぶんだけ冷えていて、外套の前は留めたままでいる。奥で、卓を拭く布の音。昨日の泥が乾いて、点々と剥がれかけていた。
僕は依頼板の前に立って、貼り出された紙を上から順に眺めていく。実入りのいいものは、たいてい、僕より上の冒険者向けだ。小型の魔物討伐、長い護衛、魔物領に寄った調査――どれも、僕みたいな一般の新人には、まだ回ってこない。指でなぞるだけで、そっと通り過ぎていく。
その中に一枚だけ、僕にも手の届く紙があった。荷馬車一台ぶんの荷を、街道沿いの村まで運ぶ、荷運びの依頼だ。
紙には、荷積みと荷下ろし、それから道中の荷の見張り、と書いてあった。護衛は別に付くらしい。
「はいはい、荷運びね」
受付のメルナさんが、帳簿から目も上げずに紙を受け取る。相変わらずの塩対応だ。
「護衛は場数を踏んだ連中だよ。半日で戻ってこられる。あんたは荷と馬のそばを離れず、言われたことだけきっちりやっておいで」
「はい。ありがとうございます」
依頼受注証を懐にしまって、僕は集合場所へ向かった。報酬は、荷運び一件ぶん。宿代と食い扶持を引けば、今日もほとんど残らない。次の街へ移るための金は、いつまで経っても、目標には遠かった。
依頼主は、街をまわる行商人だった。三人組の冒険者が、その荷馬車の前で、もう出発の支度を終えている。
上位ってほどじゃない。ただ、身なりや足取りを見た感じ、僕よりはずっと場数を踏んだ連中だろう。剣に、槍に、弓。役割もきちんと分かれている。同じ荷馬車に付いていても、彼らの仕事は護衛で、僕の仕事は荷運び。受けている依頼が、そもそも別口だった。
「坊主、お前は荷と馬から離れるな。あとはこっちでやる」
「はい」
街道を東へ、荷馬車はゆっくりと進んでいく。僕は御者の隣に乗って、荷崩れがないか、時々、後ろを振り返った。低い丘と、乾いた草の匂い。穏やかな道行きだった――脇の茂みが、爆ぜるように鳴るまでは。
飛び出してきたのは、一頭の猪だった。
僕の腰ほどもある、大きな体。荒い鼻息。牙を低く構えて、茂みから馬の腹へ、一直線に向かってくる。
「魔物か!」
三人組のひとりが、剣を抜きざま叫んだ。
けれど、荒く血走ってはいても、その目は、ただの獣の色をしていた。以前に見た、あの白目まで黒く塗り潰したような魔物の目とは、まるで違う。腹を空かせて気の立った、手負いの猪だ。
違います、と言いかけた。僕が言うより早く、剣士のほうが自分で気づいた。
「なんだ、ただの獣か! 手負いだぞ、油断すんな!」
三人は、荷馬車の前方にいた。回り込むには、遠い。猪にいちばん近いのは、僕だった。
御者台を滑り降りて、馬の鼻先と猪のあいだに立つ。半身に開いて、猪の目と馬のあいだへ、体を半歩ぶんだけ差し込む。
牙の先が、こちらへ振れた。
振れた瞬間、路肩側へ退く。牙が外套の裾を掠めて、大きな体は、逸れた線のまま、街道の真ん中へ抜けていった。
抜けた先には、もう三人が回り込んでいた。剣士が正面から牙を受け流し、槍が脇腹を突く。弓が、反転しようとした一瞬を逃さず射込んだ。
僕には、そちらを見ている暇がなかった。馬が前脚を跳ね上げていた。目と鼻の先を、あの体が駆け抜けたのだ。無理もない。荷馬車ごと横へ流れて、あと少しで、車輪が路肩の溝に落ちるところだった。
手綱ごと轡を掴む。暴れる馬の首筋に体を寄せ、声を低くして宥める。
「どう、どう。……大丈夫、大丈夫」
路肩へ向きかけた頭を、少しずつ、街道の内側へ戻していく。馬の脚が鈍った隙に、荷台へ回った。傾いた荷台では、木箱が縄を押し広げていた。片手で縄を掴み、膝で荷台を押さえて、崩れかけた箱を、なんとか元の位置へ押し戻す。
馬が、ようやく脚を止める。
荷台の縄は、一本も切れていなかった。木箱も、ひとつも落ちていない。荒い息をつく馬の首を撫でながら、僕は、詰めていた息をゆっくりと吐いた。
猪は、もう動かなくなっていた。
「おい坊主、死にてえのか! 棒立ちしてんじゃねえ!」
猪の始末をつけながら、剣士がこちらを振り返りもせずに怒鳴った。
「すみません。馬を押さえようと思って、つい」
「……ったく。よし、荷は無事だな。しっかり見とけよ」
「はい」
村で荷を下ろし、街道を引き返して、日が傾くころ、ギルドに戻った。
カウンターの向こうで、三人組が依頼の完了を報告している。査定官が受注証をあらため、道中で手負いの猪を退けたことも、しっかりと書き留められていく。上々の首尾ですね、と受付の声が明るくなる。
その隣で、僕は、自分の受注証を出して、荷運びの報酬を受け取った。千レムが、六枚。
革袋に落として、口を縛る。いつもより、少しだけ、固く縛った。
……腹が減った。そういえば、昼から何も食べていない。
その晩、定宿の食堂で煮込みを頼むと、隅の卓からデュランさんが手を挙げた。
古株の一般冒険者だ。四十絡みの、槍使い。日に焼けた顔に、髭の白いものが混じっている。色が抜けるほど使い込んだ革の胸当ては、けれど留め具だけがどれも新しくて、ぞんざいに生き延びてきた傷み方には見えなかった。ハルヴェンには、もう長いという。
運ばれてきた椀を持って、僕は向かいに腰を下ろした。
「聞いたぞ。猪が出たんだって」
「はい。このくらいの、大きいやつで」
両手で、幅を作ってみせる。少し、大きく出たかもしれない。
「護衛の人たちが、あっという間に仕留めてくれました。荷も、無事です」
「で、馬は」
「……暴れました。押さえるのが、大変で」
「だろうな」
デュランさんは、ああ、と短く笑った。木の椀を傾け、底に残った汁を一口すすった。
「獣でも魔物でも、出た日の運び手は割に合わねえんだ。馬は荒れる、荷は積み直しだ。で、日当は、出なかった日と同じときてる」
「……はい。まさに、それでした」
思わず本音が出て、少し笑ってしまった。デュランさんも、口の端で笑った。それから、こともなげに続けた。
「俺も十年ここだ。お前だけじゃない」
十年。
匙を持ったまま、思わず顔を見た。
「十年……長いですね」
「長えよ」
それだけだった。
僕は煮込みに戻った。骨付きの肉を匙で崩すと、湯気がほどけて、顔に触れた。ひと口すくう。……うまかった。今日のぶんの味が、ちゃんとした。
縄は切れなかった。箱も落ちなかった。馬も、荷も、僕も、今日をちゃんと持ちこたえた。
デュランさんは、これを、十年。……気の遠くなる話だ。
でも、椀の煮込みは、まだ半分残っている。明日の依頼は、明日の朝に選べばいい。




